第12話 新入生歓迎会

佐藤さんは淡々と、自分が準備してきたかのように漫画の紹介を始めた。その声音は熱がなく、その瞳には光がなかった。

「何だよ・・・これ・・・」

どれだけ俺の動きが止まっていたかわからない。

でも気づいた時には、俺の隣から華菜先輩が消えていた。周りを見ても彼女はいない。

次の番や次の次の番を待つ部活の人たちがキョロキョロしている俺を不思議そうに見つめていた。

なぜこんな事態になったのか。

いや、誰がこんな事態を仕組んだのかそれは火を見るより明らかだった。

そいつを探したいところだが、それより先にやらなければいけないことがある。

深い怒りと絶望感を原動力に俺は走り出していた。

背筋を流れる嫌な汗を振り払ってただひたすらに駆ける。見ている景色が即座に後方へと流れていく。自分の意思より先行して足が動いているように感じた。

見慣れた風景。この道が見慣れるようになったのはいつからだろう。下を向いて歩かなくなったのはいつからだろう。世界が華々しく見えるようになったのはいつからだろう。

間違いない。

あの人と出会った時からだ。

あの人が声をかけてくれた時からだ。

華菜先輩と、喋るようになった時からだ。

その瞬間、俺の世界は一変して日常に希望が生まれた。

朝起きるのが楽しみになった。

まだ死ねないと思った。

到着した目の前の建物を見上げる。

旧校舎。ここ数日、1日もかかさずに通った場所。

時間の流れが辛くて、この場所から出たくないと思った時がたくさんあった。たった1ヶ月。

俺が読書研究部に入ってまだ1ヶ月。

でも日数なんて関係ない。少なくとも俺は、間違いなく俺は、人生で最も濃い時間だった。

初めて外の世界に温かい居場所ができた気がした。

鼻を通るこの匂いが心地いい。

気づけば部室の前に俺は立っていた。

ゆっくりと扉を開ける。

「・・・先輩?」


スクリーン映し出されたあの漫画。あれは確かに読書研究部が、田中と華菜が紹介しようと思っていたものと同じだった。

恋咲は走っていた。詳しいことはわからない。でも大体の予測はつく。

新入生歓迎会は全校生徒出席のイベントだ。

体育館内の前側に新入生が座り、後ろ側に上級生が座っている。恋咲はモニターに映し出された瞬間、綺麗に列になって座っている同級生たちの目を気にする暇もなく体育館を飛び出した。

