一葉−1
ズンズンと病院のロビーを横切り、エレベーターの上りボタンを押す。もう一度押す。なんで開かないんだよ!と何度も押す。
それでも来ないエレベーターにブチ切れ、扉を蹴飛ばそうとしたそのとき、チーンと音が鳴ってやっとエレベーターの扉が開いた。
降りてくる人を避けて中に入り、乱暴に4のボタンを押す。無性に腹が立っていた。
勝手に他人のプライバシーを見られたこともそうだけど、なんかもっと違う大きな何かに苛立っていた。
エレベーターを4階で降りてナースステーションの前を通ったとき、「一葉くん!」と看護師の新田さんに呼び止められた。
「はい」しかめていた顔を慌てて笑顔に作り直して振り向く。
「あの、私ちょっと勝手なことしちゃったんだけど、さっき裕揮くんの親戚って人が来てね……」
そこまで聞いて俺は、ああ、新田さんの仕業か、と合点がいった。新田さんはいつも何かと俺たちのことを気にかけてくれる。
「その人に一葉くんたちの事情を話したら、入院費を援助してくれるって」
「はい。なんか先月分払って行ってくれたみたいです」
新田さんの顔がぱあっと明るくなった。
「良かった〜」
ほっとしたように笑う新田さんに俺も笑い返した。
「じゃあこれ、一葉くんに渡しておくね。多分、力になってくれるんじゃないかな」
そう言って俺に一枚の名刺を差し出す。
こんな個人情報残してバカじゃないの?
俺は「ありがとうございます」と新田さんにもう一度笑顔を向けると、裕揮の病室に向かった。
カーテンの中に入る。裕揮は相変わらず昏睡状態のままだ。俺はベッドの横にある細長いロッカーに洗濯物を仕舞ったあと、てっしさんの名刺をビリビリと破ってゴミ箱に捨てた。
夕方からのバイトは休んだ分だけ時給が減っちゃうからと、会社の有給制度を利用して来てみればこれだ。その有給も、もうすぐ使い切ってしまうけれど。
来月からの支払い……どうしよう。
実際さっきあの人に投げつけたお金の半分は、あの人からもらったものだ。裕揮と二人でコツコツ貯めていたお金ももうない。
気づかないフリをすれば良かった?あんなふうに突き放さずに、これからもてっしさんと関係を続けていけば良かっただろうか。
フーッ…フーッ
息が苦しくなってきた。やばい、来る。俺は側にあった丸椅子に腰をおろした。
過呼吸だ。最近は来て無かったのに。指先が痺れる。大丈夫、大丈夫。目を閉じて静かに気持ちを落ち着かせていれば、すぐにおさまるから。
わかってる。てっしさんは悪い人じゃない。勝手に財布の中を盗み見たことは許せないけど、今日、裕揮の入院費を払って行ったからといって、あの人には何の特もない。そもそも、イチかバチかで体が売れるかも、と前に裕揮に教えてもらったゲイの集まる場所に初めて行ったとき、きっとてっしさんは俺のことを助けてくれていた。
ぶっちゃけ、怖かった。金を請求すると、みんな、はあっ?って顔してたし、なんか怒鳴ってくる人も居た。
あのとき、てっしさんは向かいのお店から出てきたから、多分、中から俺の様子を見ていて、危険を察知して来てくれたんだろう。
でも俺はさっき、病院の中にてっしさんがいるのを見て、猛烈に腹がたち、怒りをぶつけた。この人だけには見られたくない、恥ずかしいものを見られたような、そんな気持ちになった。
俺はきっと、てっしさんに、俺と裕揮の関係を知られたくないんだ。
息苦しさがおさまり、俺はふうっと一度大きく息を吐いた。
そして、裕揮の顔を見る。
胃に直接チューブで食べ物を流し込んでいるとはいえ、頬はこけ、目は落ちくぼみ、痩せ細ってしまった顔を見る。
「裕揮……早く起きてよ」小さな声で呟く。
ズルいよ。一人でそんなところに逃げ込んじゃうなんてさ。
結局、他に何もいい方法が思い浮かばなかった俺は、また体を買ってはもらえないだろうかとバイトが休みになるのを待って夜の街に立った。
立ってみてから、急に不安になった。「もうあの場所には立たない方がいい」と言った、てっしさんの言葉が蘇る。
もしかして、てっしさんの様な人に出会える確率って、実は物凄く低いんじゃない?そもそも一回ヤっただけで3万も貰えるって、貰いすぎだったんじゃない?
確率低いどころか、奇跡だったんじゃないかな。なんか俺、このまま危ない目に合う確率の方が高い気がしてきた……。
でも、他に方法もないし、いやでもやっぱりやめたほうが、とウロウロしながら迷っていたときだった。
「良かったら一緒に飲みに行かない?」
背中からかけられた聞き覚えのある声に、わけもなくすがるような気持ちで振り向くと、そこにはスマホの画面を俺に向けたてっしさんが、いつの間にか俺のすぐ後ろにまで迫って立っていた。
訝しんで一度顔を見てから、目をスマホの画面に移す。表示された文字を読んで、思わず吹き出した。
「もしかして俺が来ないか、ここでずっと張ってた?」
「いや?ただの偶然だけど?」
嘘でしょ?思い切り目が泳いでんじゃん。
俺は泣きそうになるのをぐっと堪えて、スマホの画面を指差すと、「うん」とにっこり微笑んだ。
俺が笑うのを見て、てっしさんも、にっこり笑う。
スマホの画面にはこう書かれていた。
『1か月間抱き放題パック
料金:裕揮の入院費』
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