裕揮−2
「荷物、これで全部か?」
俺はその言葉に無言で頷く。
「よし、じゃあ行くか」
もう一度頷いて、俺はスーツを着たその背中に続いて病室を出た。
ナースステーションに寄って、俺の担当だった新田さんに挨拶をして、俺の衣類や洗面用具の入った袋を持ってくれている『てっしさん』と並んでエレベーターに乗った。
何で晴れの退院の日に、この人と二人で病院を出なくちゃいけないんだ。俺は不機嫌を隠せない。でも仕方がない。俺は金を持っていないし、一葉はもうとっくに有給を使い切ってしまった。
一階に着くと受付まで行き、「座って待ってな」と言われたのを、俺がささやかな抵抗として立って待っている間に会計を済まされた。
金って強いですね。そう声をかけたいのを必死に我慢して、一緒に病院の出入口となっている自動ドアを潜った。
寒い……あの日、
「裕揮、こっち」
促されて駐車場へ連れて行かれ、やけに近未来的な車に乗らされた。
どうやってやったのかわからないほど、まるで生き物のように自動的に車は目を覚まし、滑るようにその体躯を走らせ道路へと出る。
俺は車に乗り込んでからも、ずっと黙っていた。
こういった狭い空間で、慣れない相手との沈黙が続くことほど人間にとって大きなストレスは無い。だから、この男もそのうち何か喋りだすだろうと思っていた。でも意外なことに、俺の隣でハンドルを握るこの男……いや、俺は明日からこの人のもとで働くことになったのだから、もう呼び方としては『社長』だ。は、何も言わずに黙々と車を走らせていた。
この前、俺が言ったことに対して腹を立てているのだろうか。それとも大人の余裕ってやつ?まあ、どうでもいいけど。俺は会話なんてなくても全然、平気だ。慣れている。
俺の周りには昔から余り人が寄ってこない。理由は簡単だ。俺がほとんど喋らないから。人は一葉のように、自分に興味を持ってくれて、自分からどんどん話題を振ってくれる人間が好きだ。おおかた、この男もそのクチだろう。
でもみんなは知らない。あんなにいつも人に囲まれて笑ってばかりいた一葉が、実は心の中は誰よりもずっと『一人ぼっちにされる』不安でいっぱいだったことを。あいつの生い立ちも関係しているのかも知れない。一葉の『一人ぼっち』に対する恐怖は異常だった。
だから一葉を俺に依存させるなんて簡単だったんだ。俺は絶対におまえを一人にはしない、ずっと側にいるよと、態度で示せばよかったのだから。
でもまさか、一緒に暮らそうとまで言い出すとは思わなかった。俺は自分の理性がどこまで持ち堪えられるのか自信が持てないまま、卒業というタイムリミットに焦って一葉と一緒に暮らすことを承諾してしまった。そしたら、このザマだ。俺が意識を失っている間に、一葉はあっさりと新しい依存先を見つけている。それが、この男、『てっしさん』だ。
「もうすぐ、着くから」
『てっしさん』こと、社長がやっと口を開いた。
俺は今日から、社長の会社の寮に入ることになっている。寮だなんて、白々しい。どうせ、俺と一葉を引き離すために社長が自分で用意したんだろう。
引っ越しは俺が入院している間に、一葉と社長で済ませたと言っていた。一葉は、寮から歩いて5分のところに住むらしい。何もかも社長の思い通り。イラつく。この状況すべてにイラつく。なんで俺は今、こんなところにいるんだ……。
悔しさで目を閉じた瞬間、車がスッと音もたてずに停止した。
ハッとして顔を上げると、俺の顔のすぐ横、ウインドウ越しにタイルを貼った塀がある。社長がハザードランプをつけたまま車を降りた。どうやら寮に着いたらしい。
「このマンションの二階だから。オートロックにはなってないから戸締まり、気を付けろよ」
俺は塀に車のドアをぶつけないようにして助手席から降りると、マンションに入っていく社長の後を追った。
二階建ての低いマンションはエレベーターもついていない。階段を上って手前から二つ目の部屋に鍵を差し込むと、社長は扉を開けて手で押さえたまま俺の方を見た。入れよ、ってことだ。
そんなどうでもいい仕草にいちいちイラつく自分にイラつきながら、俺は中に入って靴を揃えフローリングの床を踏んだ。
どこにでもあるような、オーソドックスなワンルームだ。8畳ほどのフローリングに狭いキッチン、トイレとお風呂が一体となったユニットバス。
