あと少し世界が続いたらきっと泣き叫んでしまう

笹木シスコ

〜哲志の章〜

哲志−1

 さっきからずっと、道路の向こうでウロウロしている一人の青年を、テーブルに肘をつきながら眺めていた。

 店内に比べて外は暗いのではっきりとはわからないが、帽子を被っているのだろうか。それとも、ああいった髪型なのだろうか。頭がもこもことしている。あんな野菜があったっけ。なんだろう……ああ、そうだ、ブロッコリーだ。

 俺が座っているボックス席の窓側の椅子のすぐ隣の椅子に、茶髪にパーマをあてた細身の男性が座った。俺が「ごめん、待ち合わせなんだ」と手のひらを向けると、男はあからさまに不快そうな顔をして席を立った。

 まあ、当然だ。ここは同性愛者が出会いを求めて集まる場所だ。こんなところに一人で座っていれば、相手を探しに来ていると宣言しているようなものだ。待ち合わせなら他でやってくれ、と思われても仕方ない。

 俺も確かに最初はここに、今夜の相手を探しにやって来た。今の彼もなかなか好みのタイプだったな。惜しいことをしたかも知れない。

 でもそれよりも何よりも、今は窓の外に見えるもこもこ頭の青年が気になって仕方がないのだよ。

 何人か男が青年に声をかけていったが、みんな少し話しをしただけで去っていく。今の男なんか険しい顔をして、去り際に何やら汚い言葉を投げかけたようだ。

 金を請求している?

 俺はそう検討をつけた。あの青年はナンパしてきた人間に、今夜の相手をする代わりに金を払うよう要求しているんじゃないのか?

 路上で身売りをする行為は、取締りの対象になるんだったっけ?日本の法律はどうなんだったっけ?

 何にせよ、あの青年は今、とても危ない行為をしているんじゃないかと思えた。

 そうやって店の中から外を眺めていたら、つと目の端に、さっき青年に向かって汚い言葉を投げかけた男がスマホを取り出してどこかへ電話をかけている姿が見えた。青年は気づいていない。俺は反射的に伝票を掴むと席を立った。


「やあ」

 俺は店を出ると、ほとんど車が通らない道路を小走りで横断しながら、もこもこ頭の青年に向かって声をかけた。

 青年は俺を目に留めると、暫くじっと顔を見たあと、値踏みをするように上から下までサッと視線を走らせる。

 金ヅルにするにはなかなか良さそうなオジサンだろ?オジサンといってもギリ20代の29だけど、目の前の、どう見ても大学生くらいにしか見えない青年にとって俺はオジサンの範疇だろう。

 今日はたまたま、取引先の社長の誕生日パーティーとやらに招待されて、俺は派手すぎずラフすぎず、まあまあ上品に見えるスーツを着てここに来ていた。いつもはもっとラフな服装で来る。

 今日で50歳だという丸顔で話し好きな社長は、うちの会社とは付き合いが古いらしく、これからも良好な関係を続けていきたいと思っている。

 だからというわけでもないが、取り敢えず代表取締役という立場上、社長の好きな酒を手土産に、挨拶だけでもと指定された社長の別荘を訪れたら、そこはどうやら誕生日パーティーを兼ねたお見合いの場だったらしく、まんまとはめられた俺は今年女子大を卒業したばかりだという、社長の愛娘を紹介されてしまった。

 アナタが大事な娘さんを紹介しているのは、男しか愛せない男ですよ、と心のなかで呟きながら、失礼のないよう笑顔を崩さず、今度食事でも、と若い娘さんと社交辞令を交わし、誰を生け贄に捧げようかと社内の独身の男性社員を脳内検索して、ムシャクシャしながらその足でここへやって来たのだ。

 ああいう日本の慣習がまだ残っているというのが本当に腹立たしい。

 そんなささくれだった気分でなかばヤケっぱちになっていた俺はスマホを取り出し、メモ機能を使って素早く『3万でどう?』と打ちつけると、青年に向かって「良かったら一緒に飲みに行かない?」と言いながら、周りからは見えないようにスマホを体で隠し画面を青年に向けた。