今は3年生のフロアをひた走っている。

人の気配は全くと言っていいほどない。

でも、恋咲は感じていた。その人がそこにいることを。ひとつの教室の扉を開ける。

自分のクラスの隣。

「何したんですか!」

愛原冬乃は教室で1人、外の景色を見ていた。

窓際の一番後ろ。頬杖をついてつまらなそうに。

恋咲がいきなり来たと言うのにあまり驚いていない。少し恋咲を見てからその迫力に静かに戸惑うだけ。

「・・・は?何のこと」

恋咲の感情は珍しく昂っていた。いつものような冷静さを欠いている。

「華菜がどんな思いでこの日に賭けてきたと思っているんですか!」

眼前に迫ってくる恋咲の圧に冬乃は椅子ごと後ずさる。

「ちょっと何!」

「今、漫画研究部がしている発表、明らかに華菜がする予定のやつですよね。急なプログラム変更も、何から何までおかしいです」

恋咲の燃えたぎるような怒りが冬乃に伝わってくる。今の恋咲は感情の制御が効いていない。

「・・・はぁ?落ち着きなさいよ。意味がわからない」

冬乃の困惑は続く。恋咲は白々しい芝居だと思った。自分の仮説を真実だと思い込んだ。

でもそこでやっと恋咲の琴線は一度緩和された。

冬乃があまりに落ち着いているからだ。

「何なのよ。急に」

恋咲はことのあらましを冬乃に話し始めた。この準備期間にたった1人読書研究部に出席しなかった冬乃は話すこと全てが新鮮そうだった。

田中と華菜が2人で休日に出かけたこと。図書室のデータを見ようと思ったら咲ヶ原が妨害してきたこと。華菜が本気で読書研究部を存続させようとしていること。

リアクションは決して大きくないが、顔に出ている。

「それで冬乃が、というかあなたの彼氏さんが何かしたのではないですか?」

「翔平のこと疑ってんの?あたしの彼氏のこと悪く言わないで。不愉快」

直接的な表現をする恋咲に冬乃は顔を顰める。

でも恋咲がここで引けるわけなかった。華菜がどれだけの思いを背負いこの機会に臨んできたかを知っていたから。

「冬乃は何もしてないのですね?」

恋咲の念押しに冬乃は強く頷く。

「あたしは何もしてないし、翔平も何もしてないわよ。勝手なイメージでそう思ってるだけ。あんたらの被害妄想でしょ」

「何でそう言い切れるのですか?」

恋咲の荘厳な表情が冬乃の心に巻きつく。

冬乃が何もしていないのは分かった。でも、彼氏の話はあまりにきな臭い。信憑性も証拠もない。

「あなたの知らないところで彼が何もしていないとなぜ言い切れるのですか?」

先ほど最近の出来事を話した時、咲ヶ原が図書室のデータ収集を妨害したことを冬乃は知らなかった。

つまり咲ヶ原は冬乃にそれを報告していない。

咲ヶ原は冬乃に隠し事をすることを厭わない。

「そんなもん・・・恋人同士だから!」

冬乃は心底イラついた様子で続けた。

「彼氏もいたことないキスもしたこともない処女の恋咲にはわかんないだろうけどね!」

その2文字が恋咲の脳髄に到達するのはかなり遅かった。言葉の意味を理解した途端急に顔つきが変わる恋咲。

耳に入った下劣な言葉に恋咲の耳はみるみる染まっていく。先ほどまでのオーラがどんどん消えていった。心なしか身長も縮んだ気がする。

恋咲はボソリと呟いた。

「・・・それは今関係ないじゃないですか」


「やっぱりここですか」

華菜先輩は部室の隅でうずくまっていた。

昨日までと部屋の雰囲気が違う。不安だけど2人なら乗り越えなれる気がして、ただこの人と一緒にいると楽しかった。昨日まで俺がいた部室はそんなところだった。

でも今のここには、どんよりとした濁った空気しかなかった。

華菜先輩は体育座りをして腕の中に顔を埋めている。俺の言葉にも答えてくれない。

俺は何も言わずに、華菜先輩の隣に座った。

「やられちゃいましたね。あはは」

彼女は何も言わない。

「まさか漫画研究部の人がこんなことしてくるなんて・・・ね?よっぽどいい条件を咲ヶ原に出されたのかな」

そこで俺は華菜先輩の方が震えていることに気づいた。何かしてあげたかったけど、迂闊に触れてしまうと壊れてしまいそうな危うさを感じ何も出来ない。つくづく自分が嫌になった。

すると、腕の中からこもった声が聞こえてきた。

「ごめん、私のせいだ。私が佐藤さんに見せちゃったのがいけない」

生気のない絞り出したような声。

勝負に挑んで正々堂々負けるならそれでよかった。今、華菜先輩を蝕んでいるのは自分のミスで誰よりも存続したいと思っていた読書研究部を無くしてしまうと言う事実。

俺はゆっくり息を吐いてからもう少し華菜先輩に近寄った。少し動けば肩と肩が触れてしまうほど。

「そんなことないですよ・・・とは言えないですね。華菜先輩は人に甘すぎるんですよ。もっと警戒心を待ってください」

いつものテンションで軽口を叩いたが、華菜先輩は無反応だった。

沈黙に耐えられなくて、俺は言った。

「でも、僕はそんな華菜先輩が好きですよ」

自分でも何を言ったのか理解できなかった。ポロッと口から出た言葉。

華菜先輩は驚いて、思わず顔を上げる。湿った目でこちらを見ていた。華菜先輩の頬は赤い。泣いたからなのか、はたまた告白まがいのことをしてしまったことに対しての反応なのか。それはわからない。

