哲志−9
「一葉」
それまで一言も喋らなかった裕揮が初めて口を開いた。
「え?」
「眠い」
裕揮はそう言って、ベッドの上から抱っこをねだる赤ちゃんのように一葉に向かって両腕を伸ばす。
「あ、うん」
一葉が椅子から立ち上がり、俺の渡した手提げ鞄を代わりに椅子の上に置いて裕揮に近づくと、裕揮は吸い付くように一葉のお腹に顔を埋めてその腰に抱きついた。一葉はそんな裕揮の髪を優しく撫でる。まるで恋人同士のように。
「じゃあ俺は帰るよ」
二人の世界から締め出された形になった俺は、小さく肩をすくめると、さっさと退散しようと踵を返した。
「あっ、ごめんね、てっしさん。ちょっと裕揮、離れて。俺、てっしさん下まで送ってくるから」
一葉が裕揮を引き剥がそうとするが、裕揮は一葉の腰に回した腕を離さない。
「裕揮!」
一葉が困ったような声を出す。
「いいよ、ここで。裕揮はそれ、体に障るようならすぐじゃなくてもいいからな。特に期限設けてないし」
俺がテーブルの上に置いたノートパソコンを指差しながら、そう声をかけたとき、裕揮の腕と一葉のお腹の隙間から、チラッと片方だけ出した裕揮の目が初めて俺の目とかち合った。
――ゾッとした。
「じゃあな」
俺はそそくさと病室を後にすると、廊下で一度立ち止まって振り返った。何だ……あれは。
裕揮が目覚めて数日後に、俺は一葉からメールをもらっていた。
『裕揮には、てっしさんのこと、ただ俺たちに同情してくれて助けてくれてる人って言ってあるから。俺が体を売ってたことは内緒ね』
でもさっきの裕揮の目は、確実に俺のことを敵だと認識している目だった。まるで一葉を奪われまいと、必死で威嚇するような。
一週間後、俺は進捗状況を覗きに裕揮の病室へ行った。
一葉は居なかった。裕揮はベッドの上でスースーと息を立てて寝ている。
ベッドに渡したテーブルの上には、俺が先週持ってきたノートパソコンとテキストが並んでいた。
綺麗な顔してるよな……。眠っている裕揮の顔に、つい見惚れてしまう。先週より、更にふっくらとして、だいぶあの、あおば園で見た写真の顔に近づいたようだ。
いやいや、見惚れている場合じゃない。俺はパソコンの蓋を開けて電源を入れた。
「これは……」
画面を開いて驚いた。完成している?のか?たった一週間で……。
「ちゃんと出来てる?」
背後から声がして、俺はハッと振り返った。見ると、裕揮が目を開いて俺の顔を見つめている。
「あ……」俺はなんとか動揺を鎮めた。
「まだ会社に帰ってちゃんとエンジニアに見てもらわないとわからないけど」
俺が言うと、裕揮は大して興味も無さそうに「ふう〜ん」と言って、寝返りをうった。
俺はパソコンを閉じて、「これ、やってくれたってことは入社の意思があるってことでいいのかな」と、もう俺からはそっぽを向いている裕揮の背中に向かって訊ねた。
「うん、いいよ。一葉が、そうしようって言うし」
あくまでも一葉の為か……まあ、いいけど。俺はパソコンを小脇に抱えて「じゃあ、これ持っていくな」と声をかけた。
「ねえ。あんた、ゲイなの?」
突然、裕揮に言われて、俺はパソコンを落っことしそうになった。
「え……どうして?」
「あんたが」
裕揮が俺に背を向けたまま食い気味に喋りだす。
「あんたが金をばら撒いて一葉の体を買おうが俺たちの人生を変えようがさ。そもそも俺たちみたいな社会の最下層にいるような歪んだ人間がまともな生活送るには、あんたが暇つぶしにやる人生ゲームのコマになるしか無いんだよ」
意外と喋るんだな、と一瞬どうでもいいことを考えたのは、内容が頭に届くまで時間がかかったからだ。
人生ゲーム?金をばら撒く?俺は、そんなことをしているか?
「一葉も、そう言っているのか?」
俺は裕揮に訊ねる。その声は、自分でも信じられないくらい緊張で硬くなっている。一葉も、裏では俺のことをそう思っているんだろうか。
「言ってないよ。言うわけないだろ。あいつはただの善人。体を売ってたんだろうなっていうのもあんたが買ってたんだろうなっていうのも単なる俺の想像」
裕揮はそう言うと、もう帰ってと言わんばかりに掛け布団を顔が半分かくれるくらいにまで引き上げて目を閉じた。
何か反論しなければ、と思った。でも何も言えなかった。
俺は敗者の気持ちでリングを後にした。
カタカタとパソコンのカーソルキーを叩きながら数十秒間画面を凝視しただけで、塚本くんはパタンと蓋を閉じ、「まさか脂の乗った四十代のベテランプログラマーでも引き抜いたんですか?」と俺をチラリと見て言った。
「いや、フレッシュな19歳の新人プログラマーだ」
俺が答えると、土曜日だというのに休日出勤をして仕事をしていた天才エンジニアは、ふむ、と視線を前に戻し、「まあ、いいでしょう。合格です。即戦力になりますよ」とチェックし終わったノートパソコンを俺の方に差し出した。
塚本くんのことだから、少し意地悪な問題を作ったのだろうに、あっさりクリアされた悔しさなど微塵も見せずに、彼は自分のデスクのパソコンに目を戻し、自身の仕事に集中した。
即戦力……俺はパソコンを受け取りながら、本当にこのまま話を進めていいのだろうか、と考えていた。
思ったよりも、さっきの裕揮の言葉が胸に刺さっている。裕揮たちからしてみれば、俺はそんな人間に見えているのだろうか。確かに俺は割と裕福な両親の元に産まれ、大人になってからも生活に困ったことなど無い。所詮俺とあの二人の間には、見えない深い溝があるのだろうか。
さっき数分、話を交わしただけなのに、裕揮は、俺と一葉の間に築いた信頼関係も、二人をなんとかしてやりたいという俺の義侠心も見事に揺さぶった。
「大丈夫ですか?」
気づくと塚本くんが手を止めて俺の顔を見つめている。彼は他人に興味がないように見えて、実は微妙な感情の揺らぎに敏感だ。
「俺、そんなに顔に出てる?」
「まあ……」
塚本くんが、表情を変えずに言った。思わず硬くなっていた何かがほぐれる。
「大丈夫。俺、頑張るわ」
俺が笑うと、「まあ、ほどほどに」塚本くんは再びパソコンに目を戻した。そしてそれ以上、何も突っ込んではこない。俺は彼のこういうところが好きだった。
そうだ、頑張ろう。自分と周りを信じよう。裕揮は俺に気づかせてくれた。
俺が挑戦していることは、パズルじゃない。でも暇つぶしに、ゲームをしているわけでもないんだ。
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