第13話



 まるで夜明けと追いかけっこでもするかのように暗いうちから走り続け、空の端が明るくなってきたのを感じながらも止まらずに駆けていき、ようやく太陽が世界を明るく照らし始めた頃、一団は王都の防壁の前にたどり着いた。

 ここに住まう者、交易をする者には開かれた場所ではあるが、中央の王城へ攻め入ろうと思うものには強固な拒絶感を覚えさせる造りだ。

 こんな造りになっているのは、現在の王朝がかつての王朝を追い落としたからこそだ。

 旧都は内にも外にも開かれ、それゆえ活気づいて栄えたが、国の中枢を防衛するという意味では脆弱だった。

 だからそこで栄えた王朝を倒したのちに建てられた今の王朝では、攻めいることが難しい都市づくりを意識したのだ。

 そんなことを考えながら石造りの強固な防壁を見つめていたユナだったが、猛烈な違和感を感じていた。それは周囲の人間たちも同じだったようだ。

「……静かすぎやしないか?」

「本当に、中で戦が起きているのか?」

 ひとりふたりが口にしたことで、その動揺はさざなみのように広がっていった。

 本当なら、防壁が見えてきたときに鬨の声を上げ内部で起きている争いを鎮めにいくつもりだったのだ。だが、近くまでいってもあまりに静かだったため、出方をうかがうしかできなくなっていた。

「妙だね。斥候のやつらの情報が嘘なわけがない。中で何か起きてるのは間違いないはずだ。それに……こんなに静かなのが逆におかしいんだよ。王都といえば、もっとにぎわってるもんだろ」

 冷静に分析するヨキの指摘に、誰もが頷いた。王都は、この国の中心だ。もっとも栄えている場所だ。

 そこが日が昇って人が起きてくる時間になってもこんなに静かだというのは、あまりにも不自然だった。

「まいったね。相手方には、わたしらがこうして来ていることはバレているようだ。誘い込まれているんだよ」

 言いながら、ヨキは馬を降りた。それにならって、ユナたちも降りる。

「荒事なら得意だが、生憎隠密は不得手な集団だ。忍んでいってもどうせ知られている。それなら騒々しく、正面突破と行こうじゃないか!」

 ヨキがそう叫んだことで、男たちはそれに応じて雄叫びを上げた。空気を震わすほどの鬨の声。それによって、一瞬にして再び士気が上がるのがわかった。

 いるはずの門兵の姿はなく、ユナたちはすんなりと王都へ入ることができた。

 だが、中に入ると異様さがさらに際立つ。

 そこには、人の活気はなかった。気配はあるのだが、何かに怯えるように息を潜めているのが伝わってくる。

 勢いよく駆け込んだのはいいものの、進むごとに一行が不安になってくるのは、ユナも肌で感じていた。迎え撃たれるつもりだったのに、戦うべきものが現れないのだ。

 小走りに進む足音に迷いが生じ始めたのを感じた頃、ヨキがまた声を上げた。

「このままぞろぞろまとまって進み続けていても埒があかん。ふた手に分かれて進むぞ。列の後ろ側は左回りに、我々は右回りに進む。何かあったら声をあげろ!」

 その号令に従って、一団はふた手に分かれた。指示を受けたことで士気を取り戻せたのか、彼らはまた力強く進んでいく。

 ユナもファンファンたちと一緒に、ヨキの背中を追っていった。

 だが、それでも何にも行き遭わなかった。このまま何にも遭遇せず、左回りでやってきた一団と鉢合わせてしまうのではないのか。

 そんなことを考えたとき、遠くで驚いたような叫び声があがった。直後、猛烈な悪意がその場から吹き上がったような感覚がした。

「来るぞ!」

 ヨキが何かを察知して叫んだ瞬間、これまで潜めた気配だけがあった民家の戸を突き破るようにして、次々に人間が現れた。そして、こちらに襲いかかってくる。

 完全に不意を突かれた形となったが、それで負ける一団ではなかった。

 ヨキを中心に、男たちは向かってくる人間たちを次々に投げ飛ばし、昏倒させていった。操られているだけの有象無象と、曲がりなりにも実践経験を積んでいる男たちが負けるわけがなかった。

