第4話 加筆される日々

俺はただただ呆気に取られていた。

部屋の入り口で目を丸くし動けないでいる家庭教師。大きなメガネをかけ、綺麗な白銀の頭髪を二つに分けて下ろしているがその人物は紛れもなく春城恋咲であった。

彼女自身もそう名乗ったので間違いないだろう。

「な、何であなたがここにいるんですか!」

「絶対にこっちのセリフなんですけど」

恋咲先輩は慌てて落ち着きがない。お互いの思考はだんだんと動きだし、今何が起きているのかをやっと理解し始めた。

「もしかして、今日の生徒の田中さんって」

「らしいですね。家庭教師さん?」

俺は半笑いで問いかける。

それが癪に触ったらしく、恋咲先輩はすぐにくるっと体の向きを今来た方向へ変えた。耳が少し赤くなっていた。

「帰ります」

「ええそうしてください」

恋咲は思い切り扉を閉め、玄関の方向へ足を向かわせた。

雇われ主は田中の母親だが当事者である者が教えを拒否したのなら仕方ないと自分に言い聞かせて。ただ申し込んだのは田中の母親であるのでお金は返すとしても、一言言っておかなければいけない。リビングと田中の部屋に母親はいなかったのでもう一つある最後の部屋にいるのだと恋咲は考えた。

玄関扉のすぐ横にあるもう一つの部屋。

扉が閉まっていたので軽くノックをしようと腕を向けた瞬間。

あと数センチで音がなる直前、恋咲の手は止まった。中から声が聞こえたからだ。

恋咲は自分が趣味が悪いと感じながらも聞き耳を立ててしまった。

「お父さん。パート増やしてでも、家庭教師を雇った甲斐あったってなるといいね」

木製の板を一枚挟んで聞こえてくる柔らかくて、どこか寂しそうな声。

恋咲はここへ出向く前に見た母親の情報を頭に思い出した。

そこには旦那はすでに逝去と書かれていた気がする。

恋咲は耳を離し、すぐ横にある玄関を見つめた。

生暖かい息を一つこぼし恋咲はまた田中の部屋へと向かった。


彼女はさっきと同じ勢いで逆に扉を開いた。ドカンと鼓膜に音が伝わる。

「お、お給料をもらうわけですから!もう少し働きます!」

「うわ!びっくりしたあ!何すか!忘れ物ですか」

反射的な体の驚きによって恋咲先輩の言葉は何も聞こえていなかった。

ゲームのログイン画面を開いたスマホが宙に舞ってベッドの上に着地する。

「今日のお給料分は働かせてください」

どこで彼女のやる気スイッチが押されたか全く理解できなかった。なぜ3分前と仕事に対する姿勢が真逆になっているのか。俺は怪訝に思いながらも冷静に対応した・・・つもりだ。

「いやマジでいいですよ。急にどうした」

恋咲先輩には俺の声は届いていないようだ。もうすでに正座をしてショルダーバッグから用意されていたテキストを取り出している。一つ一つの何気ない動作からも品の良さが漂っていた。

「まずはその汚い机を整理しましょう」

細くて白い指で指された俺の机は確かに見るも無惨な姿をしていた。

俺は言われるがままに散らかっている学校の教科書、衣類などなどを本棚や引き出しに閉まっていく。厳しい指示を出す人と従う人の今の俺と恋咲先輩の関係は生徒と教師というより息子と母親のようだった。