 俺は金で男を買うのは初めてだったが、おそらく破格なんじゃないかと思う値段を提示したつもりだ。

 ノッてくるだろうか……。俺の勘違いだったら、俺は今ただの危ないオジサンだ。

 少しドキドキして、でもどこかワクワクして反応を待っていると、青年は自分よりも背の高い俺の顔を見上げ、「うん」と言うと、にっこりと笑ってみせた。笑うと、右の頬にえくぼができた。

「場所変えようか」

 俺が小声で囁いて歩きだすと、青年は黙ってついてきた。

 もこもこの頭は帽子ではなく、どうやら自毛らしかった。


 車を停めてあったコインパーキングにつくと、俺はまず精算機で駐車料金を精算した。そして、近づくと自然にロックが解除されるよう設定されている、俺の愛車の助手席側のドアをまず開けると「どーぞ」と紳士さながらに青年に声をかける。

 青年は何の警戒心も見せず、素直に車に乗り込んだ。そして背中に背負っていた、使い込んだ感のあるリュックサックを降ろすとちょこんと膝に載せる。

 俺が運転席側に回ってドアを開けると、青年は車内前方の真ん中についた大きなモニターを見て、少年のように目を輝かせていた。

 俺は車に乗り込んでドアを閉めると、やっと人心地ついて、「おまえさ、あんなとこ立って危ないとか思わなかったの?今どきウリやりたいならネットとか色々手はあるだろ」と、やっと言いたかったことを青年に向けて吐き出した。

「ネット……」

 モニターを隅々まで眺めていた目が、ピタッと俺に焦点を合わせて止まる。

「ネットとか、ないんだ」

 青年が、急にしゅんとして答えた。

 俺は取り敢えず車をパーキングから出そうと、ブレーキペダルを踏む。

 そして「スマホでもできる」と初歩的なアドバイスを、ブレーキからアクセルに足を踏み変えながら青年に伝える。

「スマホも、持ってない」

 マジかっ?!

「今どきスマホ持ってない若者がいるんだな」

 俺は表情を変えないようにしながらも、素直な感想を口にした。小学生でも持っているこの時代に、まさかの天然記念物モノだ。

 俺は話題を変えることにした。

「いくつ?」

「え?」

「とし、何歳?」

 これは大事な問題だ。返答次第では、俺は犯罪者になってしまう。

 ああ、と青年は納得すると、「ええっと…」と手を口元に持っていきながら考え込む。考えているという時点で、嘘を言おうとしていると、俺に感づかれる危険性には気づいていないらしい。

「25」

 嘘だな。どう見ても20歳かそこらだ。下手したら高校生にも見える。でもまあ、いい。未成年ではない、という言質さえとれればそれでいい。

「ねえ、この車、なんて名前?」

 今度は青年の方が俺に質問してきた。ゆっくりとした口調が人懐っこい。

「テスラ」

 矢印信号が出たのを確認して、ハンドルを右に切り、答える。

「なんか未来の車みたいだね。空も飛べそう!」

 子どものように無邪気なことを言い出す青年に、思わず吹き出しそうになった。

 俺は苦笑しながら「そうだな〜……」と、ちょっと考えて「空は飛ばないけど、どこまでも行けるよ」と、本当に子どもを相手にしているかのように言った。

「どこまでも……」

 青年は独り言のように呟くと、運転している俺の顔を下から覗き込んで「いいね、それ」と、にっこり笑った。右の頬にえくぼができた。


 ホテルに入った俺たちは、すぐに行為に及んだ。前金だろうな、と思って始める前に金を渡したら、「えっ?」とびっくりされて、おずおずと手を出すもんだから、もしかしてそっちも売るの初めてなのか、と訝しんだが、体は十分慣れているらしく、青年は俺を抵抗なく受け入れ、深く分け入っていくたびに悦楽の声を漏らした。

 俺は体を売る人間が嫌いでは無い。もちろん、何らかの事情で誰かに強要されている場合は、どうにかして救済されるべきだと思うが、自分の目的を達成するために自らの体を差し出せる潔さには、むしろ尊敬の念すら覚える。

