一葉−2

 高校3年になって進路を決める時期になったとき、みんな裕揮は大学へ行くんだろうと思っていた。

 実際、裕揮はめちゃくちゃ頭良かったし、大人たちは「もったいない」と言って、裕揮が大学卒業まで施設に残れるようにかけあったり、裕揮の担任だった武田先生は奨学金がどうのって話をしていた。

 正直、妬ましかった。

 俺は、これまでここを卒園していった先輩たちと同じように、就職して施設を出るのが当たり前みたいな感じになっていたから。

 いきなり一人で社会へ放り出される不安に、日に日に心が押し潰されそうになっていった。

 これまでずっと裕揮は俺と一緒だったのに。高校を選ぶときも、俺はどうしたって裕揮の学力にはついていけなかったから、『特進クラス』と『普通クラス』という、学力別にレベル分けされた、でも一緒には通える高校へ行く、ということに二人で決めた。

 でも裕揮は中学のとき、裕揮のクラスの担任だった先生に、もっと上の高校だって狙えるのに、と言われていたことを俺は知っている。


 過呼吸が始まったのは、いよいよ就職のための求人票やなんかを見始めた頃だった。突然、空気中にいるのに、まるで溺れているみたいに息が苦しくなって目の前がチカチカする。俺はもっと酸素を取り込もうと、一生懸命深呼吸をする。

「吸いすぎない方がいいんだ。普通に息して、鎮まるまで静かにして」

 ある日、俺がこっそり学校の階段下でうずくまっていたら、いつの間にか裕揮が後ろにいて、ゆっくりと俺の背中をさすってくれていた。

 俺は、ぼんやりとした意識の中で、裕揮が無表情に俺の背中をさするのをずっと見ていた。

 裕揮は、俺が落ち着くのを待ってから、「俺さ、就職したいんだよね。でもみんなに上手く言えるかわからないから、一葉に説得するの手伝って欲しい」と言った。

 俺もびっくりしたけど、もっとびっくりしたのは周りの大人たちだ。なんで?もったいないよ。大学行ったら就職の窓口も広がるよ?やりたいこととか、無いの?

「やりたいことは、無いです。それより早く、自立したい」

 裕揮がそう言うと、施設長は、「でも裕揮は……正直なところを言うと、あまり人間関係が得意とは思えない。もちろん社会に出たら、大卒だからってコミュニケーションスキルが免除されるわけじゃないけれど。でも、その学力の高さを武器にしない手は無いと思うんだ」と冷静な大人の意見を言った。

「じゃあ、俺と一緒に暮らせばいいよ!」

 隣で聞いていた俺は、ここぞとばかりに口を挟んだ。

「俺、人と話すの得意だしさ、裕揮が困ったら助けてやれるよ?あ、それに家賃とか!二人で住んだら全部半分で済むから貯金とか出来るし、お金貯めてさ、資格とか取るって手もあるんじゃない?」

 必死で話す俺を見て、施設長もだけど、裕揮までもが、ぽかんとしていた。

 俺はそのとき、裕揮のために施設長を説得しているつもりで、実は全部自分のために言っていたと思う。このときの俺は、裕揮の将来だとか、そんなことは全く頭に無くて、ただ裕揮がまた俺と一緒に来てくれるチャンスが巡ってきたと、少し高揚していた。

