裕揮−1(※虐待シーンがあります)

 雨の日


 お空からふる雨は

 ぼくからすべてをさらっていく


 なみだも元気も吸いこんで

 茶色い地面にしみ込んでいく


 そうやって土の下にかくれたぼくのかけらは

 またぼくのもとへとかえってくるだろうか


 それとも空へとのぼってい……


 バチン!!

 耳の側で何かが破裂したような音がして、後から遅れて痛みが左目の下あたりに走った。

「挿れてやってんだから、もっとよがれよ!」

 俺の上で男が唾を飛ばしながら怒鳴っている。

 こいつは数ヶ月前に、俺とお母さんが住むアパートにお母さんが連れてきた男。

 初めは俺が寝ている隣で、お母さんと裸で抱き合ったりしていたのに、今では俺を裸にして痛いことをする。

 俺は、こういうとき、今日学校で習った詩やかけ算の九九や、音楽の時間に聴いた歌をなんべんも頭の中で繰り返しながら、目の前で起きている出来事から意識を逸らす。

 でもそれも今、男に殴られたことによって現実に引き戻されてしまった。

「よがる」というのはどういう意味だろう。あとでお母さんに買ってもらった辞書で調べてみよう。

 お母さんはいつも、「あなたのお父さんはとても頭がいい人だったの。偉いお医者さまだったのよ。他に家庭があったから一緒には暮らせなかったけれど。でも、あなたはお父さんの血を引いているのだから、きっと頭がいいはず。だからたくさん勉強をして立派な大人になって、早くお母さんに楽をさせてね」と言って、たくさん本やドリルや、綺麗な色つきの辞書を買ってくれた。

 でも、この男が来て、男の目が舐めるように俺ばかりを追いかけるようになってから、お母さんはだんだん俺と口をきいてくれなくなってしまった。ある日、俺の方から話しかけたら、怖い顔で「泥棒猫!」と怒鳴られた。

 それから暫くして、お母さんは家に帰ってこなくなった。俺は男と二人きり、このアパートの部屋に取り残された。


 その日、男に「学校を休め」と言われて俺は朝からふさぎ込んでいた。

 基本的に外出は禁止だったのだけれど、「学校だけは行っていい」と言われていたので、本当にがっかりだった。理由は多分、昨日殴られた左目の下が青紫色になってしまったからだ。男は「怪しまれる」ことを極度に嫌う。

 学校に行きたかった。勉強は楽しいし、教室の本棚には本がたくさんあって好きなだけ読んでよかったし、何より給食が食べられる。家だと、男が気まぐれに買ってくるパンやお菓子くらいしか食べられなかったので、俺はいつもお腹が空いていた。

 洗面台の鏡に顔をうつしながら、早く治らないかな、と思っていたとき、玄関チャイムが鳴った。

 男は居ない。さっきどこかへ出かけて行った。チャイムが鳴っても出るなと言われていたので無視した。もう一度、鳴った。また無視したら、ドアの外から「すみません。担任の西川です」と言う声が聞こえた。

 俺のクラスの西川先生だ。どうしよう……出ないと「怪しまれる」だろうか。怪しまれたら、男は怒るかも知れない。俺は、そっとドアに近づくと、ちょっとだけ扉を開けた。

「あ。裕揮くん、良かった。お母さんの携帯に電話しても繋がらないから……」

 先生は、笑顔でドアの隙間から中を覗き込み、俺の顔を見た途端に、その笑顔のままで固まった。

「どうしたの、その顔……?」

 先生の顔がみるみると青ざめていき、俺の心はざわざわとざわめいていった。俺……何か間違えたろうか?

 その後のことはよく覚えていない。

 確か先生がどこかへ電話して、その後他の大人たちも来て、色んなところへ連れて行かれて、色んなことを訊かれた。何日も家に帰れなくて、この間にお母さんが帰ってきたらどうしよう、とか、男に怒られる、とかそんなことばかり考えていた。

 そして、周りに流されるまま、言われるがままにしていたら、いつの間にか俺は『あおば園』というところで暮らすことになっていた。


 あおば園は学校に似ている。先生みたいな人や子どもがたくさんいて、家とは全然違った。そして嬉しいことに朝も夜も給食が出る。みんなでご飯を食べる広い広間には、学校と同じように本がたくさん置いてあって、まだ何が起こったのかよくわからず頭が混乱していた俺は、何も考えないようにするためにずっと本を読んでいた。

「なに、よんでるの?」

 声をかけられて顔を上げると、頭がもこもことした、俺と同じ学年くらいの男の子が、俺の横に立ってこっちを見ていた。俺は本のタイトルを男の子に告げた。「むつかしそう」言いながら男の子は、空いていた俺の隣の椅子に腰を下ろした。   

 その頃俺は、人に近寄られるのがちょっと苦手になっていたんだけど、何故かそのときは全然平気だった。

「やっぱり、むつかしそう!字がいっぱい!」男の子は俺の手の中にある本を覗き込みながら言った。髪の毛からいい匂いがした。

「絵も……あるよ」

 俺は頁を戻して挿絵のある頁を男の子に見せた。そこには林檎の成った木を少年が見上げる様子が、繊細なタッチで描かれていた。

「あっ、葉っぱがたくさんある!」

 男の子が絵を指差しながら、笑って俺の顔を見た。右のほっぺがぺこんと小さくへこんで、思わず指を突っ込みたくなった。

「俺の名前、『いちは』。一枚の葉っぱって書いて一葉」

 半袖でむき出しになった腕と腕が触れ合う。すべすべとして気持ちがいい。もっと触ったら、もっと気持ちがいいのだろうか。怒鳴ったりしないで、これからもずっと、こうして俺に笑いかけてくれるのだろうか。

 その日から『一葉』は、俺の一番大切な人になった。


 ハヤク オキナイト イチハヲ モラッチマウゾ


 誰?

 一葉をもらう?駄目だよ!一葉は俺のものだから。

 早く起きないと?俺、寝てるのか?ああ、体が重いな。でも起きなきゃ。でも目が開かない。開け!早く!早くしないと、一葉が……。

 目の前がうっすらと白く光り始めた。眩しい。どこだ?眩しくてよくわからないんだよ。そのとき、シャッとカーテンが開くような音がして、「裕揮くーん、体、拭こうか」と女の人が言う声がした。

 誰だ?西川先生?それともお母さん?顔がよく見えない。

「えっ?!」

 女の人が大きな声を出した。

「裕揮くん?裕揮くん?起きてるの?待って、待って、今、先生呼んでくるから!また、寝ないでね!」

 バタバタと遠ざかる音。また寝ないでねと言われても、体中が痛いし重いし、息は苦しいし……しんどいんだよ。また視界が暗くなる。


「……揮、裕揮!」

 次に目覚めたとき、一葉が泣きながら俺の顔を覗き込んでいた。

「裕揮!」

 ああ、良かった。一葉、そこに居たんだ……ていうか一葉…………その髪型、どした?

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