哲志−2

「おはよー」

 俺はいつもと変わらない、高すぎず低すぎず、他人の気持ちを揺らさない程度のテンションで挨拶をしながら、小さなビルのワンフロアを借りきったオフィスに入って行った。

「おはようございま〜す」

 ちらほらと何人かに小声で顔もあげずに挨拶を返される。やる気が無いわけじゃない。省エネタイプなのだ。その証拠に、仕事ぶりはみんな至って優秀だ。

 上司に余計な気は使わなくていい、という社風は前々代社長からのもので、俺もそれを自然に引継いだ。いや、前々代じゃなくて前代か?前代社長になるはずだった、蒼介という男は、社長就任式の直前に俺にすべてを押し付けて海外へ旅立った。

 たまに近況を報せる葉書が俺の元に届くが、一番最近書いてあったのがカナダでの農業研修、その前がケニアで野生動物の保護、その前がデンマークで家具職人に弟子入り、その前が……もう忘れた。とにかく腰の座らない男なのだ。

 蒼介とは、俺がアメリカの大学で経営学を学んでいたときに短期留学で来ていたあいつと下宿先が一緒で知り会った。

「哲志、経営に興味があるなら、実践で学べるいい方法がある」

 そう言って、餌に釣られる動物のごとく連れてこられて行き着いたのがここだ。

 うっかり興味を示してしまった俺もなんだが、もっと怖いのは、今までと同じ条件で働けるなら、とあっさり俺を受け入れたここの社員たちだ。どこの馬の骨ともわからない俺がトップに立っても何ら波風立てることなく、黙々と仕事をこなす。ある意味、気持ちがいい。

 苦労したのは取引先の方で、前々社長(前社長?)と一緒にすべての会社に挨拶回りをし、その後も営業が顧客回りをするときは必ず俺も同伴して何とか信用を得た。元々、小規模でやっている小さな会社で固定客もそんなに多くはないのがラッキーだった。ちなみに蒼介の父親である前々(前)社長は、早期退職して田舎に引っ込み、ぶどう農園をやりながら自分のブランドのワインを作ろうと日々研究している。

 似たもの親子め!と毒づきながら、試作品として送られてきたワインを一晩で一本空けてやったら次の日ひどい二日酔いで頭がガンガン痛んだ。

 こんなに頭が痛むなんて失敗作だろ!とコンビニで買ったドリンク剤を飲みながらまた毒づいたが、ワインの質と二日酔いは多分関係がない。量の問題だ。

 オフィスの端に壁で仕切られた、社長室と書かれた扉を開けて中に入る。入って、扉を閉めると同時にコンコンとノックの音がして、ノックの音がすると同時に「社長」と扉を開けて営業の松永さんが入ってきた。

 ノックの意味ないな、と思いながら「はい」と振り返ると、松永さんが紙をペラッと差し出すと口早に「これ、今日回る会社のリストです。あと」もうひとつ束になった紙を出し「塚本くんが三晃さんこうさんのシステムそろそろバージョンアップした方がいいんじゃないかってこれ提案書です」と続けて差し出してきた。

 俺は、ええ〜、という気持ちを極力顔に出さずに、「ありがとうございます。さっそく目を通しておきます」と紙の束を受け取った。

 松永さんが「お願いします」と無駄のない動きで部屋から出ていく。スーツをパリッと着こなし『THE営業』といった成りの彼は、若く見えるが俺より七つ歳上だ。会社員としても人生においても先輩だが、こちらを見下すこともなく部下として仕事をきっちりこなしてくれる頼りになる存在だ。

 俺は紙の束を一枚ペラッとめくり、はあ、とため息をついた。未だにこの会社の主たる業務であるソフトウェア開発というものに慣れない。社長に就任して3年、俺もかなり勉強したが、システムエンジニアである塚本くんの技術は俺が勉強したことの更に上を行く。一体どこからこのような知識を仕入れてくるのか。俺がアメリカで勉強していた経営学なんて、この会社ではまったく役に立っていない。

 取り敢えず、提案書に目を通すのは後にして、俺は机の上のノートパソコンを開いてメールチェックをし、ついでにカバンからスマホを取り出してチェックをし、ついでにもうひとつのスマホを取り出してチェックをした。最近はこれが習慣化している。

 あの『一葉』と名乗る青年と会ってから2週間。あれ以来、なんの音沙汰もない。

 他にいい金づるでも見つけたかな……いや、まだ2週間だし。……こっちから指名してもいいのかな。いや、ていうかなんでこんなにもやもやしているんだ?今までだって一夜限りの相手なんて何人もいたし、次の日に、あ〜昨日の子なかなか良かったな〜、と思い出すことはあっても、次の次の日にはもう忘れているのが常だ。

 でも俺は何故か、あの夜の街に一人で立っていた一葉のことが忘れられない。俺は自分が若専だという自覚はあるしその点においては彼はどストライクゾーンだったが、それを差し引いてもこの執着は今までにはない感覚だ。

 彼は愛嬌のある顔はしていたが、特段イケメンというわけではない。俺の一番のタイプは、超絶イケメン。それも、本当はまだ人として未成熟なくせに「人生ちょろいぜ」と他人を見下しているような、ずっと勝ち組を歩んできたかのような王様タイプが好きだ。彼はそうじゃない。あいつはどちらかというと、そんな王様にずっとくっついている従者。しなやかさの中に一本筋の通った、王様に最も信頼されている従者だ。

