一葉−3

 「家を出たい」と言い出したときと同じ狭いダイニングの小さな食卓で、裕揮が「恋人ができた」と言い出したのは、俺と裕揮のセックスの回数が二人の両手両足の指を全部足しても足りないくらいにまで達した頃だった。

「この家を出たりはしないよ」

 俺の顔に、わかりやすく不安の色が浮かんでいたのだろう。裕揮は真面目くさった顔をして俺に言った。

「ただ、休みの日に出掛けたりすることが増えると思う。でも必ずここに帰ってくるから」

 子どもに言い聞かせるみたいに俺に言う裕揮に、ちょっとだけムッとした。何だよ、自分だけ大人ぶった顔しちゃってさ。

「いつの間に恋人なんて作ったんだよ」

 俺が唇を尖らせると裕揮は、「ゲイばっかり集まるところがあるんだよ。そこでは大概、相手はゲイだから、遠慮なく声をかけられる」と、俺が作った鰹のたたき丼を、ゆっくり口に運びながら言った。

 ゲイ、という言葉にドキッとした。やっぱり裕揮は『そういう人』なんだろうか。相手が俺だから、というわけではなく。

「大丈夫なの?その人」

 人の恋人に対して失礼な発言だと気づいたのは、もうそれを口にしてしまった後だった。

「いい人だよ。二個歳上でさ。優しいし。専門学生だって」

 裕揮が微笑みながら言う。ふーん。なら、いいんだよ。裕揮が幸せなら。それでいい……はずなのに……。モヤるのは、一体なんでだろう。

 それから裕揮は宣言通り、休みの日には、きちんと掃除と洗濯を済ませたあとに、恋人に会いに出かけて行って、夜にはきちんと俺のいる家に帰ってきた。そして、もう俺の体に触れることは二度としなかった。


 裕揮の居ない休日は退屈だった。俺は一人で本屋へ行き、料理本を立ち読みしながら新しいレシピを増やし、スーパーで買い物をして帰った。

 俺も裕揮を見習って、彼女を作る努力でもしなきゃな、いつまでも裕揮に依存するわけにもいかないし、とトボトボ一人でアパートへの道を歩く。施設に居た頃には『施設の人』という理由で女の子に敬遠されがちだったけど、今はもう自活しているわけだし、大丈夫だろ、と前向きな気持ちになりかけたその頃だった。そいつがやって来たのは。


 食材の入ったエコバッグを肩から下げながらアパートの階段を上がっていくと、俺たちの住む部屋の前に、目の覚めるような銀髪と黒髪でツートンになった髪をあごのあたりまで伸ばした細身の男が立っていた。黒いジャケットに黒いスリムパンツでどこもかしこも細く、中性的な雰囲気を醸しているその男は、蛇のような鋭い目を俺の方に向けると、「アンタ、ここの人?」と俺に訊ねた。

「え?……どちらさまですか?」

 俺は、返事ともとれない返事を返す。

「俺、裕揮の彼氏」

 蛇男が答えた。あ、この人が……なんか、想像してたイメージと違うけど。

「始めまして。あれ?裕揮は、あなたに会いに行くって今朝、出ていきましたけど……会えませんでした?」

「アンタ、ノンケなんだよな」

「ノンケ?」

 いまいち会話が噛み合わない。この男は何をしにきたのだ、とちょっと怪しみ始めたとき、「裕揮、アンタのことが好きなんだろ?」と言われてギョッとした。

「ちょ、ちょっと、何言ってんですか!」

 俺は急に隣近所の部屋という部屋から住人が聞き耳を立てているような気分になって、「話なら中で聞きますから」と蛇男と玄関扉の間に体をねじ込むと、ポケットから出した鍵を鍵穴に挿し込んで回した。

