第22話 悪事とは
俺と真夏先輩が高校の校門前に着いた時、もうすっかり世界は藍色に染まっていた。夜空には点々と光る星が見える。最終下校時刻もすっかり過ぎて、人の気配は無い。
「これは完全に悪いことですねえ・・・」
「ふふ。そうだね」
真夏先輩の顔は完全に悪だくみを実行する人の顔になっていた。夜風によって彼女の綺麗なセミロングが波打つ。
俺と真夏先輩は、夜の高校に潜入しようとしていた。
「生徒会長がこんなことして良いんですか」
「多分だめだね」
「確定的にダメですね」
こんな会話をしているが、俺も真夏先輩も完全に覚悟は決まっている。
潜入する理由は二つ。一つ目は冬乃先輩の退部届受理の書類入手。というより隠蔽。二つ目は内通者を見つけ出す。こちらは漠然としていて何か手がかりを探し出せればいいなという願望混じりの目的。
言わずもがな、邪道だ。というか、ルール違反。多分。
俺の戯言を気に掛ける様子もなく真夏先輩は校門に手をかけた。
「よっ」
アクティブによじ登る真夏先輩。こういう何気ない瞬間にも運動神経の良さが垣間見える。
「あ、ちょっと向こう向いてて。スカートめくれちゃうかも」
「はい」
素直に後ろを向くと、少しして後方から声が聞こえた。
「ちょっとぐらい見ても良いんだよ?」
「見てほしいんですか?」
「見たら殴ってたね」
「矛盾」
真夏先輩の足が地に着いた音をしっかり確認してから俺は向き直した。
俺も校門によじ登るが、体がなかなか重い。明らかに真夏先輩よりも動きが鈍臭い。運動不足のツケが如実に現れていた。
俺が着地すると真夏先輩のバカにしたようなニヤケ顔が待ち構えていた。
今にも吹き出しそうだ。
「なんだよ」
「別にー?」
思わず敬語を忘れてしまった。真夏先輩はニヤニヤしたまま校舎へと向かう。
夜の学校というものは、シンプルにワクワクした。
いつも活気が溢れ、みずみずしい声が交錯するこの空間が幻だったのではないかと思うほどに今は静かだ。いや、今が幻なのかもしれない。そう思ってしまうほど、この場所はどこか幻想的だった。
2人の足音だけが廊下に響いて、月明かりによって作られた影が動く。
「うほほーい!夜の学校ってやっぱりワクワクするね!」
スカートをひらひらさせながら歩く真夏先輩。
「見回りの人にだけ気をつけましょう」
「うん!」
今の助言の後に普段とさほど変わらない声量を出す真夏先輩。俺はいちいち反応するのをやめた。
「よーし!探検だ!」
真夏先輩ははしゃぎ、一歩一歩をとても楽しそうに歩いた。本来の目的を忘れないのならもうなんでもいいや。
俺はこの先輩をただただ見守ることにした。
ガチャリと音が鳴って、職員室の扉は開く。
真夏先輩が刺したスペアキーはやけに重そうに見えた。
「良い子の田中くんは真似しないでね。内緒だよ」
生徒会長である真夏先輩はスペアキーの場所を教えられていた。もちろんこんな使い方はアウトだろう。でも、もう戻る気はない。
薄暗い職員室の敷居を跨ぐ真夏先輩。
「そりゃ内緒です。こんなんバレたら俺は良いですけど、真夏先輩はどうなるんですか」
小笑いと共に言った俺の発言に真夏先輩は少し目を細める。口元は少し笑っているけれど、目は複雑な色彩をしていた。
「なんか、田中くんは私を随分神格化してくれてるみたいだね」
哀愁のある声音。俺の言葉にこんな反応をしたのは始めてだった。
このような時に限って返答が浮かんでこない。
「私はただの女子高校生だよ」
自分自身に向けたような冷たい呟き。
「・・・はい」
とりあえずの返事。真夏先輩がこっちを向くことはない。
俺が今の真夏先輩の言葉の真意を見出せずにいると、「あった」と彼女は口に出した。
随分とあっさり、冬乃先輩の退部届は見つかった。
真夏先輩は部活動担当の先生の机にあったファイルから冬乃先輩の退部届、そして受理完了書類を抜き取った。
無論、これで冬乃先輩の退部が取り消しになるわけではないだろう。データにも多分残っている。でも、冬乃先輩直筆の退部届を隠蔽することで数日は時間が稼げるだろう。少なくとも、生徒会選挙が全て終わって落ち着いてからの数日間。
部活動の問題はその時に全力を出す。
「よし、次は咲ヶ原の教室ですね」
「せっかくだからさ、生徒会室にも行こうよ」
この人はいつも予想外の発言をする。「え?」とか「ん?」とかそんな言葉すらもう出てこなかった。時々思うけれど、本当に生徒会長の時と同じ人か?二重人格ということもあながち否定できない気がした。