一葉と二人で暮らし始めるとき、内見で不動産屋に連れられて何件も回り、「やっぱり二人でワンルームは狭いよね」と除外した方のやつだ。
ただあの時と決定的に違うのは、ここがただ狭いか広いか確認できればいいような、空っぽで温もりのない空虚な空間ではなく、今日から暮らせるだけの家具や電化製品などが既に揃った、生活感のある部屋になっているってことだ。
「前の家で一葉と共用してたものは、全部一葉の方に運んだからな。こっちは全部、備え付けだから」
社長が言った。うそつけ。自分で揃えたくせに。
「裕揮の私物は全部一葉が荷造りして運んだから。ほら、そこに。まだ荷解きしないでそのまま置いてあるよ」
そう言って社長が目を向けた先にはダンボール箱が三つ、積まれている。自分は一切、触ってませんって?いいよ、そんなに気を使わなくても。
「出社、明日からでいいか?」
さすがにその質問に対して無視をするわけにはいかず、俺は重たい口を開いて「いいですよ」と答えた。
「うん、じゃあ……」社長はベッドを寄せてある壁とは反対側の壁の、高いところに掛けてある丸い針時計に視線をやると、「明日は取り敢えず俺が迎えに来るよ。ちょっと早めがいいな。8……ん〜7時45分には下に降りて待っていて欲しい。服装は自由。持ち物は筆記用具くらいかな。お昼は会社持ちで宅配が頼める。仕事の説明は明日。あと他に何か質問は?」と口早に言うと、俺の顔を見た。
「……いえ」
俺が目を合わせずに答えると、「じゃ、俺は帰るよ。何かあったら電話してくれ」と無駄話は一つもせず、社長はさっさと部屋から出ていった。
電話……俺は自分の上着のポケットから、最新式のスマホを取り出すとそれをじっと眺めた。前に使っていた古いガラケーは、使用料が勿体無いからと、入院中にとっくに一葉によって解約されていて、これは仕事をする上で必要だからと社長に『貸与』されたものだ。本当に金はあるところにはある。俺はそのスマホの電源を切ると、ベッドの上に投げ出した。
何時間そうしていたんだろう。ベッドに寝転んでぼんやりと考えごとをしていると、玄関チャイムが鳴った。
誰だ?と身を起こしてモニターを確認して、あれ、もうそんな時間か、と頭をグシャグシャ掻きむしりながら玄関のドアを開ける。
「退院おめでと〜寝てた?」
一葉がニコニコしながら入ってきた。
「なんか、ぼ〜っとしてた。もう仕事、終わったんだ」
「仕事、終わったうえにご飯作ってきたよ。どうせ食べてないでしょ?」一葉が胸の前に、両手で持った鍋を少し持ち上げてみせる。
あ……そういえば腹減ってる。「ご飯食べるの忘れてたわ」
「ほら〜裕揮は一人にしとくとこれだからね」まるで世話焼きおばさんみたいに言うと、一葉は俺を押し退けて、自分の部屋でもない部屋にズカズカと上がり込んだ。
そして、部屋の中央に置いてあったローテーブルに持ってきた鍋を置くと、「ちょっと!まだ荷解きもしてないの?」と言っていつもの見慣れたリュックサックを背中からおろし、部屋の隅に積み上げられたダンボールのガムテープを剥がす。
「食器、どれに入れたっけな〜。あ、これだ」
一個目の箱でヒットした一葉は嬉しそうにダンボールの中から、一つずつ新聞紙にくるんだ食器を次々取り出すと床に並べた。俺はそんな一葉をただ頭を掻きながら黙って眺めていた。
一葉の作った鍋焼きうどんを、俺の新居で二人で食べて、一葉が入居したマンションの詳しい場所を聞き、これからもバイトのない日は一緒にご飯を食べようと約束した。まだバイト続けるつもりなのかと訊いたら、お金貯めたいからね、と言って一葉は少し笑った。そして、鍋焼きうどんの冷めない距離っていいよね、と言って、俺がそうだね、と答える前に、一葉は俺にキスをした。
俺はちょっと、びっくりして、一瞬呼吸が止まったけど、すぐに肩の力を抜くと、一葉の動きに合わせてその舌に自分の舌を絡ませた。そのまま股間を撫でられ、口を耳元に寄せられる。
「俺のリュックの中に、ゴムとローションあるよ」
一葉が囁いた。そうだね。鍋焼きうどんの冷めない距離っていいよ、一葉。
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