哲志−3
「
俺が訊ねると、受付に座っていた女性は上目遣いのまま俺の顔をじっと見つめた。
「お身内の方ですか?」
受付の女性が訊ねる。俺は少し考えて、「親戚です」と無難な答えを返した。
今日、営業の松永さんとは別行動をとっていた。そして一人で外回りをしていたら、昨日一葉が持っていた、入院費の領収書に記載されていた病院の近くまで来ていたことに気づいた。このあたりでは大病院の部類に入るそこは、地元の人間にはそれなりに有名なところなのですぐに気づいた。
何故、入ってみようと思ったのかわからない。大体こういうときは直感で動くことにしている。
「身分証はお持ちですか?」
受付の女性がしつこく訊ねる。
身分証ならいくらでも持っていますよ?運転免許証、保険証、マイナンバーカード、なんなら俺が代表取締役を務める会社の名刺もある。でもそれを渡して篠宮氏本人に身元を確認されたらアウトだ。俺が親戚でも何でもないことがバレてしまう。
病院のセキュリティってこんなに厳しかったっけ?と少しイラつきながら、「あー今日は何も持ってないなあ。出直します」と受付を離れた。
受付や売店に面したロビーの部分だけが吹き抜けとなった、色だけが白で統一されたショッピングモールのような不思議な空間を、カツカツと靴を鳴らして外へ出ようとしたそのとき、「あの〜」と俺の背中に向かって声をかけてくる人物がいた。
振り向くと、俺とそんなに歳の変わらなそうな、ピンクの看護師の服を着た女性が緊張した面持ちで俺のすぐ背後に立っていた。
「すみません、今、ちょっと聞こえちゃったんですけど、裕揮くんの親戚の方って仰ってました?」
看護師は恐る恐る伺うように俺に訊ねた。
「あっ、はい、まあ……結構遠縁なんですけどね」
一応警戒して無難のレベルを1段階あげる。
「あの、もしお時間あったら、少しお話いいですか?」
看護師がすがるように身を乗り出して俺に言った。
エレベーターの上りボタンを押す『
おそらく俺は今から篠宮氏のところに連れて行かれる。当然向こうは俺のことを知らない。一葉が話しているかも知れないが、俺が篠宮氏がここに入院していることを知っているということは知らない。そしてこの新田という看護師に、俺が親戚ではないことがバレる。
逃げるべきだ。
そう思った瞬間エレベーターが到着し、扉が開いたとき俺は、新田看護師と一緒にエレベーターに乗り込んでいた。
好奇心に負けてしまった。思えば蒼介に今の会社に連れてこられたときもこんな感じだった。途中で嫌な予感はしていたのに、事態を最後まで見届けたくて、どうしても逃げ出すことができなかった。
「実は僕、裕揮くんとは小さい頃に一度会ったっきりなんですよね。彼、僕のこと覚えているかなあ」
新田看護師の『裕揮くん』と呼ぶ口ぶりで、篠宮氏を年下だと判断した俺はとっさにそう言った。ここまでくると無難のレベルをあげるというより、もはや事実の隠蔽工作だ。
「そうなんですか」
新田看護師は、そんなことはどうでもいいんだとばかりに素っ気ない返事をすると、4階で開いたドアを片手で抑えて「どうぞ」と俺に先に降りるよう促した。
ナースステーションの前を素通りし、病室の並んだ廊下に出る。
そして、406号室の前で立ち止まると、「ここです」と新田看護師は一度後ろについていた俺を振りかえると、「裕揮く〜ん、親戚の人が来たよ〜」と言いながら、六つ並んだカーテンの中から右側一番手前のカーテンをチラッと少し開けた。
えい、もう、覚悟を決めよう!と腹に力を入れて新田看護師の後からカーテンの中へ入ると……俺の覚悟はただの杞憂だったことがわかった。
篠宮氏は、人工呼吸器をつけられ、他にも布団の下から何本もチューブを垂らした状態でベッドに寝かされていた。
「これは……?」
俺は息を飲み、そのまま言葉を失った。その様子をみて新田看護師が憐れみのような視線を『裕揮くん』に向ける。
「2か月くらい前でしょうか。アパートの階段から落ちて頭を打ったらしくて、意識不明の状態でここに運ばれてきて以来、目を覚まさないんです」
「目を覚まさない?2か月間一度も?」