でも俺は何も反論せずに真夏先輩の後ろを着いていく。職員室と同じフロア、2つ隣の部屋が生徒会室なのだ。
「でも、なんのために?」
「なんのためでもいいよそんなの。行きたいから行く。それだけ」
正直、今見回りの人に見つかったらとんでもないことになるだろう。犯人が証拠を持っているので現行犯だ。でも今の状況は、証拠を持った犯人が事件現場で犯行後に飯を食うようなもの。
まあ、大丈夫だろうと自分を誤魔化すしかない。
「なんか、こんなに狭かったでしたっけ」
夜の生徒会室に入った最初の感想はそれだけ。
「君がでっかくなった証拠だよ」
「母親みたいなこと言わないでください」
真夏先輩は微笑みながらゆっくり生徒会室に入っていく。中央に置かれている長机。それに沿って等間隔で並べられている椅子達。
一つ一つの椅子を柔らかい顔で、どこか寂しそうに見ている真夏先輩。
慎重な歩みはやがて一番奥、生徒会長席へ導いた。長机とは別に独立している1つの机。
10秒ほど眺めてから、腰をかける真夏先輩。黄色の月をバックに燦然と輝く真夏先輩。神秘的なその光景に俺は目を奪われていた。
「やっぱやだなぁ・・・まだまだ生徒会で活動したいな」
俺は何も声を発さずに、真夏先輩に近づいた。
「私、学校が好きなんだよ」
真夏先輩の目から綺麗な一筋の涙が流れたのはその時だった。
「生徒会が好きなんだよ」
真夏先輩の涙を見るのは二回目だ。それもかなり短いスパンで。
「寂しい・・・」
目を覆って、肩が震えている。俺は背中を優しくさすった。
6月。卒業シーズンにはまだまだ早い。
この時期に泣く人なんて真夏先輩だけじゃないか?多分真夏先輩は、人が大好きなんだろう。
「まだまだ、学校ありますって」
「でも生徒会の仲間たちとはもうお別れだよ?」
潤んだ瞳で、上目遣い。絵画のように美しかった。
「それは、確かにそうですけど」
真夏先輩は人との縁を大切にする人とっても素敵な人。
「そろそろ出よっか」
「そうですね」
真夏先輩が立ちあがろうとしたその時、足音が聞こえた。廊下から。
瞬時に俺と真夏先輩は目を合わせた。魔法が解けていくかのように、頭が冴えていく。脳にかかったフィルターがなくなっていく。
やばい。終わった。こんなことがバレたら、タダで済むわけがない。
大きくなっていく足音が焦りを増幅させる。変な汗が身体中から吹き出た。
足音は最大に大きくなって、生徒会室の扉を開けた。
「・・・!」
生徒会室を懐中電灯の光が右往左往する。でも、見回りの人の視界には、俺らは映っていないだろう。
俺と真夏先輩は、机の下に隠れていた。
人2人が入るには少々狭い生徒会長机。さらに、咄嗟に隠れたため俺が床に仰向けで横たわり、その上に真夏先輩が乗る形になってしまった。今は下手に音を立てられないので、その態勢で静止。真夏先輩の体が俺に密着し、体重がかかる。
さらに先輩の綺麗なお顔がめちゃくちゃ近くにある。少し動かせばおでことおでこが触れるぐらいに。真夏先輩と一瞬目があったけれど、恥ずかしくなって逸らした。
2人とも息を潜めて、事態が過ぎ去るのを待つ。
真夏先輩の持つ体温が直に体に伝わり、すごく緊張した。柔らかい体が直接俺を包み込むかのように触れている。
2つの鼓動がシンクロし、1つのように感じた。
俺は横たわっているだけなので平気だが、真夏先輩は相当きついだろう。もうすでに2分。なるべく俺に、体重を乗せないようにしてくれているが、どんどん体は下がっていく。流石の真夏先輩の体幹でももうそろそろ限界なのだと察した。
真夏先輩の体が小刻みに震え出した。
まだ、見回りの人は生徒会室内を懐中電灯で照らしている。もしかしたら俺たちのさっきの話し声が聞こえてしまったのかもしれない。ネズミか何かだと勘違いしてくれと強く願った。
ここで真夏先輩が倒れ込んでしまったら間違いなく物音が立つ。必ず俺たちがいることがバレる。
不意に真夏先輩の顔を見ると、かなりきつそうだった。
俺は小さく息をはいたあと、覚悟を決めた。
腕をゆっくり真夏先輩の腰に回して、こちらに引き寄せる。
俺は、優しく真夏先輩を抱きしめた。
先ほどよりも体に重みが増す。二人の前髪を挟んで、額が接触した。
真夏先輩も俺が何をしようとしているのかわかったのだろう。
スッと力を抜いて、俺に全てを預けてくれる。
フワッと香る爽やかな匂い。この世界は二人だけのものな気がした。
こんな状況なのに、俺はすごく癒されてしまう。
この人を包んでいると心が穏やかになる気がする。
真夏先輩は、少ししてから俺の左肩に顎を乗せる。頬と頬が少し擦れた。
