哲志−7

 どうしたもんかな……。

 俺はシンクの中で土鍋にこびりついた灰汁をスチールたわしでごしごしと擦り取りながら、リビングのソファで眠っている一葉をチラッと見やった。

 一葉は涙まじりに、裕揮がアパートの階段から落ちるまでの経緯いきさつを俺に告白すると、まるでエネルギーを使い果たしたように眠ってしまった。

 なんで俺はいつもこんな厄介なことに巻き込まれるかな……と思いながらも、不思議と嫌な気分ではない。

 寧ろ新しいパズルを目の前に置かれて『解いてみろ』と言われたときのような、やり遂げてみせる、といった高揚感が先にあった。俺が一葉と裕揮という二人に出会ったことに、何か意味を見出したい。そんな気持ちがあったかも知れない。

 なんとかしてやりたかった。

 鍋を丁寧に洗い流して布巾で拭き、先に洗い終えていた蓋とセットにして流しの下に仕舞う。

 そしてリビングへ行くと、ソファの脇に座り一葉の寝顔を見つめた。

 一葉は、あまり深く眠ってはいなかったらしく、俺の気配だけで「あ……」と目を覚ますと上半身を起こした。

「ごめん、俺、だいぶ寝ちゃってた?」

「いや……30分くらいかな」

「あ〜ごめん。今日の分、まだだよね?今からする?」

 言われてギョッとした。

「おまえ……俺があんな話聞いたあとで平気でおまえのこと抱ける鬼畜だと思ってるのか?」

 一葉は、う〜ん、と目を閉じて考えたあと「思ってる」「思うんかい!」俺が突っ込むと、一葉はさっき俺が掛けてやった毛布を抱き締めながら、声をたてて笑った。

「てっしさんも、そんなふうに突っ込むことあるんだ」

 その笑顔は、どこか吹っ切れたような、屈託のない心からの笑顔に見えた。そうだ。今までの笑顔は、どこか無理をしている風ではなかったか?

「それじゃ俺、どうやって裕揮の入院費を稼げばいいんだろう」

 一葉はひとしきり笑ったあとに、急に真面目な顔をして呟いた。

「たまに一緒に飯でも食ってくれたら俺が出すよ」

 俺は適当に答える。何でも良かった。別に飯じゃなくても。ただ、一葉の顔が見られれば、それでいい。

「え、そんなんじゃ俺の気が済まないよ」

 一葉が困ったように眉を寄せた。俺はうーん、と頭をひねって、「じゃあ俺が勝手に一葉と裕揮のプライバシーを侵害した慰謝料っていうのはどう?」と言ったら、一葉は手を顎にあててうーん、と考えて、「それは、貰う」「貰うんかい!」わざとらしく突っ込んだ俺に、一葉がまた声をたてて笑った。


 次の日、出社前に裕揮の病室に寄った。相変わらず王様は眠りの中だ。

 俺はベッド脇の丸椅子に座り、その顔を眺めた。

 痩せこけて呼吸器をつけてはいるが、確かにその綺麗な寝顔には、あの写真の中にあったイケメンの面影がある。

 ――おまえは、一葉をまもろうと必死だったんだな。

 心の中で話しかけた。そして裕揮の気持ちに思いを馳せた。

 おまえはいつから一葉のことが好きだったんだ?女の子しか好きにならない一葉の隣で、毎日どんな気持ちで過ごしていたんだ?どんな思いで一葉を抱いて、どんな想いで一葉を諦めようとしたんだ?

 俺はフッと笑うと「俺もおまえも、一葉に片想いだな」と声に出して言った。そして裕揮の耳のすぐそばまで顔を近づけると、「早く起きないと、俺が一葉をもらっちまうぞ」と、頭に直接響くように小さく、しかし芯のある声で語りかけた。反応は無い。俺は、なんてな、と心の中で舌を出すと立ち上がり病室を後にした。


「おはよー」

 いつもと同じテンションでオフィスに入っていった俺に、事務の佐々木さんが「社長」と声をかけてきた。

「はい?」

「これ、今日の会議の資料です。遅くなってすみません」

 そう言って、左上で閉じた数枚の用紙を渡してくる。

 うわー忘れてた、と心の中で焦るも顔には出さず、「ありがとうございます」と笑顔で受け取った。

 今日は午後から毎月恒例の定例会議の日だった。最近、一葉と裕揮のことばかりにかまけてすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

 先月の収支、今、進めているプロジェクトの進捗状況、今後の課題、今月達成させるべき目標。額の真ん中に血を集めるように頭を仕事モードに持って行きながら社長室に入る。

 スーツのジャケットを脱いで部屋の隅にあるハンガーラックに掛け、会議の資料をデスクに置き、鞄を椅子に置いたところで、『じゃない方』のスマホが鳴った。最近、こっちのスマホにかけてくるのは一葉だけだ。

 こんな時間に珍しいな、と鞄からスマホを取り出し、「はい」と電話に出た途端、一葉の慌てたような声が俺の耳に飛び込んだ。

「てっしさん!裕揮が起きた!」

 次の瞬間、俺は早送りされた映像の様な動きで、右手に鞄、左手にジャケットを引っ掴むと一度社長室を出かけてからもう一度デスクに戻り、ジャケットを右腕に掛けて空いた左手で会議の資料を掴み、社長室を出た。

 俺の慌てふためいた様子に何事かと、そばにいた社員が一斉に顔を上げる。

「あ……あの、会議までには必ず戻ります!」

 俺は会議の資料をみんなに見せるように掲げながら言うと、オフィスを横切り出口に向かって走った。

 廊下に出る。エレベーターの下りボタンを連打する。来ない。

 俺は隣の非常階段の扉を開けると、地下駐車場に向かうべく急いで階段を駆け下りた。

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