 だが、ユナはすでにミンたちの村で、操られた屍骸たちと戦っている。痛みも感じず疲れ知らずの集団とまともにやりあい続けても、こちらが徐々に削られるのはわかっていた。

 案の定、先陣を切って戦っているヨキの姿に、いつものキレがない。だが、疲れるにはまだ早いはずだ。

 違和感を感じて、その真意を見極めるために心眼を使おうと目を閉じて、事態の深刻さを理解した。

「母さん、生きた人間が混じってる!」

 屍骸と向き合っているとばかり思っていたのに、心眼で見れば気も血も巡っている生きた人間の存在を確認できた。

 だが、目を開ければ一様に、意志のない目で攻撃を繰り出してくる人間たちが見える。

「気づいてる! だから、気をつけて殴ってる」

 ヨキたちが相手を昏倒させたり投げ飛ばしているだけに留めていたのは、そういうことだったらしい。腰に得物をさげているのに素手で戦っているのはなぜなのだろうと思っていたのだが、生きている人間が混じっていたからなのだ。

「これじゃキリがない! ユナ、あんたたちは先へ行きな! ここで足止めしたいってことは、この先に別の問題があるってことだよ」

「わかった!」

 ヨキに言われ、ユナはファンファンたちに合図をして駆け出した。追ってこようとする者たちは、ヨキたちが薙ぎ払っていく。

 操られている人間たちは、倒されると動かなくなるが、しばらくすると再び立ち上がる。本当にキリがない。

「この先、何があると思う?」

 走りながらファンファンが尋ねてきた。だからユナは、必死に頭を働かせて考える。

「第一の層で騒ぎを起こして足止めしてるのは、第二の層に何かあるからだと思う」

「ということは、第二層に行けばいいんだね」

 言うや否や、ファンファンは立ち止まった。そして、それまで腕に抱えていたメイメイのことをポーンと放り投げた。

「ええー!?」

「ユナも助走つけてきて。投げてあげるから。投げられるのと跳躍を使って、この壁を飛び越えたほうが早い」

「……わかったわ」

 先ほど投げられたメイメイは、もう壁の向こうへ行ってしまったようだ。つまり、ここでモタモタしていたら彼女をひとり危険な目に合わせてしまう。それは嫌だから、ユナは覚悟を決めて駆けていくと、構えていてくれたファンファンの組んだ手を足場に、宙へ跳び上がった。

「わっ……よっと」

 蹴り上げる力とファンファンに投げてもらったことで、ユナは何とか防壁の縁に手をかけることができた。そこからは、腕の力でどうにか上まで登る。

 そうこうしている間に、ファンファンはひらりと壁を蹴って登ってきていた。

「……やっぱりいるわね。予想はしていたけど、さっきのやつらと違って強そうよ」

 壁の上から見えたのは、ずらりと並ぶ武官たちの姿だった。まだこちらの侵入には気づいていないが、本来の侵入経路である扉を監視しているのがわかった。

「ここは、士官やその家族、富裕層が暮らしてるんだよね。姿が見えない人たちは、また隠れてるのかな?」

「ううん。たぶんだけど、第三層に避難してると思う。第一層で騒ぎが起きてる間に、逃げる時間があっただろうから」

「武官たちは、逃がす時間を稼ぐためにやられたのか、それとも……危ない!」

 ユナとファンファンがそんなことを話し合っていると、どこからか矢が飛んできた。

 見ると、武官の列の中から矢を番えてこちらに狙いを定めている者がいる。だが、こちらを向いているようには見えなかった。

「ここにいたんじゃいい的になる。矢の間合いから逃れよう」

「わかった」

 戦う原則として、遠距離武器とやりあうときは間合いを詰めるよう教えられる。逃れようとして距離を取れば取るほど、相手の得意とする間合いに入ってしまうことになる。だから、矢を番えにくい距離まで行って近距離戦に持ち込むのがいい。

 防壁の上から大きく跳び上がったユナは、その勢いを殺すことなく走り抜け、矢が飛んでくるより早く武官の群れへ飛び込んだ。

 近くに行くと、彼らの異様さがわかる。全員がこちらに向かって攻撃を仕掛けてくる動きをするのに、焦点の合っていない目をしているのだ。見えていないまま、闇雲に動いているかのようだ。