 だから裕揮が、一緒に暮らすのはちょっと……と渋ったときは、なんでだよ、と心底腹が立った。おまえのために言ってやってるのにって。

 今、考えると、なんて自分勝手だったんだろうと思う。

 結局裕揮は、最後まで大学進学を拒否し続けて就職の道を選び、俺の強引な誘いを受けて一緒に暮らすことに同意した。


 最初は楽しかった。すごく。あんなに楽しい日々を過ごしたのは生まれてはじめてと言っていいくらいだ。

 築古だけど割と綺麗な2DKのアパートで、俺と裕揮は、施設に居たときには出来なかった、ありとあらゆることをやった。

 大量のお菓子を買い込んで二人だけで食べたり、足を伸ばして長風呂したり、夜ふかしをしてバカ話したり、休日の日には心ゆくまで朝寝坊をしたりした。

 就職先は別々になってしまったけど、大体帰る時間は一緒だったので、スーパーで待ち合わせをして、何を食べようか、あーでもないこーでもないと相談しながら買い物をした。

 裕揮はあまり食に興味が無く、すぐに簡単なものに走りがちなので、途中からは俺がほとんど一人で決めて料理をした。その代わり裕揮には、洗濯を担当してもらった。掃除は、共用部分は休みの日に二人で一緒に、二つある部屋のそれぞれ自分の部屋は、自分の好きなときに掃除をすることにした。

 俺たちは上手くやれている……そう思っていた。

 狭いダイニングの、小さなテーブルを挟んだ小さな食卓で、裕揮が「家を出たい」と言い出すまでは。


「え……なんで?」

 突然のことに俺は耳を疑った。裕揮も今の生活を楽しんでいるものと信じて疑っていなかったから。

 理由がわからない。俺が問いかけても、裕揮はずっと俯いて、黙ったままだった。

「黙ってちゃわかんないよ!!」

 俺は正体のわからない不安を怒りに変えて、持っていた箸をテーブルに叩きつけた。

 裕揮はピクリともせず、俯いたまま、思ってもみなかったことを口にした。

「……一葉が、好きだ」

「え?」

「隣の部屋で寝ていると思うとたまらない。毎日、音をたてずに一人で抜いてるんだ。でももうそれもキツい」

 俺は言葉を失った。その反応がまずかったのかも知れない。

「気持ち悪いだろ?」

 やっと顔をあげた裕揮は、今にも泣き出しそうな顔をしながら、笑った。

「そんなことないよ」

 俺はやっとの思いでそう言った。でも、裕揮には届いていなかったと思う。

「俺はもしかしたら、あの男と同じことをしてしまうかも知れない。だから、そうなる前に家を出なければ」どこか明後日の方向を見つめながら、独り言のように裕揮が呟く。

 ヤバい!俺は自分の毛穴という毛穴から、途方も無い焦りが一気に吹き出すのを感じた。

 裕揮が離れていく。なんとかしなければ。なんとか……。

「合意の上ならいいんだろ」

 考える前に口から出ていた。

「え?」

「俺が嫌じゃなければいいんだろ」

 俺は、座っていた安い丸椅子から音をたてて立ち上がると、テーブルを回って裕揮に近づいた。

「一葉、そういうことじゃ……」

 これ以上裕揮が何か言う前にと、唇で裕揮の口を塞いだ。

 そして裕揮の頭を抱きしめ、「裕揮……抱いて」と力を込めた。

 一瞬、躊躇が見られた。でも、一瞬だ。次の瞬間には、裕揮の理性は完全にぶっ飛んでいた。どこにそんな力を隠していたのかと思うくらいすごい力で、勢いよく俺を抱えるようにダイニングから近い俺の部屋に連れて行くと、引きっぱなしの布団の上に押し倒して服を脱ぎ始めた。裕揮が正気を取り戻さないうちにと、俺も自分で自分の服を剥ぎ取った。

 そして俺は、裕揮の衝動に合わせるように、キスをして肌を合わせて、熱くなったお互いの体を擦り合った。その日はそこまでだったけど、次の日にはドラッグストアで必要なものを揃えて最後までやった。それからも何度もやった。何度も何度もやった。

 俺はだんだん慣れて平気になっていったのに、裕揮は逆に、どんどん苦しそうになっていった。

 俺の部屋で散々抱き合ったあと、自分の部屋に帰る裕揮の顔が、罪悪感に打ちのめされそうになっていたのに、俺は気づいていないフリをした。

 俺は自分が一人ぼっちにならないためなら、裕揮の感情だとか将来だとか平気で無視できる。そんな最低最悪な人間だった。


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