哲志−8

 俺が病室のカーテンを覗くと一葉はもうそこにいて、ベッドで寝ている裕揮を丸椅子に腰掛けて心配そうに見つめていた。

「様子どう?」

 カーテンの隙間に体を滑り込ませながら声をかけると、一葉はハッとしてこちらを見たあと、ほっとしたように少し笑った。

「意識は戻ったみたい。でも色んなところの筋力が落ちちゃってて起きていられないみたいで、これからリハビリしながら少しずつ元に戻していくってさ」

 一葉が裕揮の顔に視線を戻した。裕揮はまだ眠っているようだったが、呼吸器は既に外されている。

「そうか……良かった」

 俺は胸をなでおろすと、「じゃ、今日はもう帰るな」と手を上げた。

「えっ?!」

 一葉が、思わずしーっと人差し指を口元に当てたくなりそうなくらいの大声を出した。

「もう、帰っちゃうの?」

 自分でも場違いな声を出してしまったと気づいたのか、今度はうんと音量を下げた声で俺に訴える。

「午後から会議なんだ。顔見れて安心した。また来るよ」

 一葉は今日はもうこのまま仕事を休むつもりだろう。俺は先にお暇して、二人っきりにしてあげよう。と気を利かせた感を出してみるが、何のことはない、俺は仕事を休めないのだ。社長は辛い。と心の中でため息をついて病室を出る。

 エレベーターホールに向かって歩いていると、「てっしさん!」一葉が走って追いかけてきた。「下まで送る」

 二人でエレベーターに乗り込んで、ドアが閉まり、密室になったところで一葉がぽつりと呟いた。

「裕揮……俺のこと許してくれるかな」

 何のことを言っているのかは、すぐにわかった。

 一葉は、裕揮がこんな状況に陥ってしまったのは、自分が一人ぼっちになることを恐れるあまりに裕揮を思いやれず、追い詰めてしまったことが原因だと思っている。でも俺に言わせれば、自分の人生を投げ売ってまで一葉に執着していた裕揮にも問題はある。ヘビ男くんも、やり方に問題はあったものの、ある意味、二人の関係性に巻き込まれた被害者だ。でも今はもうそんなことを言っても仕方がない。

 エレベーターが一階に着いた。

 俺は先にエレベーターを降りると、続いて降りてきた一葉に「ここでいいよ」と制したあと、「誰だって一人にされるのは辛い。あんまり気にすんな」と頭をクシャと撫でた。

 一葉は一瞬びっくりした顔をして俺の顔を見つめていたが、その後フニャと表情を崩すと下を向いた。

 そして、「てっしさん、もう行って!俺、泣いちゃうから!」と俯いて言うその声はもう震えている。

「はい、はい」

 俺は笑いながら手を一葉の頭から除けると、そのまま出口に向かって歩き出した。

 一度だけ振り向くと、そこにはまだ俯いたままの一葉がこっちに頭頂部を向けて立っている。きっとあの下は涙でグシャグシャだ。

 良かったな、裕揮が無事で。心の中で呟く。

 そして病院から出たところで俺は気持ちを大きく切り替えた。

 さあ、これから、ちょっと気張らねば。まずは会議だ。


「塚っちゃ〜ん」

 無事会議が終わり、みんな銘銘にコーヒーを飲んだりしてくつろいでいる中、俺はエンジニア班のデスクに近づきながら、もうパソコンのキーボードを叩いている塚本くんに声をかけた。

 塚本くんはチラと俺の方を見たあと、何も言わずに再びパソコンの画面に視線を戻す。

「無視すんなよ〜」俺は、わざとらしく拗ねるような声を出した。

「社長がそういう声を出すときはろくな事が無いんですよ」

 やっと喋ったかと思えばこれだ。

 でもこれが塚本くんの通常運転であることはわかっているので、俺が動じることなど全くない。

 我社が誇るシステムエンジニアの塚本くんは、愛想は悪いが腕はいい。他人に対して無愛想になってしまうのは、彼が3次元よりも2次元をこよなく愛しているからであって、そこは仕方がない、というのが社内全体での共通認識だ。というと、コミュニケーションに問題が生じてしまうのではないかと心配してしまいがちだが、彼の仕事におけるコミュニケーション能力はすごぶる高い。顧客の要望をいち早く理解し、自社の持つスキルとすり合わせ素早く最善の策を提示できる。スキル自体を底上げする能力も進化のスピードが半端ない。新しい情報や世の中のニーズというものに対するアンテナの感度がするどいのだ。そして、ひきだしの多さに加えて独創性も併せ持つ。彼こそ、S(システム)E(エンジニア)ならぬ、S(スーパー)S(システム)E(エンジニア)だ。

「プログラマーを一人、増やそうと思ってんだよね」

 俺はキーボードを叩き続ける塚本くんに構わず話し始めた。

「今のままで十分足りていると思いますが」

 塚本くんが手を休めずに答える。

「いや、でもさ。納期が迫ってきたりミスが見つかったりするとみんなに残業させちゃったりして無理させちゃうことあるじゃん?そういうのさ、ちょっとでも解消しようかな〜って思ってね」

 俺よりも一つ歳下である若きエンジニアに、俺は机の横に座り込んで子どもが母親にねだるような姿勢で下から覗き込みながら言った。

「はあ……まあ、社長がいいならいいですけど」

 よし、きた!ここからだ!