 見えていないのをいいことに、ユナは足払いで数人を一気に倒した。その足を掴もうと動くものがいるから、飛び上がってそれを避け、宙で回転して、群がってくる者を回し蹴りで薙ぎ払う。

 弓兵の群れが途切れると、次に現れたのは槍や剣を持った武官たちだった。長物を持っているぶん、今度は苦戦を強いられる。

 ぐちゃぐちゃな動きではあるが、武官たちは各々手にした武器を振り回して襲いかかってきた。それを避けながらユナも攻撃を繰り出すが、弓兵たちを相手にしたときと同じようにはいかなかった。

「ここはあたしたちに任せて!」

 ほとんど防戦一方になってしまっていたところに、メイメイが言った。その直後、大量の符が飛んできて、武官たちの体に貼り付いた。

 符が貼り付いた武官は動きが止まり、それにファンファンが突きを繰り出すと、力が抜けたように倒れていった。

「ユナ!」

 メイメイとファンファンに無力化してもらった武官の群れをかき分けて進んでいくと、不意に名を呼ぶ声がした。

 そちらを見て、ユナは息を呑んだ。

「兄さん!?」

 名前を読んだのは、ユナの兄のゼツだった。だが、岩のように大きかったはずの体はやつれが見られ、変わり果ててしまっている。

 それに、彼もまた操られているのか、ユナに向かってブンブンと剣をふるってきた。

「ユナ……ここじゃない」

「え、何? しゃべってるのにどうして攻撃してくるの!?」

「俺たちを見てるやつが、操ってる」

 剣を振ってユナを斬りつけようとしながらも、ゼツは必死に何かを伝えようとしてきていた。その攻撃を避けながら、彼が武器を持っていてくれてよかったと思った。もし素手なら、たとえ闇雲に繰り出したとしてもかなりの威力になっただろうから。武官になるために剣技の修行もしたが、彼の得意はやはり格闘術だ。

「操ってるやつが別の場所にいるのね? ここが見える場所にいるのね?」

 尋ねたが、ゼツの焦点は再び合わなくなっていた。何とか操られているのから逃れ、その一瞬の隙にユナに危機を知らせてくれたのだろう。

 ユナは群がってくる者たちをちぎっては投げ、ちげっては投げて無力化しながら、この操られた人々に繋がる糸を探そうとした。

 だが、目を開けて見ていても何も見えない。まだ未熟なユナは、目を閉じてよほど集中しなければ、気の流れを察知することはできない。

「ファンファン、一瞬だけわたしを守って。隙だらけになるから」

「わかった」

 たったそれだけの言葉で理解してくれたファンファンは、ユナを守るようにその背に庇い、木剣で構えをとった。あの村で使用した雷を呼ぶ術なら、一気に周辺を無力化できるだろう。

 だが、まだ生きている人間相手にあの術は使いたくないから、ユナは急いで目を閉じて索敵を始めた。

(何、これ……?)

 目を閉じたユナが見たのは、武官たちの体から細く白い帯のようなものが伸びている光景だった。糸のようなものに体を縛られているとばかり思っていたのに、彼ら自身の体から出たものが、どこかへと伸びているのだ。

 そしてその帯の束の先は、第三層を守る防壁の上だった。

「ファンファン、中央の防壁の上にいる! 武官たちの体から伸びた帯を掴んでるの!」

「……魄を掴まれてるんだ! 肉体を司る部分を支配してるんだ!」

 ファンファンの言葉に、ユナは目の前の武官たちの置かれた状況を理解した。

 人間の体には精神を司る魂と、肉体を司る魄という部分がある。その魂魄がそろって人間のたましいを構成している。

 そのうちの魄を縛ることで、こうして操っているのだ。

「操り糸を切りさえすれば自由にできると思ったのに……これじゃ迂闊に攻撃できない」

 悔しくて歯噛みしながら防壁を見上げると、魄の帯の先にある人影が、ゆらりと揺れた。

 それから、あっと思ったときにはすぐ目の前にそれはいて、ユナは慌てて距離を取った。

「……何よあんた!」

 ユナが吠えると、その人物は肩を揺らして声も立てずに笑った。

 その姿は不気味で、対峙してはいけないものと向き合っているのだとわからせられる。

 あの村で、屍骸を操る医者と向き合ったときと同様の気持ち悪さを今、感じていた。だが、あのときと違うのは、相手との実力差が圧倒的なのが、向き合うだけで伝わってくることだ。