「一回で……いいんだよね?」

 事が終わって後始末をしながら、青年は伺うように俺に訊いてきた。

 じゃあ、二回目を……と言えばやらせてくれるんだろうか、と邪なことを考えながら、俺は「うん、いいよ。ありがとう」と笑顔を作って見せる。

 青年は少し微笑んで頷くと、いそいそと衣服を身に着け始めた。

「あ〜ちょっと待って待って」

 俺は青年に声をかけながら、取り敢えず下着だけ身に着けると、自分のカバンの中に手を突っ込んで、二つあるスマホのうちの、アプリなどをほとんど入れていない個人情報を特定しにくい方のスマホを取り出した。取り出したところで、あ、こいつスマホ持ってなかったんだっけ、と気づいてまたスマホをカバンに戻し、代わりにペンと手帳を取り出すと、俺の電話番号を書きつけたページをビリッと破った。

「気が向いたらまた買うよ。もうあの場所には立たない方がいい」

 俺が電話番号を渡すと、青年はびっくりしたように目を大きくして、恐る恐るそれを受け取った。

 何でこんなことをしているのか、自分でもわからなかった。

 電話番号なんか渡して、悪用されたらどうするんだ?そもそも、何でこいつをホイホイ車に乗せてしまったんだ?。もしナンバーを覚えられていたら?

 ――俺はいつから、こんなに用心深くなったんだ?

 きっと、アレだ。蒼介そうすけから会社を引き継いでからだ。代表になってからというもの、俺は何をするときも、俺が抱えている社員たちのことを頭にチラつかせてしまう。

 でも今この瞬間、この青年といる間だけ、俺はただの一人の『男』になっていた。

「名前は何て登録すればいいの?」

 青年の声にハッとして、遠くへ行っていた意識が現実に引き戻されると、目の前で青年が俺の渡したメモを見ながら右手で小型の機械を一生懸命操作しているのが見えた。あの懐かしいフォルムは……。

「え、おまえ、まさかまだガラケー使ってんの?」

「え?うん、安いから」

 青年が俺の電話番号を登録していた手を止めて答えた。

「いやいや、格安スマホとかあるだろうがよ〜。ていうか、多分それ、もうすぐ使えなくなるぞ」

「えっ?!ホントに?」

 青年が心から驚いた、といった顔で俺を見たあと、手元のガラケーをじっと見つめた。

 なんか、とぼけたヤツだな。まさか不法滞在者とか戸籍がないとか、そんな類か?まあ、どうでもいいけどな。

「てっしでいいよ」

「え?」

「名前、てっし」

 俺はパンツとシャツだけの姿で、ごろんとベッドに寝転びながら、青年に向かって言った。

 俺の本名は哲志てつしなのだが、下に「さん」とか「くん」とか付けると途端に呼びにくくなる、と周りから散々言われてきて、そんなのは俺のせいじゃなくて名前をつけた親のせいだろ、と毎回言い返したくなったのだが、もう面倒くさいのでいつもこう言っていた。「てっしでいいよ」と。

「てっし……さん」

 青年は呟きながら、カチカチと音をたてて手元のキーを操作する。

 その音がやんだ瞬間、俺のカバンの中からピロピロとスマホの着信音が聴こえてすぐに消えた。

 カバンを引き寄せてスマホを取り出すと、画面に着信アリの表示が出ていて、その隣に知らない番号がある。

「それ、俺の番号」

 青年がガラケーを片手に、にっこり笑って言った。右頬にえくぼ。

 俺はその番号を連絡先に追加すると、名前のところに『右頬えくぼ』と入れようかと思ったが、一応向こうから訊かれた手前、こちらも礼儀として「名前はどうしたらいい?」と青年に訊いてみた。本名を名乗るとは思えなかったが、一応だ。

「いちは」

「え?」

「一枚の葉っぱって書いて一葉いちは」一葉がにっこり笑った。

 これが俺と一葉の最初の出会いだった。


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