「はい」
新田看護師は、布団をめくって『裕揮くん』の背中に手を差し入れ、体位変換というやつだろう、体の傾きを変えて、右腕の下にあった枕を左腕の下に差し替えた。
「何か脳の機能が損傷しているとか?」
俺は人形のように新田看護師の手でされるがままに動かされる『裕揮くん』を見つめながら訊ねる。
「それが先生が仰っしゃるには、もういつ起きてもおかしくないくらい、なんの異常もみられないらしくて」
「と、いうことは考えられる原因としては……」
「精神的ストレス。でも一葉くんが言うには、『そんなのまったく思い当たらない』って」
唐突に出た一葉の名前にドキッと心臓が波打った。そのとき、隣のカーテンの向こうからコホッコホッと咳をする音が聴こえ、ハッとした新田看護師は「すみません、外でお話しても?」と、俺を部屋の外へ出るよう促した。
俺はもちろん頷くと、廊下へ出てそのまま集会室と壁に書かれた場所に、新田看護師に連れられて入って行った。長テーブルが4つずつ二列に並び、それぞれに椅子が4脚ずつ向かい合わせに並んでいる。部屋の隅にはテレビも置いてあり、テレビの真ん前にはパジャマ姿で点滴を腕に繋いだままの爺さんが一人、椅子に腰掛けてテレビから流れる情報番組をぼんやり眺めていた。
俺と新田看護師は、爺さんとは対極となる端っこの椅子に、テーブルを挟んで向き合って腰をおろした。
口火を切ったのは俺だ。
「あの、一葉くんというのは?」
知っているくせに白々しく訊ねる。いや、でも実のところは何も知ってはいない。
「一葉くんは、裕揮くんとルームシェアしている子です。裕揮くんが階段から落ちたとき、救急車を呼んだのも一葉くんです」
胸が、ずくんと音をたてる。新田看護師が続ける。
「一葉くんも裕揮くんと、同じ児童養護施設出身なんです」
「じっ……」
思わず声をあげそうになった。驚いては駄目だ。俺は親戚なのだから、そのへんの事情は知っていて当たり前のはずだ。
「そうだったんですか。施設を卒業しても一緒に暮らすくらい二人は仲が良かったんですね」
俺は極めて平静を取り繕い、言った。
「そうみたいです。それで、二人とも頼れる人がいないみたいで、私は施設の人に相談したらって一葉くんに言ったんですけど、心配かけたくないからって言って……」
そこで新田看護師は言いにくそうに口をつぐむ。なんかあやしい雲行きになってきたぞ、と俺も口をつぐむ。
暫くして新田看護師は決心したように息を吸い込むと、顔を真っ直ぐ俺に向けきっぱりとした口調で、「ご親戚の方なら、裕揮くんの入院費を少しでもいいのでカンパしてあげていただけないでしょうか!」と迫った。
あ〜……ね。
そこからの新田看護師は堰を切ったように喋り続けた。入院費を全額負担しているのが一葉であること。そのために、どうやら無理をしているんじゃないかと思っていること。そんな二人を見ているのが可哀想でたまらないこと。などを、だ。
ええ、一葉が無理をしていることは知っています。なんせ俺はその一葉に、無理をさせている客ですから。
やっぱり好奇心に任せて直感で動くと、とんでもないことに巻き込まれるな、と心の中の蒼介に向かって同意を求めた。返事は当然、返ってこない。
でも困ったことに、俺はこういう予測のつかなかった展開におちいると、どこかワクワクしてしまう異常体質の持ち主だ。
「入院費はもちろん協力させていただきます。今日は月始めだから、先月分はもう払えますよね?」
俺は新田看護師に向かって微笑んだ。
「え、ええ。下の受付で名前を言っていただければ払えると思います」
自分から頼んでおきながら、まさか本当に払ってもらえるとは思わなかったと言わんばかりに、新田看護師は面食らった顔をして言った。
「わかりました。じゃあ精算しておきます。一葉くんに、よろしくお伝えください」と、俺は一応名刺を渡して席を立ち、ありがとうございます!と勢いよく頭を下げる新田看護師を後にしてエレベーターホールに向かった。
下りボタンを押して、エレベーターを待ちながら考える。
そうか……恋人がいたのか。
