第13話 色づく世界
「続きまして、読書研究部の発表です」
司会のアナウンスが体育館を巡る。
恋咲と冬乃が体育館に戻ったのはその時だった。
「大体何で教室にいたんですか」
「たがら普通にサボってただけ。こんなだるい行事よくみんな普通に出るわね」
華菜はいつか右手と右足が同時に出るのではないかと思うほど硬い動きで舞台袖から出てきた。その滑稽な姿を見て二人の不毛な会話は止まる。
まばらな拍手で華菜が迎えられた。もうすでに新入生は10以上の部活の発表を見ているのでシンプルに疲れているのだろう。
その様子を見て2人とも子どもの発表会を見る親のような気持ちになっていた。
「華菜・・・」
恋咲の心配が漏れる。
「あの子・・・どうするつもり」
体育館の入り口。冷たい扉に寄りかかって冬乃はそう言った。
「は、初めまして」
華菜先輩の少し裏返った声がマイクに通った。次の言葉を言おうと顔をマイクに近づけると突如ハウリングが襲う。キーンという耳に痛い音が響き、この空間にいた人全員がシンクロしたかのようにビクッと反応した。
「読書研究部部長の・・・秋好華菜です」
華菜先輩は何とか持ち直し、話出すが緊張が全く解けていないように見えた。
「こ、今回私は一冊の本を紹介しようと思います」
俺が渡した本を皆に見せる華菜先輩。大画面に表紙が映った。舞台袖の俺にまで華菜先輩の緊張が伝わってくる。
「この本のタイトルは「輪廻」。私の好きな小説家、矢田柊花さんの新作です」
そして華菜先輩はあらすじを話し出した。と言うか、ただ裏表紙に印刷してある文を音読しただけ。
これなら誰だってできる。
「その・・・えっと」
その文を読み終えた後、華菜先輩の言葉が急速に詰まった。何も話が進まない。
ここからは華菜先輩が自分で考えて話さなければならないのだ。相当な準備期間があれば話は別だが、あいにくぶっつけ本番となってしまった。
これまでの部活の人たちは練習もしてきただろうから壇上で止まるなんてことは華菜先輩が初めてだったのだろう。
新入生の群れの中から嫌なざわめきが聞こえ始めた。個々の言葉は小さいが、それが集まれば大きな音となる。華菜先輩はその声たちによってさらに何も出来なくなってしまった。
その時。
「秋好さん。あなたは、その本のどんなところが好きなんですか?」
荒波のような場が、たった一声で凪に変わった。
上品さと優しさを兼ね備えたその声は体育館内の空気を今一度引き締める。
その声は、真夏先輩から発されていた。
舞台を降りてすぐ左にある教師陣が座る席。そこに生徒会長として真夏先輩も座っている。
真夏先輩は司会の生徒からマイクをもらい、たった一文で空気を変えたのだ。さすがとしか言いようがない。
華菜先輩が驚いて真夏先輩を見ると、彼女はみんなに見えないようにニヤリと親指を立てた。その姿が何だか頼もしくて華菜先輩は笑う。
それから華菜先輩は舞台袖にいる俺も見た。
俺は「がんばれ」と声を出さずに口を動かす。
華菜先輩の気持ちが落ち着いた気がした。俺にも笑ってくれて、もう一度マイクに向き直る。
ゆっくりと、息を吐く。
華菜先輩の目つきが変化した。
「この本の大きなテーマは、死に向かう時人はどう行動するかです。矢田先生の持つ独特な死生観が現代社会の問題と濃密に絡み合い、唯一無二の矢田ワールドを作り出します。一文を読むとすぐに隣の文を読みたくなる。気がつくと、ページを捲る手も止まらなくなります。私が大好きなのは序盤からの—」
先程までの緊張が嘘だったかのようにすらすらと言葉が出てくる華菜先輩。いや、違う。これは緊張以上に本について話せる興奮が勝っているのだろう。
今まで読書研究部、そして俺にしか話してこなかった自分の核をたくさんの人に話せることが楽しいのだと思う。
それから華菜先輩は、その本のおすすめするポイント、魅力的なキャラクター、自分なりの解釈などを生き生きと語った。その姿に散漫になっていた聴衆の集中力は戻ってくる。話をする彼女の姿に惹きつけられていた。
きっと、漫画の紹介ではこうなっていなかっただろう。
自分の大好きなことを話している人にしか出ない熱のようなものがそこにはあった。その熱意は誰かに必ず届く。
一通りその本について話し終えた後、華菜先輩は言った。
「皆さんは、本を読みますか?」
じっと聞いていた新入生たちが顔を見合わせる。
「本というのは不思議なもので、こんなに小さなものの中に無限の世界が広がっているんです」
俺は恋咲先輩のカフェで話した時を思い出した。華菜先輩が思う、本の良さ。
華菜先輩が本を大好きな理由。
「文字のみで記されるその世界は、現実では体験できない素晴らしいものへと連れていってくれます。難解なミステリー、ロマンティックな恋愛、胸踊る冒険ファンタジー」
華菜先輩は本当に楽しそうに話す。俺まで勝手に嬉しくなった。
「読むだけで自分の中の想像力や子供心が掻き立てられて、人生を豊かにしてくれます。そして何より、自分が他人と繋がれるツールでもあります」
気がつくと俺は、いや新入生の皆は、いや会場にいる全員が華菜先輩が紡ぐ言葉に魅了されていた。
「共通の本を読んだ人はみんな、赤の他人ではなくなります。同じ世界を体験した仲間。それを読んだ人にしかわからない別の世界が読後に広がるんです。その世界は今まで生きてきた世界とは180°違うように見えるかもしれない。逆に、今まで生きてきた世界がさらに魅力的に見えるようになっているかもしれない。その世界で生きれるのはその本を読んだ人だけ。そしてさらに、読者と筆者は最も濃密につながります。それは時間も、言語も、人種も、年齢も超越して。筆者が伝えたいことが心に刺さり、これからの自分の糧になるんです。それってすごく素敵じゃないですか?」
華菜先輩はとびきり魅力的な笑顔で笑った。
数分までとは別人の、自身に満ち溢れたこの空間を最高に楽しんでいる顔だ。
「そこでしか得ることのできないものは確かにあります」
会場にいる人々を見渡して、華菜先輩は言う。
「ぜひ、皆さんも読書を楽しんでください」
俺は抑揚があって聞き取りやすいその話をもっと聞きたかった。この人が部長の部活に入れて本当に良かったとも思う。
「最後に地味な部活かもしれませんが、とっても楽しくて温かい場所です。どうかよろしくお願いします」
すっきりとした表情で華菜先輩はお辞儀をした。
与えられた時間はわずか5分。たった5分。でも今の時間だけはこの世界が華菜先輩のものだった。この世界の主人公は華菜先輩だった。
最初に聞こえた拍手は二箇所から飛んできた。
真夏先輩がものすごく嬉しそうな表情で手を叩く。そしてもう一つ。
体育館の入り口で恋咲先輩は精一杯拍手をしていた。隣の冬乃先輩は手を重ねようとしたがとどまる。
その二人を皮切りに、ところどころから拍手が起こり連鎖していく。
次第に会場が一体となり揺れた。明らかに舞台に出てきた時とは違う熱量の拍手。義務的ではなく、自然と湧き上がるような。
顔を上げた華菜先輩は心底驚いていた。
もう一度小さくお辞儀をしてから小走りで舞台袖にはけてくる。俺はすぐさま近寄った。華菜先輩も一目散に俺の元へ来てくれる。
「華菜先輩!」
声にならない喜びで華菜先輩と俺はハイタッチをした。今までで一番華菜先輩の顔がパアッと明るかった。
二人を達成感が包む中、突如視界から華菜先輩が消える。反応するより前に華菜先輩は俺の胸に倒れ込んだ。俺は持ち前の貧弱さを発揮して支えきれず尻餅をつく。
「え?ちょっと大丈夫ですか!」
薄暗い舞台袖で周りの人の視線を集めた。
「いや、ごめん。緊張解けたら・・・力ぬけちゃって・・・」
華菜先輩はふにゃふにゃとした喋り方でそう言った。まるで魔法が解けたかのようにいつもの雰囲気に戻っている。華菜先輩の体温が、心拍数が伝わってくる。俺はもう少しこのままでもいいと思った。
「ありがとう。田中」
もう少し深く俺に頭をうずめて、サラサラの髪の毛を揺らし、華菜先輩は言った。
「いえいえ。僕は何も」
勝負の新入生歓迎会は終わりを告げた。
全ての出し物が終わった後、華菜は一度田中と離れて真夏を探していた。
助けてくれたお礼が言いたかったからだ。
彼女を見つけたのは職員室前の廊下だった。何やら校長先生と話をしている。時折、上品に笑うその姿に華菜は同い年なのにかなり歳が離れているような寂しさを感じた。
真夏は角で話が終わるのを待っている華菜が視界に入ると、校長先生との話を愛想よく切り上げた。
生徒代表として深くお辞儀をしてから華菜の方へ来る。
「華菜ー!お疲れ!かっこよかったよ」
「真夏のおかげだよ。校長先生との話はもういいの?」
「うん。別に大した話してないし。世間話で盛り上がってただけ」
学校のトップと世間話で盛り上がれるとは、コミュ力お化けは恐ろしいと華菜は心の底から思った。自分にはできない芸当だ。
華菜はそんな関心を一旦置いて、あたらめて向き直った。
真夏は純粋な瞳で華菜を見つめている。
「真夏。言葉に詰まった時、助けてくれてありがとう。あれがなかったら私、あんなに喋れてなかった」
深いお辞儀を見て真夏はほくそ笑んだ。
華菜が顔を上げてもなお、真夏の表情は変わらない。
「な、何?」
気になって華菜が聞くと、真夏はやっと聞いてくれたとばかりに話した。
「ふふ。あれね、田中くんからのお願いだったんだよ?」
「え?」
「歓迎会始まる前にね—」
真夏は歓迎会開始1時間前に田中に呼び出された。田中は告白でもするかのように何かを話すのを躊躇っている。
『どしたの?田中くん』
真夏がいつもみたいに顔を覗き込むと田中は言った。
『もし、華菜先輩に何かあったら助けてください』
勢い余ってでんぐり返しするんじゃないかと思うほどの頭の下げ方だった。
田中は真夏より背が高いので真夏の視界に田中の後頭部が映るのはなんだか新鮮だった。
『万が一の時、僕じゃ力不足です。でも、真夏先輩なら』
田中は腰を曲げたまま真夏を見る。それからもう一度頭を下げた。
『頼みます。会長の立場もあるでしょうが、華菜先輩のために。』
真夏は少しの迷いもなく返した。
『全く、田中くんはなかなか損な立ち回りをする子だね。可愛い後輩の頼みは断れないよ。』
「—って感じ。まあ内緒にしといてって言われたんだけどねー」
あははーと呑気に真夏は笑う。華菜の反応が気になって視線を戻すと、そこには乾いた空気しか残っていなかった。
「ってあれ?華菜?」
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