数秒の静寂の後、俺は慌てて言葉を続けた。

「あ、いや、その変な意味じゃなくて!普通に、先輩として!僕はまだ出会ってちょっとですけど、それでも華菜先輩があの時読書研究部に誘ってくれて本当によかったと思ってますよ。華菜先輩の包み込むような、自分の世界を持ってる感じ大好きです・・・ってキモいですね」

背中に変な汗が流れて、心臓がバクバクしていた。恥ずかしくなって思わず目を逸らす。

「・・・田中」

俺の言葉をじっと聞いていた華菜先輩は言った。

「私も田中のこと・・・好きだよ。後輩として」

俺の心臓の音が華菜先輩にまで聞こえてしまうのではないかと思った。

「あはは。ありがとうございます」

ぎこちない俺の返事を聞くと穏やかにゆっくりと華菜先輩は笑った。やっぱりこの人は笑顔が似合う。

何だか照れて2人で別の方向を見る。

「と言っても、ピンチは変わらないですなぁ」

「うん」

たった2文字だが重い返事。

「どうしましょ?一緒に逃げます?」

「え?」

再び目が合った。

「無理しないで、この場からトンズラしましょうよ?華菜先輩とならいいですよ」

俺は立ち上がって、そのままの勢いで華菜先輩の手を握ってしまった。小さくて白い手はされるがままに持ち上がる。でも、華菜先輩は立ち上がらなかった。腕だけが宙ぶらりんの状態だ。

「嫌だ。ここで逃げたら読書研究部が無くなっちゃう。せっかく田中が入ってくれて、楽しくなって、部活になったのに・・・」

華菜先輩の意思が知れてよかった。思わず笑みが浮かんでくる。

俺はしゃがみ込んで、もう一つの手も握った。

華菜先輩と同じ目線。もう目は逸らさない。

大きくて優しい目。

「華菜先輩」

華菜先輩の両手を温めるように包んだ。

「じゃあ頑張りましょう。一緒に。小説だって、ずっと順風満帆な話じゃつまらないでしょう?ピンチがあって、それを乗り越えるから面白いんじゃないんですか」

部室の空気はいつのまにかいつもの、俺と華菜先輩が過ごした空気になっていた。

「華菜先輩なら、僕たちなら出来ます」

華菜先輩はやっと立ちあがった。その表情は晴れやかだ。

「でも・・・何も紹介するものない。おんなじ漫画を紹介するわけにもいかない」

「そうですね」

俺は部室に置きっぱなしにしていたバッグのなかから一つの本を取り出した。

「輪廻」著者:矢田柊花

俺が華菜先輩と出会うきっかけをくれた本。華菜先輩と俺を繋げてくれた大切なもの。

「僕のでよければ貸します」

「え?これ・・・」

戸惑いながらも華菜先輩はその本を受け取った。

「やっぱり漫画じゃダメですよ。流行ってる漫画をおすすめするなんて誰でも出来ます。やっぱり華菜先輩が好きな本で勝負しないと」

「田中も持ってたの?」

俺は首肯した。

「華菜先輩と出会った時、あの本屋の入ってすぐのところにどでかくこの本のコーナーがあったでしょ?手書きのPOPで一生懸命。あのPOP書いたの、華菜先輩ですよね?」

それに気がついたのはこの前、真夏先輩のスパルタで課題を一緒にやった時だ。華菜先輩の書いた字にものすごいデジャヴを感じ、記憶を辿りPOPに結びついた。

POPを書くぐらいおすすめしたい本。

その本の宣伝に惹かれ、俺は華菜先輩の実家の本屋に入った。

俺があの本屋に入ったのは偶然だったのか。

全てが必然のようにも思えた。

「華菜先輩がPOPを書いた、僕との思い出の本で、そのままの気持ちをぶつけてきてください!その熱意はみんなに伝わるはずです」

ぶっつけ本番だろうが関係ない。

「田中、ありがとう」

華菜先輩は覚悟を決め、部室を飛び出した。

俺はこの人に着いていく。

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