新田看護師はルームシェアしていると言っていたが、おそらく同棲だろう。それならあの、一葉の体が男慣れしていることにも、ここまで『裕揮くん』のために献身的になれることにも説明がつく。
到着したエレベーターに乗り込み1階ボタンを押す。
しかも二人とも身寄りがいない。頼れるのは互いだけ。こんな強固な結びつきがあるだろうか。俺の胸がまた、ずくんと音をたてた。
1階に到着し、真っ直ぐ受付に向かう。さっきと同じ女性に、「406号室の篠宮裕揮さんの先月分の入院費をお支払いしたいんですが」とクレジットカードを見せると、「少々お待ち下さい」とすぐ手続きに入る。さっきはあんなに警戒心をあらわにしていたというのに、金を払うときはあっさりだな、と皮肉めいたことを考えるが仕方がない。向こうもそれが仕事だ。
手続きを終え、病院の出口へ向かいながらクレジットカードを財布にしまってスーツの内ポケットに入れたそのときだった。
「何やってんの?」
俺の行く手を阻む足が、下を向いていた俺の視界に入った。
顔をあげるとそこには、手に紙袋を下げた一葉が、怖い顔をして立っていた。紙袋の中にはタオルやらどうやらパジャマの替えやら、洗濯物がきれいに畳まれて入っている。
「……っ」
あまりの驚きに俺はまた声を失った。そしてようやくひねり出した言葉が、「一葉、仕事はどうした?」だ。
「なんで俺が働いてるって知ってるの?」
一葉は冷たい声で言い放つ。その顔にいつもの笑顔はない。
しまった。墓穴を掘った。ここはあくまでも偶然を装うべきだったのに。
「やっぱり俺の財布の中、見たでしょ!」
一葉が突然大きな声を出した。「なんか変だと思ったんだよ!昨日、帰って財布開けたとき、俺がいつも閉めてる感じと違ったから!」
「一葉……ちょっと、落ち着け」
周りの人間がジロジロとこっちを見ていた。一葉は怒りでまったく気にしていないようだ。
「外で話そう」
俺は一葉の腕を掴んで病院の外へ出た。
自動ドアから病院の外へ出て、柱のかげに入ると同時に、一葉は思い切り腕を振って俺の手を払うと、ギュッと目に力を込めて、俺を睨んだ。
「ねえ、こーゆーのってルール違反じゃない?俺がもし、てっしさんのこと色々探って会社とかに押しかけていったらどんな気分?」
「いや……悪かったよ一葉。ホントにこれは俺が悪かった。もう、二度としない」
平謝りだ。
「とにかくもう、ここには二度と来ないで!てっしさんとはもう会わないし電話もしない!そっちも絶対かけてこないで!」
一葉は俺に向かってピシャリと言い放つと、早足で俺の横をすり抜け病院へ入って行った。
もう会わない……一人残された俺は、無意識に腕時計に目をやった。
今から帰れば、昼前に会社に戻れるな……。
俺は本能的に、自分を仕事モードに持っていくことで、たった今起きた出来事から自分を守ろうとしていた。
重い足を無理矢理踏み出し、駐車場に向かう。
車に乗り込み、発進させようとしたら、目の前を一葉が横切り慌ててブレーキを踏んだ。
一葉はそのまま運転席側に回ると、窓をドンッと叩く。俺がパワーウインドウを下げると、一葉はいきなり、「今、会計しようとしたら、もう払ってあるって。てっしさんでしょ?」と険しい顔で言うと、持っていた財布をベリっと開いて中に手を突っ込み、「余計なことしないで!」財布の中身を鷲掴みにして窓から車の中に投げ入れた。
俺の視界を何枚ものお札が、まるで花びらのように舞う。
「もう、俺と裕揮のことは放っておいて!」
そう言うと一葉はまた車の前を横切って走って行ってしまった。
俺の胸がずくんずくん痛む。なんだっけ、これ。かつて感じたことがある。でも最近は感じたことのなかったこの気持ち。
俺は一葉に対する執着を、今までにない感覚だと思っていた。でも、俺は知っている。これと似た感覚。おそらく同じ種類の……そうだ。俺は膝の上に落ちた一万円札を一枚手に取り、じっと眺めた。そうだ、思い出した。
人はそれを、『恋』と呼ぶのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます