第17話 照らす太陽
「田中さんってやっぱり本好きですよね」
俺の部屋で、家庭教師の恋咲先輩はつぶやいた。俺が一学期に理解しきれなかった部分の復習テキストを解いている時だった。
ペンの動きを止めずに俺は答える。
「何のことですか」
「華菜から聞きましたよ。新入生歓迎会で発表した矢田柊花の本はあなたの持ち物だと」
そのことか。でも別にその本の持ち主が俺でも本が好きだと断定するのは時期尚早ではないか。ただ一冊本を持っていただけだ。
内心ギクっとしたが、態度には出さないように気をつける。
「そうですかー」
動揺を隠したその生返事を聞いて、恋咲先輩は少しムッとした。
「隠すことじゃないですよね?」
「まあ別に隠してはないっす」
返事を間違えた。これだと俺が本好きだと認めたようなものではないか。
「部屋にも矢田柊花の本がたくさんありますもんね」
動きを止めざるをなかった。
「・・・げ!見てたんすか。何で?そんなに僕のことが気になりますかー?」
「やめてください」
無理やりいつもの調子に戻し、茶化すと恋咲先輩はマジトーンで嫌がった。
「あ、はい。すんません」
ここは素直に謝るのが得策。恋咲先輩と出会って早2ヶ月。取り扱い説明書は熟読しているつもりだ。
「でも、不思議な縁ですね」
しっとり微笑む恋咲先輩。どういう縁だ。
本好きの華菜先輩と本好きの俺が出会ったことか?別にそれなら不思議な縁ということもないだろ。本好きなんてこの世にごまんといる。
第一、俺は本が好きではない。矢田柊花は例外だ。
じゃあ何が不思議な縁なんだ?
「何がですか?」
その質問に恋咲先輩は淡々と答えた。
「華菜の人生を変えた先輩の本を、あなたが好きだなんて」
「へーそうなんすか・・・は?」
この人は何を言っている。
俺の部屋に静寂が訪れた。
突如提供された情報を素直に記憶と締結できない。華菜先輩が何度も口にしている大好きな先輩。読書研究部の創設者。
恋咲先輩の話だと、その先輩が矢田柊花?ということになる。
いや、まさか。ありえない。そんなこと。
困惑している俺を見て恋咲先輩も困惑する。何か口に出さねばと思ったが頭の中の思考がうまく回らず何も出てこない。
一度、落ち着いて唾液をごくりと飲んだ。その後にやっと話す。
「今なんて?」
「・・・あれ?華菜から言われてないんですか?」
動きの鈍い俺の姿を見て、恋咲先輩は驚いたように言った。
言われてない。華菜先輩からは何も言われてない。
「え?な、どういう?」
まだ状況を理解しきれていなかった。
「だから、華菜が何度も話す大好きな先輩」
そこまではわかる。今現在、俺が所属している部活を作った人。人を惹きつけて離さない。まるで真夏先輩のようなイメージが俺の中では勝手にある。
その人が卒業したと同時に読書研究部の部員は軒並み辞めて、華菜先輩が部長になると部員は華菜先輩一人になった。なんとか存続させるために無理を言って、恋咲先輩、真夏先輩、冬乃先輩を入部させた。
それでも部員は足りない。そこに俺が入った。
「はい。それが・・・?」
恋咲先輩が答えるまでの間がとんでもなく長く感じた。
「その人こそ、矢田柊花です」
しっかり10秒。空白が自然と空いて、溢れ出した。
「はぁぁぁぁぁぁ!?」
部屋に轟音が響いて恋咲先輩がたじろぐ。こんなに大きな声を出したのは久しぶりだ。
俺がいちばん驚いている。多分近所迷惑だ。
驚きによって制御が効かなくなった体で俺は恋咲先輩に詰め寄った。聞きたいことが多すぎる。
でも、その瞬間目の前から恋咲先輩は消えた。
はっきりとした自我が戻ったのはそのタイミングだろう。一瞬、自分がどういう状況に置かれたのか分からなかった。
ふと、下を見ると恋咲先輩は床に倒れ込んでいた。
顔を顰めて少し唸りながら。
恋咲先輩は消えたのでは無い。倒れたのだ。
「・・・え?大丈夫ですか!」
数分前から自分の思考が追いついてなさすぎる。でも今はとにかく恋咲先輩だ。半ば本能的に俺は恋咲先輩の肩を揺らした。
俺の問いかけにはっきりとした返事は返ってこない。俺は正座になり、恋咲先輩の頭を膝に乗せた。
「おでこ触りますよ!」
左手で後頭部を支えて俺は恋咲先輩のおでこを触った。めちゃくちゃ熱くはない。多分平熱だ。
脈は大丈夫なのか。心臓はちゃんと機能しているのか。
俺は恋咲先輩の胸に耳を近づけた。
ふわっといい香りが鼻を抜けるが今はそんなことどうでもいい。心臓もちゃんと動いている?
耳を澄ましてもよくわからない。俺は申し訳なさを覚えながらも恋咲先輩の首元から少し下辺りを触った。うん。多分心臓は動いている。
じゃあもう倒れた原因がわからない。というか俺は別に医者じゃない。とにかく今は急いで救急車を。
最初からこうすれば良かった。俺は色々とテンパって、選択を間違えてしまった。
スマホを取り出そうと、自分の机へ向かおうとした瞬間。それとバッチリ目が合った。
綺麗で輝きを帯びている魅力的な瞳。黒目が下に動く。
彼女の視界には自分の胸に手を置いている俺の姿がバッチリと写っていた。
「ん?」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
先程の俺の叫び声を遥かに上回る声が家中に響き渡った。そしてその声が飛び出てくると共に俺は右頬をビンタされる。首がひねってねじ切れるんじゃ無いかと思った。死ぬほど痛い。
「水です」
「ありがとうございます」
恋咲先輩はコップに入った水を上品に飲み干した。
あれから10分。なんとか俺がセクハラをしようとしていたわけではないことに納得してもらえた。
決死の判断でおこった事故。なんか弁解をしてことは収まったが、俺が意識を失った女性の体を触ると違和感なく思われたのはなかなかショックだった。
でもそんなことより恋咲先輩の意識がすぐに回復して良かったという思いが強い。大事に至らなかったから別に俺のことはどうでもいい。
俺の右頬にはバッチリ赤い手形が刻まれているが。
「すみません。多分貧血です」
「本当に大丈夫ですか?バイトのしすぎとか?」
「そうかもしれませんね」
「申し訳ないです。家庭教師を頼んじゃって」
「いやいや!こっちこそ、今回のお代はお返しします」
「そんなのいいですよ。今は恋咲先輩が無事で良かったです。先輩に何かあったら嫌ですから」
恋咲先輩は俺の笑顔を見てまた少し顔が険しくなった。何か気に触ることでも言ってしまったか・・・?
「なんでそんなことを平気でいうんですか」
口を尖らせて恋咲先輩は言う。
「はい?」
「はあ。華菜が変わる理由が少し分かりました」
深いため息と一緒に飛び出たその言葉の意味がわからなかった。
「えっと・・・?」
「華菜は、とても明るくなりました。華菜がここまで変わったのを見るのは、矢田さんと会った時以来2回目です。華菜にとってあなたはそれほど影響を受ける存在です。そして、それは華菜だけじゃない。あなたの行動で周りの人は明らかに変わり始めています」
ちょっと色々整理したい。さっきから気になる話題が多すぎる。
質問攻めと行きたいところだが、今は恋咲先輩の体が心配だ。普通に話しているけど、どこか疲れているように見える。
断腸の思いで俺は質問を一つに絞った。
「それは・・・恋咲先輩も?」
俺の質問を聞くと、恋咲先輩は目を逸らす。
「そ、それは知りません!」
「そーですか」
この人はクレバーに見えて結構わかりやすい。
俺の心ここに在らずな返事を聞いて、恋咲先輩の表情は変化した。
「また何か悩んでるんですか?」
何でこの人はこんなに鋭いんだ。
真夏先輩から驚愕の提案をされてから1日。俺は決断をしかねていた。自分の優柔不断さにつくづく嫌気がさす。
断るならはっきりと断るべき。というかそれ以外にこの問いの答えはない。
生徒会長?俺が?あり得ない。考えることもおこがましい。これは俺がやりたいやりたくないとかいう以前の問題だ。絶対に俺に生徒会長をやる技量はない。
学校のリーダーであり看板。
そして偉大な真夏先輩の次。
考えるだけで足がすくむ。
昨日、真夏先輩は提案だけしてすぐ帰ってしまった。「考えといてねー!」と元気に手を振りながら。
俺は1人でこのことを抱え込むことができず、恋咲先輩に全てを白状した。
「なるほど・・・。真夏もなかなかすごいことを提案しますね」
「ですよね!?流石にめちゃくちゃですよね?」
「はい・・・。私は田中さんが生徒会長に向いているとも思いませんし、田中さんが生徒会長の学校には通いたくないです」
「はっきり言いすぎだろ」
全くこの人は。日を追うごとに俺への遠慮がなくなっている気がする。
「でも、私の気持ちなんて関係ないですよ。田中さんがやりたいならやる。やりたくないならやらない。それだけの話です」
真剣な眼差しで恋咲先輩は俺にそう言った。
「まあそうですけど・・・」
「あなたは少々お人好しなんですよ。他人のために動きすぎです。やりたくないのにやるのは真夏的にも本望ではないでしょうし、他の本気で選挙に挑む人たちにも失礼です」
グサグサと刺さる言葉たち。
「はい・・・」
「煮え切らない返事ですね・・・」
恋咲先輩はまたもや呆れたため息をつく。自分で自分が情けない。
俺が静寂を埋めるように話をしようとした瞬間、
「その表情を見る限り、私が思うにあなたは」
俺の心を全て見透かしたかのように、全てお見通しだと言わんばかりに
「やりたいのにやらない」
キッパリと、
「その選択をしようとしているように思えます」
恋咲先輩はそう言い放った。
室内に、爽やかな風が吹雪く。
「大方、自分は向いていないとか自分に務まるわけがないだとか理由をつけているのではないですか?」
恋咲先輩は遠慮なく俺の核心に近づいてくる。
「逃げないでください。自分の気持ちに従った挑戦は、どんな結果になろうとも必ず自分の糧になります。その経験は、かけがいのないものになります」
それは俺より人生を長く生きている人からの助言。たった一年。それしか変わらないのになんだがとても恋咲先輩が遠くに感じた。
もし俺が歳をとったとしても、この境地に辿り着けるのはいつだろうか。
この人は、俺の欲しい言葉をくれた。心臓が高鳴って、心が揺れた。
「恋咲先輩・・・」
恋咲先輩は微笑む。
あの時と同じだ。俺が読書研究会に入るか悩んでいた時。恋咲先輩の一言が俺の中ではかなり大きかった。
出会いは最悪だったけれど、この人と共に時間を過ごしていくうちにたくさん影響されていることがある気がする。それは華菜先輩も、真夏先輩も同じだ。
不思議な縁が俺の人生を豊かにしてくれた。
でも、さっきの言葉で一つ気になったことがある。
「どんな結果になろうともって、あなた僕は当選しないと思ってるってことですよね」
いつも通りツッコんだ。この掛け合いもなかなか様になってきたのではないか?
「そこは言わないお約束です」
可愛らしく口元に人差し指を当てる恋咲先輩。自然と視線がそこに行ってしまう。怒りたいけど怒れない。
「ふふっ。恋咲先輩らしいですね。ありがとうございます」
「いえ。私は何も」
恋咲先輩には助けられてばかりだな。いつか、必ず何か恩返しをしよう。
「明日、真夏先輩に言ってきます」
俺の憧れは真夏先輩だ。真夏先輩みたいになりたい。生徒会長になりたい。
心の奥底に隠していた思いは、もう止められない。
まだ勤務時間内だが、体調が心配なので早めに上がってもらった。後日病院には行くらしい。
俺は恋咲先輩が帰ったあと、矢田柊花について聞くのをすっかり忘れていたことを思い出した。
「真夏先輩!」
一夜明けて、決意は揺るぎないものへと変わっていた。
3年生のフロア。お友達とおしゃべりをしている真夏先輩を俺は呼び止めた。
周りは全員上級生。自然と肩に力が入ってしまう。
いや、違う。自分の出した答えを伝えることに緊張しているのだ。取り繕わず、自分の本心を曝け出すことはとても怖い。
「おー田中くん!」
喋りかねている俺を見て真夏先輩は顔を近づけてくる。
「で、どうする?」
ワクワクした笑顔で質問してくる真夏先輩。この人懐っこい笑顔に何度元気をもらったんだろう。
「僕は、真夏先輩が憧れです」
「え?なにー急に。照れちゃうなあ」
質問に合っていない回答に真夏先輩は一瞬戸惑った。綺麗なセミロングの自分の髪を誤魔化すように触る。
「真夏先輩と出会ったことで、この学校に居場所ができました。生きる意味を見出せなかった俺を真夏先輩が拾ってくれたあの日から」
頭で考えずに自然と言葉が出てきた。日頃から思ってきた、溜め込んできた、真夏先輩への想い。
「俺は、生徒会長になりたいです」
真夏先輩の目が輝き出す。眉毛が上がった。
「出たいです。選挙」
真夏先輩は口を大きくあけて息を吸い込んだ。そして、
「やったー!」
両腕を挙げて人目も気にせず喜ぶ。小さくジャンプしてから俺の両手を掴んだ。
「ありがとう!」
大きくて澄んだ目。自然と笑みが伝染する。
この人は本当に、世界を照らす太陽みたいな人だ。
こうして俺は、生徒会選挙に参戦したのであった。
またもや波乱の一ヶ月が始まる。
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