 でもまあ気になるものは気になるもので、あとで一葉に電話をしてみようとスマホをカバンにしまいながら決めた。悶々と待っているのはどうも性に合わない。


 10回コールを鳴らして電話を切った。

 くそ。着拒か?そりゃ警戒するよな、こんな怪しいオッサンから電話が来たら。俺はムウっとした気持ちと一緒にソファにスマホを投げ出すと、部屋着に着替えてリラックスした姿になった体をソファの背もたれに深く沈めた。

 2LDKのマンションは一人で住むには広過ぎる。俺はちっちゃいワンルームでも良かったのに、この部屋も気づいたら蒼介がもう用意していた。引っ越そうかな……と、ぼんやり考えていたら、さっき放り投げたスマホが音を鳴らして俺に着信を報せた。見ると画面に『一葉』とある。俺はスマホに飛びついた。

『もしもし?てっしさん?ごめんね、電話出れなくて』

 頭の中に、2週間前に聴いた声が蘇って電話の声と重なる。

「いや、大丈夫」

 俺は柄にもなく緊張しながら答えた。

『用事なんだった?』

 おい、俺とおまえの間に用事があるといったらアレしかないだろう。

「いや、また会えないかと思って」

 俺は答えた。答えてから、なんだか電話の向こうがザワザワしていることに気がついた。

「今、外?」

『や、じゃないんだけど……ちょっと待って。予定見るから』

 ガチャッと音がして、急にぐわっとザワザワが大きくなったかと思うと、ただの雑音だったものがはっきりと意味を持った言葉に変わる。

 生一丁入りました!3番テーブルお会計です!すみませ〜ん、注文お願いします!

 様々な男女の声が入り混じって騒がしい。

 どうやら一葉は居酒屋に居るらしかった。てことは大方サークルかなんかの飲み会でもやっているんだろう。

『んーとね、明後日なら空いてるよ』

 一葉が答えるのと同時に、電話の向こうで見知らぬ男が、『山口くーん、ホールこんできたから出てくれる?』と叫んでいるのが漏れ聞こえて来た。

『あ、はーい!』一瞬、一葉の声が遠くなると、『ごめん、てっしさん。俺、もう行かないと。場所と時間、メールしといてくれる?』と焦った声がして、唐突にぷつっと電話が切られた。

 え?あいつ、働いてる方なのか?

 もしかして男に体を売る仕事は廃業してそっちに転職した?だとしたら、俺は余計なことをしてしまったのだろうか。

 ……まあ、いっか。本人がいいと言ってるんだし、彼の私生活は俺には関係がない。明後日、一葉に会える。その事実にのみ俺は心を踊らせた。


 痩せてる。絶対に痩せた。

 裸になって俺の下にいる一葉の体を触りながら俺は考えていた。

 あれから2週間しか経っていないのに、一葉は少しだが明らかに痩せていた。

 無理をしているのだろうか。私生活なんか関係あるかと思ったものの……居酒屋でバイトしながら合間に体を売って、こんな短期間で痩せるくらいに体を酷使してまでこいつがしたいことって何だろう。

 俺の興味が一気に騒ぎ出す。

「あっ……てっしさん……ちょっ……まって」

 まってと言われても止めずに、激しさを増してみたら、一葉は息を切らしながらあっという間に落ちてしまった。

 おそらく疲れているのもあったのだろう。今はスースーと寝息をたてて完全に寝入っている。

 好奇心の強いオジサンで悪いな青年よ、と思いながら、俺は一葉が持って来た使い込んだリュックサックを引き寄せて、もう一度一葉が寝ているのを確認するとゆっくり音をたてずにファスナーを開けた。

 中にはガラケーと定期入れと、こちらも随分使い込んである財布が入っているだけだ。

 俺はまず、二つ折りになった財布を取り出し、中を開こうとしたらマジックテープ式になっていることに気づき、もう一度一葉を確認してからそおっとゆっくりマジックテープを剥がしていった。力を入れる度にペリペリと財布が音を鳴らす。

 時間をかけてやっと財布を開くと、いくつかあるカード入れのポケットに一枚だけカードがささっていた。取り出すとそれは、健康保険証だった。

 プラスチック製のカードに印字された、健康保険被保険者証の横に『本人』の文字……本人?!視線をカードの下方向に走らせると、そこには、『事業所名称 合資会社 木下製作所』とある。

 こいつ……工場で働いているのか。で、夜はバイトして体を売って、そりゃ痩せる。

 氏名は、『山口一葉ヤマグチイチハ』本名だ。生年月日、『平成15年10月19日』えーと、平成が31年までで今、令和4年で……俺は頭の中で計算をする。え?19歳?!数ヶ月前まで高校生じゃないか!え、俺、犯罪者?じゃないよな?駄目なのは18歳未満だよな?そもそも俺は嘘をつかれていたわけだし、え〜…………よし、見なかったことにしよう。俺はスチャッと保険証を財布のポケットに戻した。

 次にお札が入る大きなポケットを覗く。中には俺がさっき渡した3万とこの前渡したと思しき3万が手つかずのまま入っていた。その他には千円札が2枚と、なんだろう、レシートだろうか。小さく折りたたまれた白い紙が入っている。

 俺はその白くて薄い紙を取り出すと、破ってしまわないように注意しながらそっと開いた。

 開いた瞬間、心臓がドキッと音をたてた。

 目に飛び込んで来たのは、『入院診療費領収書』の文字……誰か入院しているのか。請求期間はまるっと一ヶ月分で、請求額はそれなりだ。長期間入院しているのだろう。誰だ?家族?

 氏名を確認する。

篠宮裕揮シノミヤヒロキ……」

 俺は声に出して呟いていた。篠宮裕揮?誰なんだ。


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