勉強ができる程度に机が綺麗になったところで恋咲先輩は用意されているテキストを広げた。俺は色々言いたいことがあったがとりあえずこの人のペースに呑まれることにした。

「あ、じゃあお茶持ってきますね」

「いや!だ・・・お願いします」

「・・・?はい」

恋咲は貧乏性なので無料で何かをもらえることに弱いのだ。

少しの申し訳なさを感じながらも田中の部屋で一人、お茶を待つことにした。

部屋を少し見渡すと恋咲はあるものを発見する。

クローゼットの横にある大きな本棚。6つに分けられているブロックのうち、5つは漫画で埋まっていた。

しかし、一番右上の場所だけは様相が違っているようだ。

162cmの恋咲が背伸びをしてギリギリ見える高さにある棚にはたくさんの本が入っていた。それは漫画ではない。

ただ一人の作者、「矢田柊花」の文庫本と単行本が綺麗に揃えられていた。

でもその空間はどこか薄暗く、靄がかかっているような気がする。

まるで何年も触れられず、読まれていないような。

足音が近づいてきたので恋咲は慌てて勉強机の前へと戻った。

部屋に入ってきた田中は湯呑みに入ったお茶とリビングの椅子を一つ持ってきた。

「座ってもらっていいですよ」

「ああ、はい・・・」

恋咲先輩は机に用意してきたテキストを広げた。

勉強机にシャープペンシルを持って着席したのはとても久しぶりな気がする。

「なんて呼べばいいですか?先生?」

隣に座った恋咲先輩を見るとすぐに目を逸らされた。

「今日限りなのでそれはやめてください」

わざとらしく黒縁の眼鏡を触る恋咲先輩。

「じゃあ恋咲先輩」

「・・・下の!まあいいです」

俺は俯いた恋咲先輩の顔を覗き込んだ。

「恋咲先輩。よろしくお願いします」

「お願いします・・・た、田中くん」

そして俺は高校1年生の数学が書かれているテキストを解き始めた。


テキストを解く作業はとてつもなくあっという間だった。それは全て恋咲先輩のおかげだ。

この人、わからないところの解説がとてつもなく上手い。自分1人では理解できないところもスラスラと頭に入ってくるし、難易度の上がった応用問題も考える時間をくれた後に解けない部分をゆっくりと順を追って説明してくれる。きっと自分の中で理解を深めて何度も反復したのだろう。

1人でやっていたらきっと倍以上の時間がかかっていた。なんだか魔法みたいだ。

何より進行速度以上に、するりと理解できたことが嬉しかった。

一単元をノンストップで進み、今日の業務は終了だ。一気に復習したが、頭の情報は整理されており、復習さえ怠らなければこれからもいけそうだった。

「はぁー終わったー」

みっちり3時間の家庭教師。時刻は21時手前だった。固まった体をうんと伸ばすとあくびが溢れた。

帰り支度をしている恋咲先輩をチラッと見ると少しお疲れのように見える。

ふと俺は疑問を口にした。

「恋咲先輩って何でバイトしてるんすか?」

「何でって、生活のためです」

恋咲先輩は少し驚きながらもすらりと答えてくれた。さも当然のようにあっさりと。間が空いてからバツの悪い返事を返した。

「あー、あんま聞かないほうがいいやつ?」

「気をつかってくれなくて結構です」

そっけない返事。俺はさらに思ったことを言葉に乗せる。

「なんかお嬢様かと思ってました。言葉遣いとか、見た目とか」

「私の見た目そんなにお嬢様っぽいですか?何もしていないのですけれど」

自分の体を見て首を傾げる恋咲先輩。

肌の露出が最小限のかっちりとした今日の服装はいつもの制服とは一味違う。

しかし黒縁メガネをかけていても彼女自身が持つ華は抑えられていなかった。地味な女性というより芸能人の変装だ。

だからこそ何もしていないのは流石に意外に思った。美意識の強いタイプだと勝手に勘違いしていたからだ。

「それですっぴんとか芸能界行った方がいいんじゃないですか?」

「人に見られるのはあまり好きではないです」

「そうですか」

会話はそこで途切れる。

恋咲先輩の帰り支度も済んだように見えたので俺は立ち上がり玄関まで送ろうと思った。だが、彼女は言葉をこぼした。少し陰りのある声で。

「私の家は、決して裕福とは言えないんですよ」

俺はまた椅子に座り恋咲先輩の方を向く。

これ以上個人事情に踏み込む気はない。だから俺は少し別の角度の質問を飛ばした。

「でも何で家庭教師?」

その質問に恋咲先輩の眉がぴくりと動いた。

「強いてできることといえば勉強なので」

「へえ、頭いいんすか?」

「ま、まあ」

なんだかはっきりしない返事だ。でも確かに恋咲先輩は頭が悪い俺みたいな人には見えない。現に教え方もうまかった。きっとかなり勉強している方だろう。

「でも真夏先輩みたいな人がいたら凹みません?上には上がいるっていうか」

俺は半年以上、学年2位である真夏先輩と生徒会活動を共にしてきたのだ。彼女の凄さはそれなりにわかっているつもり。真夏先輩は天真爛漫で時々突飛なことを言い出すこともあるが、とてつもなく頭がいいことだけは一緒に過ごしていくうちにひしひしと感じることが多い。

そして、それは読書研究会という謎の組織で一緒に活動している恋咲先輩なら俺と同じくらい感じるはずだ。

「そうですね。真夏には生徒会活動を両立しながらで、とてもすごいと思います。でも、私だって譲る気はありません」

この人の言っている意味がわからなかった。いや、思考が追いついていなかった。

「何が?」

「学年一位だと特別推薦がもらえるんですよ。行きたい大学に学費全額免除でいけるという」

俺は鈍い思考力で必死にこの人が何のことを言っているのか考えた。

頭の中の情報が錯綜している。

「・・・うん?」

譲る?特別推薦?

だんだんと追いついてきた脳の回転を経て、俺は単刀直入に聞いた。

「あなたは学年何位なんですか?」

「一位です」

彼女はまた、さも当然のように答えた。

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