 目の前にいるのは、男なのか女なのかわからない、何ともいえない存在なのに。線だってひどく細くて、武力だけでいえば絶対にユナのほうがありそうなのに。

 距離を開けて立っているだけでも、勝てないという意識にさせられた。

「ユーシュン!」

 突然動かなくなった武官たちに虚を突かれていたファンファンが、その人物を見て叫んだ。

 ということはやはり、これが彼らの兄弟子なのだろう。

「ああ、嬉しい。ずっと会いたかった弟と妹が、まさか自分たちから会いに来てくれるなんて」

 ユーシュンはそれはそれは嬉しそうに微笑むと、ゆらり、と一歩ファンファンに近づいた。その姿はまるで陽炎越しに見る景色のように、安定しないように見える。

「ずっと会いたかったって……自分から飛び出していったくせに! この七年、何してたんだ! なんでこんな……世間を騒がせるようなことを」

 ファンファンは荒れ狂う気持ちをやっとのことで抑えているのか、必死に言葉を紡いでいた。本当は、ぶつけてやりたい思いも、尋ねたいこともあるのだろう。それを堪えて、何とかそこに立っている様子だ。

「おれはね、自分の正しさを証明するまで、帰れないと思ったんだ。だって、師父は怒ってたから」

「それは怒るだろう! だって、禁術に手を出したんだぞ!」

「大事な家族を助けただけだ。何も悪いことはしていない。あのとき、かわいいメイメイを見捨てることが正しさだってんなら、それは世界が間違ってんのさ。ファンファンはバカだから、わっかんないだろうけど」

「何をぉっ」

 ユーシュンの挑発に、ファンファンは怒って拳を振るおうとした。だが、あとわずかで顔に届くといったときに、突然ファンファンの動きは止まる。

 それから、まるで操られているように、ユーシュンと同じ動きを始めた。

「よしよし、やはり弟弟子だから相性がいいな。そこのボンクラ武官たちを動かしてるのとは全然違うや。ファンファンの体を使えば、狩りが容易になる」

「何をする気だ!?」

 舞うようにひらりひらりとファンファンを操りながら、ユーシュンはおかしくてたまらないというように笑っていた。その目は、間違いなくユナを見ている。

「師父が怒ったのは、きっとおれの術が完璧じゃないからなんだろうなって気づいたんだ。たからおれはあれから修行を積んで、研究を重ね、かつての屍骸遣いの技術を再現していったんだ。そして、ときにはその素晴らしさを人に伝えた。賛同してくれる者も現れた」

 楽しげなユーシュンの言葉に、ユナはあの憐れな村の人たちを思い出した。

 ユーシュンの賛同者であるあの医者によって墓を暴かれ、新鮮な死体を得るために毒を盛られ、操られた人々を。

「賛同者が現れるのは、それが正しき道だからだ。それに気づいておれは、もっともっと研究しなくちゃって思ったんだ」

「何が正しいもんですか! あんなの、死者への冒涜よ! 命を何だと思ってるのよ!」

 黙って聞いていられなくて、ユナはつい噛み付くように吠えていた。あの医者に毒を盛られなければ死なずに済んだ誰かの家族を思えば、怒りが湧いてくる。

「威勢のいい娘だね。歳の頃もぴったりだ。お前の心臓はさぞ元気なんだろうな」

「な、何をする気!?」

 ユーシュンはファンファンを操ると、急激に距離を詰めてきた。それをすんでのところでかわしたが、その得体の知れなさに怖気が走る。

「おれはね、結局この世の正義なんて数がものを言うと思ってんだ。だから、屍骸をどんどん増やした。それによって、どうすれば生きていた頃と同等の生命活動をできるかを試し、研究した。それで、こうして生きている人間も操る術を得た」

 自身の信じる正しさを説きながら、ユーシュンはファンファンを使って攻撃を繰り出してきた。すらりとした体躯を活かした上段蹴りや素早い拳に翻弄されながら、ユナは何とかその攻撃をかわす。

 ファンファンを殴ればいいのはわかっている。倒さなければいけないのと、よく理解していた。

 だが、苦しそうに、必死にユーシュンの束縛から逃れようとしているファンファンが可哀相で、攻撃するなんてできなかった。

 ヨキに、もし兄のゼツが敵になったらぶん殴ってからわからせてやるなんて啖呵を切っていたくせに。

 泣きそうなファンファンを殴ることは、できそうになかった。

「メイメイを救う術が完成したからさ、今度は師父に認められて許される方法を考えてたんだ。それで、国の中枢を落としてみようと考えたってわけ。あと一歩、王城には及ばないけど、それもメイメイを助けてからでいいや」

 言いながら、ユーシュンはファンファンを操って手で印を結び始めた。その瞬間、ファンファンが顔を歪めて叫ぶ。

「ユナ、逃げろ!」

「え」

 印を結び終えてから、ファンファンは木剣を構えた。その切っ先をユナに向けると、そこから稲光が迸る。

 村で使ったあの術だと、ユナにもわかった。だが、あまりのことに体が動かない。

 あとわずかで稲妻が体を貫くとなったとき、目の前に小さなものが飛び出してきた。

「……メイメイ!」

 ユーシュンが叫ぶのを聞いて、ユナは目の前のものがメイメイだとわかった。

 ユナの代わりに稲妻に貫かれたメイメイの体が、バタリと地面に落ちる。

 ユーシュンが現れたあたりから姿が見えないから、隠れているものとばかり思っていたのに。危ない目に遭ってほしくないから、逃げてくれていたほうがよかった。

「メイメイ! ああ、メイメイ……なんでこんなことを……」

 取り乱したユーシュンが、メイメイに駆け寄ってきた。ファンファンを操ることも忘れて、無防備な姿を晒している。

 胸のあたりを黒焦げにしているメイメイの小さな体を抱き上げたユーシュンの姿は、弱々しいただの青年だった。

「……あたしは、終わらせに来たの……間違った、命だから」

 口の端から血をこぼしながら、息も絶え絶えにメイメイは言う。その有り様を見て、ユーシュンは子供が駄々をこねるようにいやいやと首を振り、涙をこぼし始める。

「間違った命だなんて、そんな! おれは、この国の中枢を掌握して、正しさを証明するんだ。そしたらさ、師父だって笑ってくれる。よくやったなって……なぁ、メイメイ……」

 ユーシュンの言葉を聞きながら、メイメイは静かに首を振る。

「……だめだよ。師父は、間違いは間違いだって言うもの。理を捻じ曲げたところで、真理が、正しさが変わるわけじゃ、ないの」

「お前を助ける方法を見つけたのに! 生きた人間の心臓を使えば、死ぬ前の体に戻れるんだ! 屍骸じゃない、生きた人間にだ! だから、その娘の心臓がちょうどいい」

「だめ……自分の命のために、誰かの心臓なんて、奪えないよ……ましてや、ユナは……」

 段々と、メイメイの声が弱くなっていくのがわかった。これ以上血が流れないようにと胸の傷口を押さえたが、彼女の命を奪おうとしているのが出血ではないことは感じていた。

「メイメイ……死んじゃだめだぁ。おれの、おれの心臓をあげるから」

「ユーシュン、何して……!?」

 ファンファンが気づいたときには、ユーシュンは自身の胸を手刀で貫いていた。それから、何のためらいもなく心臓を取り出す。そしてそれを、メイメイの胸に埋め込む。

「……これで、メイメイは元の体に戻れるよ。止まってた時間だって、動き出すから」

「ユ、シュン……」

「ファンファンも祈れ! あのときみたいに……」

 心臓を胸に埋めてもまだ何かが足りないのか、メイメイはまだ弱々しいままだ。

 その消えかけの命の灯火を必死で守るように、ユーシュンはメイメイの体に気を送り込んでいた。

 迷ってから、ファンファンもメイメイの体に手をかざす。

「あのとき……未熟なおれの不完全な術でメイメイの命を繋げたのは、奇跡みたいなもんだったんだ。あのときこの子を救ったのは、術なんかじゃない。生かしたいっていう、おれたちの祈りだ」

「ユーシュン……」

 ユーシュンもファンファンも、泣きながらメイメイの体に気を送り込んでいた。

 どんな理由があっても、生き物の命を弄ることは、その死を覆そうとするのは、この世の理に反することだ。してはいけないことだ。

 だが、ユナの目には目の前のふたりが罪を犯しているようには見えない。

 ここにいるのはただ、妹を死なせたくないと願う優しい兄たちだ。

「わたしも、手伝います」

「ユナ……」

 ユナも膝をついて、メイメイの体に手をかざした。目を閉じて、自分の内側を巡る気が手のひらを通して外へと流れ出すのを思い浮かべ、送り出していく。

「ユナまで巻き込めない」

「いいの。目の前の誰かの命を諦めたくないって思うのが罪なら、わたしもその罪を背負うから」

 ユナの気持ちが揺らがないのがわかると、ファンファンはそれ以上もう何も言わなかった。

 それからしばらく気を送り続けていると、あちこち断絶していたメイメイの内側の気の流れが、繕われるようにひとつに繋がるのがわかった。

 ほっとして目を開けると、メイメイの顔に血色が戻っているのがわかった。というよりも、ユナにとっては初めて見る〝生きた〟メイメイの姿だった。

「……よか、た」

「ユーシュン?」

 メイメイの無事にほっとしたのも束の間、今度はユーシュンの異変に気がついた。

 役目を終えたユーシュンの体は、まるで砂が風に流されていくように、サラサラと崩れて、なくなってしまった。

 肉も、骨も、すべてが砂になって、風にさらわれていってしまう。そこに残ったのは、さっきまで彼の体を覆っていた薄汚れた道袍だった。

「……なんで、ユーシュン……」

 道袍を掴んで、ファンファンは呆然としたように言う。だが、その声には静かな怒りが滲んでいた。

「何でだよユーシュン! 勝手にいなくなりやがって! 一発くらい殴らせろよ、クソがっ! なんでこんな……こんな……ひとりで……俺、誰を責めたらいいんだよ」

 怒りと悲しみがないまぜになった言葉をぶちまけてから、ファンファンは声をあげて泣いた。その慟哭を聞きながら、ユナも泣いた。

 王都に来れば倒すべき敵がいると思っていたのに、ここにいたのは妹のために道を踏み外した優しい兄がいただけだった。

 それでも、呪いをかけられた恨み言くらいいってやりたかった。傷つけて踏みにじった人たちへの懺悔をさせたかった。

 それなのに、そんなことをさせてくれないまま、世間を騒がせた屍骸遣いは消えてしまったのだ。

 残された者たちは、そのせいでまだ混乱の中にいる。望んでいなかった幕引きに、ただ感情をかき乱されて泣くしかない。

 そうしてしばらくふたりで泣いていると、不意に肩を叩かれた。振り返るとそこには、ヨキがいた。そして、そのヨキに肩を借りて立っているゼツの姿も。

「終わったんなら、とりあえず休めるところに行くよ。動ける連中に言って、救護所を作らせてるから」

 そう言うと、ヨキはゼツを離し、メイメイのそばまで駆け寄った。それから、そっとその体を抱きかかえる。

「この子は一番に医者に見せよう。何があったかわかんないけど、生きた人間なら医者がどうにかするもんだろ。今までで一番健康的な顔色してるけど、怪我をしてんのは間違いないからさ」

 そんな冗談を言って笑うのを聞いて、ユナたちもつられて笑った。

 まだ大きな声で笑う力は戻ってきていないが、生きていることを喜べる気持ちは残っている。

 何はともあれ、世間を騒がせた屍骸遣いの事件は収束し、ひとりの少女の命が救われたのだ。

 被害は甚大で、どれだけのものが傷つき、失われたかはまだわからない。

 それでも、ここに今生きて立っていられる喜びを噛み締めていた。

 ユナの首筋はもう、疼いて痛むことはない。

 呪いは去ったのだ。

 


 

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