 それが間違いの元だった。

 扉を開けた途端、後ろからドンッと押されて、俺は前に倒れ込んだ。

「……でっ!」

 ガシャンとエコバッグが落ちて、床に買ってきたレタスやツナ缶が散らばる。今日はレタスチャーハンを作ろうと思っていたのだ。

「あのさあ、俺、裕揮のこと好きなんだよね。特に顔」

 蛇男があっという間に後ろ手に扉を閉め、あっという間に俺の上に覆いかぶさると、どこから出したのかネクタイのような物を手にしていて、いつもこんなことしているのかと思うくらい鮮やかな手つきで俺の両手首を背中で縛る。

「……にすんだよ!!」

 俺は必死に抵抗を試みるが、両手の自由を奪われたうえに俺の両足の上には蛇男がまたがるように腰を下ろしている。

「それは、こっちのセリフだよ。二人で恋人ごっこしてさ、アンタがノンケだからってセックスだけ俺で代用するなんていい度胸してるよね」

 蛇男が薄ら笑いを浮かべながら俺を上から見下ろして言った。

「なっ……そんなことしてない!」

 俺は必死に身をよじる。

「じゃあ、なんで裕揮は泊まっていけって言っても『同居人が待ってるから』って、いっつも家に帰っちゃうのかな」

 蛇男がスルリと本物の蛇の様な動きで、俺のズボンのホックを外してファスナーをおろし、ズボンとパンツを一緒に引きずりおろそうとした。

「俺、どっちもできるんだよ」言いながら俺の耳元に口を近づけると、「もう、いっそのこと受け入れちゃいなよ」とわざとヒソヒソ声で囁いた。どこが『いい人』だよ!と裕揮の人を見る目を疑い出したそのとき……。

 バーンと勢いよく玄関扉が開いた。

「何してんだよ!」

 そこには汗だくの裕揮が息を切らしながら立っていた。

「何って……裕揮のためにやってんじゃん。おまえの好きな人に俺が男を教えてやろうとしてんじゃん!」

「ふざけんな!」

「ふざけてんのはどっちだよ!!」

 蛇男が立ち上がって裕揮に掴みかかり、その勢いで二人は外に出ると、バタンと扉が閉まった。

 俺からは見えないところで、二人の声だけが聴こえる。おまえが好きなの、あいつなんだろ?ちがう!じゃあなんでいっつも俺よりあいつを優先するんだよ!だから、言っただろ、同じ施設で育って卒園したばかりだから!そんな言い訳、通用するか!

 ヤバい……裕揮、そんなところで言い争ったらご近所さんが……俺は必死に両手を上下左右に動かして腕を拘束しているものを外そうとした。

 腕に巻かれたものが緩んてやっと片手が抜けたとき、「あっ!」という蛇男の声とともに、ダダダダッという激しい音がした。

 裕揮!?

 俺は自由になった手で急いで玄関扉を開けた。外に居たのは蛇男一人で、蛇男は呆然と階段の下を見つめながら、青い顔をしている。そして俺の視線に気づくと、「ちがう、俺、やってないからな。裕揮が勝手に足すべらせただけだからな」と首を左右に振った。

 その言葉で何があったか悟った俺は、弾かれたように家を飛び出すと蛇男を押しのけ階段の下を見た。そこには、足を上側にして頭を階段の下のコンクリートに横たえて倒れている裕揮が居る。

「裕揮!」

 俺は足をもつれさせながらほとんど飛び降りる勢いで階段を降りると、倒れている裕揮に向かって「裕揮!裕揮!」と必死に呼びかけた。裕揮に反応はない。蛇男が隣をサッとすり抜けて走っていく。あいつ……逃げる気だ。でも今はそれどころじゃない。俺は救急車を呼ぶための携帯電話を取りに階段を駆け上がった。


 それからずっと裕揮は目を覚まさない。これは罰だ。俺が自分のことばかり考えて、全く裕揮の気持ちを考えていなかったことに対する。

 だから俺は、どんなことをしてでも、裕揮を助けないといけないんだ。

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