一瞬見えた真夏先輩の表情は、これまで見たことのないもの。頬をほんのり赤らめて、少し深い微笑みを浮かべていた。
見回りの人がもういなくなっていたのに気づいたのはそれから5分後のことだった。
冬乃は今日も咲ヶ原の家に来ていた。
見慣れた景色、新鮮味のない整頓された咲ヶ原の部屋。
咲ヶ原は勉強机に座り、無心にパソコンを打っている。こちらの視線に気づく様子は無い。
冬乃はもたれかかっていた咲ヶ原のベッドから立ち上がって伸びをする。
「翔平、コーヒーでも取ってこようか?」
「ああ、うん。お願い」
作業をストップしてこちらを向いてくれる。少し疲れているような笑顔。
冬乃は笑って頷いてからリビングへ行こうとする。
「ああ、冬乃さん」
呼び止められた。
「ん?」
咲ヶ原はまた笑いかける。
「田中くんの政策、入手してきて」
俺と真夏先輩の間になかなか気まずい空気が流れていた。
目を合わせられない。俺は今までにないほど真夏先輩を意識してしまっていた。
「た、田中くん!私だって悪いことできるんだよ!」
急に何を言い出したかと思ったら、彼女は手首足首をぐりぐりと回し出す。準備体操でやるあれだ。
すると彼女は滑らかに屈んで片膝と両手を地面につけた。
最初、何をしようとしているのかわからなかったがその姿を俯瞰して見るとそれがなんなのかはっきりと理解した。
クラウンチングスタート。
意味がわからない。何かが空回りしていることだけはわかる。
そう思った瞬間、彼女は全力で走り出す。
「は?」
みるみる姿を小さくしてゆく真夏先輩。さながら、というか風そのものに見えた。
「早く着いてきて!」
「はあ?」
俺はろくに準備運動もせずに真夏先輩を追いかけた。
追いかけた。
追いかけた。
でも、全く追いつかない。
基礎体力が違いすぎる。通常速度、最高速度、持続力。何も俺は真夏先輩の数値を上回っていなかった。走れば走るほど背中は遠のいていく。
真夏先輩は、誰も並走していないのに誰かと競争しているような気がした。
校内に響く小刻みな足音。もう俺も何かのリミッターが外れていた。
ただただ真夏先輩に追いつくことに必死で、見回りの人にバレるんじゃないかなんて気にしている暇はない。
気がつくと俺と真夏先輩は咲ヶ原の教室についていた。
息を吸い込むことがやっとで肩で息をしている俺と、すっきりとした表情でいまだに全くへこたれていない真夏先輩。その対比は俺にとってかなり残酷だった。情けない。
「はぁ・・・悪い・・・ことって、もしかして・・・廊下を・・・はぁ・・・走ったことですか?」
「うん!」
真夏先輩は自信満々にそう答えた。俺はさらに項垂れる。
こんなことを俺は悪いことだと認識したことはなかった。この人と自分の腐り具合の差に涙が出てくる。
「探そっか」
そんな俺の心情なんてつゆ知らず、本題に移る真夏先輩。
いつもの空気感が少し戻ってきた。
俺も急いで息を整えた。ゆっくり息を吐いてから気持ちを切り替える。
望み薄だが、ここで何か内通者の手掛かりを見つけられたら良い。我ながら安直な行動だ。
俺はこの時だけ自分の中のモラルを解除して咲ヶ原の机の中という秘境を見た。
当然というべきか。
何も入っていなかった。
「まあ、そうだよね・・・」
覗き込んだ真夏先輩も平静と言う。
「しょうがないですよ。これはダメ元です」
俺が出口に体を向けた時、
「正直田中くんは、内通者は本当にいると思う?」
真夏先輩はそう言った。
その表情とトーンから読み取る。
「・・・真夏先輩はいないと思ってるんですね」
浮かない顔。
俺なんかよりよっぽど頭がいい真夏先輩のことだ。
もう現実に気づいてしまっているのだろう。
「じゃあ認めたくないだけで、ほぼ確信してるんですね」
悲しくも、切ない結論。
「内通者はいる」
噛み締めるようにそう言った。
「やっぱそうですよね」
俺は近くにあった誰のものかもわからない机に寄りかかって、天井を見た。
「あんまり考えたくないですけど、華菜先輩以外の人たちはみんな可能性が」
「うん」
俺の言葉を遮った重苦しい返事が耳に届いて、俺は思わず彼女を見てしまった。
そして、その少し荒んだ表情を見て、俺は勘づいてしまう。
「真夏先輩・・・」
次の言葉を出すのが怖い。
「もしかして分かってるんですか?」
先輩がこっちを見ることは無い。
「内通者」
真夏先輩はまた頷く。
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