「でさ、塚っちゃんになんか入社テストに使えそうな問題作って欲しいんだよね。初心者でもわかりやすいやつ」

「初心者入れるつもりですか?」

 塚本くんの眼鏡の奥の目がギロリとこっちを睨んだ。

「いやいやいや、初心者っていうか、だから即戦力になりそうかどうか力量がわかるようなさ、ちょっと難しくてもいいんだけど、そういうやつ」

 俺は慌てて取り繕う。危ない危ない。塚本くんをその気にさせなければ意味がない。

 塚本くんは、はあ〜と大きなため息をつくと、「僕、忙しいんですよね」と、眼鏡を右手の中指で押し上げながらにべもなく言った。うん、そう来ると思ったよ。ということで俺は奥の手を出すことにした。

「そういえば塚っちゃんさあ、限定モノの美少女フィギュア探してるらしいじゃん」

 塚本くんのキーボードを打つ手がピタッと止まった。

「なんだっけ?確か魔法少女なんとかっていう……」

「魔法少女ゆめか10thアニバーサリーうさみみバージョン7分の1スケール」

 塚本くんが早口でスラスラと答える。そして何かを期待するように指がぷるぷる震えだす。

「そうそう、それ!俺の知り合いでフィギュアコレクターがいるんだけどさあ、ソレ、一応手に入れたものの未開封のまま置きっぱなしになっちゃってるみたいで、誰か1.5倍くらいの値段で引き取ってくれないかなあって言ってるんだけど」

「買い……いえ、やります」

 塚本くんの眼鏡がキラリと光った。さすがS・S・Eだ。


「よっ」

 俺は声をかけながら裕揮の病室に入っていった。

「てっしさん!」

 嬉しそうな声をあげたのは一葉だ。今日は土曜日だから、夕方からのバイトまでは時間があるのか。そして、その傍らには…………裕揮が起きてる〜〜〜っ!!

 裕揮はベッドの上半身を斜めに起こして、そこにもたれかかって目を開けていた。

 二週間程前、裕揮が起きたと一葉から電話をもらったときと比べると、少しふっくらとして顔色も良い。髪も綺麗にカットしてもらったようだ。

 イ、イケメン……俺は思わず興奮してしまう。いやいや、落ち着け。今日、訪ねてきた用件を思い出すんだ。

「てっしさん、ずっと来てないっていうからもう来てくれないのかと思っちゃったじゃん」

 口を尖らせる一葉に、「ごめん、ちょっと忙しかったんだ」と言いながら、俺は手にずっしりと負荷をかけている重たい二つの手提げ鞄を床におろした。そう、忙しかったんだよ、色々と。

「何、それ?」

 床の荷物を目ざとく見とめて一葉が訊ねる。

「いや、ちょっと。それより裕揮の会社、電話してみたか?」

「え?いや、まだだけど……裕揮が入院したときに『退院するまで休みます』って言っておいたけど」

「解雇されてたぞ」

「ええっ?!」

 一葉が大声をあげた。さっきからずっと、俺と喋っているのは一葉だ。裕揮は一言も発せず表情も変えない。

「何それ?酷い!従業員を何だと思ってんだよ!」

 目をむいて怒る一葉を、しーっと人差し指をたてて制し、「まあ、不当解雇で訴えることもできるけどな。俺にちょっと提案があるんだよ」と、二つある手提げ鞄のうち一つを、ドンとベッドに渡してあったテーブルの上に置いた。そして中から順番に、ノートパソコン、テキスト、塚本くんが作ってくれた、プログラミングのための設計書を取り出す。二人の目が一気にそれらに釘付けになった。

「パソコンの使い方やプログラミングの基礎知識くらいは学校でやったよな?詳しいやり方や、うちで扱ってる言語はこのテキストを見てくれ。で、ここにある設計書通りにプログラムを組み立てて、実装できたら、合格。裕揮をうちの会社に入れてやる」

「ええっ?!」

 一葉がまた大声をあげた。うるせっ。

「裕揮だけ?俺は?俺もてっしさんの会社入りたい!」

「一葉はこっち」

 俺はもう一つの手提げを一葉に渡した。

 中には、同じくノートパソコンと、三冊のテキスト。

「エムオー……」

「MOS検定。受験できる場所とか受け方とかもそこに書いてあるからな。最低でもワードとエクセルとパワーポイントの三つが取れたら、俺が今より条件のいい会社に一葉を紹介してやれる」

「え、何で俺はてっしさんの会社じゃないの?」

「悪いが、エンジニア以外は手が足りてる」

「じゃあ俺も裕揮とおんなじの、やる!」

「一葉には無理だ」

 俺がはっきりそう言うと、一葉は目を大きく見開いて言葉を失った。そして手提げ鞄を抱き締めながら、不貞腐れたように椅子に座り込むと、「結局、裕揮だけなんだよ」とボソッと呟いた。

 俺はその言葉を敢えて聞き流すと、「あと、これ」と、自分の鞄から不動産屋で貰ってきたチラシを取り出すと一葉に渡した。

「何?これ」

「裕揮がうちに入社することになったら寮に入ってもらうから、一葉にはそこ、どうかと思って」

「寮?!」

 寮というのは嘘だった。俺が個人的にワンルームのマンションを俺名義で借りた。入社すればいずれバレることだが、入れてしまえばこっちのものだ。

「裕揮の寮から徒歩5分。一緒に住まなくても何時でも行き来できる。今のところより狭くなるけど一人なら十分な広さだし、家賃も今よりずっと安い。これは俺が勝手に決めたことだから引っ越し費用は俺が出す」

 一葉が、チラシを片手にぽかーんとした顔で俺を見た。裕揮はさっきから一言も喋らず表情も変えず、俺とは目も合わせない。

「もちろん、強制じゃない」俺は最後に付け加えた。

 さあ、俺はすべての手を出し尽くしたぞ。おまえたちは、どう出る?

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