第7話


 世界が反転して、夜空に浮かぶ月を見た。だが、それも一瞬のことで、すぐに視界は別のもので覆い尽くされる。

 医者に操られ、ユナに襲いかかってきた人々が、ユナが起き上がれないように幾重にもなって覆いかぶさっているのだ。

 触れてみて、その温度のなさに改めて驚いた。眼球の濁りにも。生きている人のものではない。

「彼らの体内には、虫がいるんです。薬として渡したものの中に虫を入れておいたので。その虫のおかげで、私はこうして彼らと意思の疎通をはかることができるというわけだ」

 押さえつけられているユナの顔を、医者が覗き込んできた。つるりとした不健康な色の顔に髭を生やした、不気味な風貌の男だ。この男の目もドロッと濁っていて、底が見えない。

「意思の疎通って……操ってるだけじゃない!」

「いやいや。笛なしでも彼らは戦っていたでしょう? 今も笛の指示なしであなたを押さえつけているでしょう? これは彼らの意思です。虫を身体に入れると、言葉など必要のない新たな生き物に生まれ変わることができるんですよ。さあ、あなたも」

「離して!」

「虫を入れて身体の自由を奪いながらも意識だけ残したあなたを、ぐちゃぐちゃに犯すのも楽しいでしょうね。女を犯すことには何の興味も抱けないが、犯すことで女の身体と心を壊すのはたまらなく楽しい」

「や、やめてっ!」

 医者はどこからか取り出した虫を、ユナの鼻の穴にねじ入れようとしてくる。小指の先ほどの、小さな芋虫のような虫だ。そんなものを入れられてたまるものかと、ユナは必死に身をよじって顔を逸らす。

 虫を入れられれば、この男の操り人形にされてしまう。こんな男の玩具にされるのだけは、死んでもごめんだ。

「――招雷、斬!」

 ファンファンが叫んだかと思うと、耳をつんざく轟音と目を焼くような閃光が辺りを駆け抜けていった。

 目を覆った指の隙間越しに様子をうかがうと、本当にファンファンが光と共に駆けていた。ファンファンと、虎のような光の獣が、死人の群れの間を走る。すると稲光に貫かれ、群れは四方八方に散っていく。

 光と轟音の疾走はそれからしばらく続き、それが止んだあとには不気味なほどの静寂と何かが焦げる刺激臭があった。

「ユナ、大丈夫!?」

 覆いかぶさるものがなくなって、ユナは動けるようになっていた。それでもすぐに立ち上がることができずにいると、慌てた様子のファンファンが駆け寄ってきて助け起こしてくれた。

「いたた……ありがとう。全身痛いけど、命は無事よ」

「そうか……それならよかった」

「もう全部、片付いたの? ……さっきのは、何?」

 光の獣はもういなくなっていた。その場にあるのは、動かなくなった人々の身体だけ。

「あれは、神獣の力を一時的に借りたもの。擬似的に作った神様……式神っていえばいいのかな。……って、そういうことじゃないな。ごめん。ユナはこの人たちを傷つけずに解決したかったはずなのに、結局倒すしかできなくて」

「そんなこと……」

 ない、と言いかけてユナはやめた。

 ないわけはなかった。ユナは医者が引き連れた人の群れが暴かれた墓の下の遺体か連れ去られた村の病人なのだと思ったとき、戦えないと拒絶したのだから。その根底にあったのが、彼らを傷つけたくないという感情だったのだ。そしてその感情が、ファンファンに苦戦を強いたということもわかっている。

「……あーあ。うまくツボを突いてそれぞれの肉体の動きを止めることができたら、きれいな遺体を家族のもとに返してやれたのになあ。そこの道士が破壊しか能がないばかりに、可哀想な焦げた遺体になってしまいましたね」

「お前……!」

 亡骸の山の中から医者が、ボロボロの姿で立ち上がろうとしていた。ファンファンの稲妻に貫かれてもなお、まだ絶命していなかったらしい。その姿を見て一気に怒りで血が沸騰したユナは、駆け出したその勢いのまま、医者の身体を蹴り飛ばした。

「こんな酷いことをして、一体何が目的だったのよ!? 何で、こんなふうに命を弄んだの!?」

 ユナは医者の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。虫の息になりながらも、医者は不敵に笑う。

「最初は、金儲けのつもりだった。屍骸遣いの噂を聞いて、死体を集めれば金になるだろうなと。でも、そのうちに、新しい世界を作りたくなったのも、事実だ。生と死の境目のない世界こそ、理想。そこで、幸福を見つけたかっ、た……」

「屍骸遣い? そいつのことを知ってるの!?」

「……そのお方は、強い人間の身体を集めている……あなたも、立派な屍骸にしてもらえるかも、しれない……」

 不吉なことを言いおいて、医者は動かなくなった。揺さぶっても、もう何かをしゃべることはない。本当に死んでしまったようだ。

「稲妻で中の虫は焼いた。もう、誰も起き上がることも動くこともないはずさ」

 呆然とするユナの肩を叩き、ファンファンは言った。

 月が雲に隠れて、世界が暗くなった。ファンファンの顔も、よく見えなくなった。

「ひとまず、ミンたちのところへ帰ろう。それから、葬儀と埋葬だ。今度こそちゃんと、この人たちを眠らせてあげなきゃ」

「……うん」

 顔は見えなくても、ファンファンがひどく疲れているのはわかった。ユナ自身も、ボロボロになっている。

 本当は何か言いたかった。何かを言うべきだった。でも、疲れた頭では何も思い浮かばなくて、ただ差し伸べられた手を掴んで立ち上がることしかできなかった。


 弔いをしてから、ユナとファンファンは手分けして穴を掘った。そして掘った穴に、亡くなった人たちを安置していった。

 亡骸の判別を行ったのは、動ける村の人たちだ。連れ出された病人のものや、比較的亡くなって日が浅いものは、すぐに誰のものかわかった。だが、中には誰なのかわからなくなっている遺体もあったため、そういったものは村人の墓としてまとめて埋葬されることになった。

 掘っても掘っても墓穴は足りず、すべての遺体を休ませてやれたのは、数日後のことだった。

 虫下しの薬が聞いたのか、その数日間におかしくなる人はいなかった。井戸を新しくすること、水は必ず煮沸させてから飲むことを徹底すると身体の不調はいずれよくなるだろうとファンファンは言っていた。

 おかしな医者に騙されたあとだ。村人たちはミンたちを除いて、みんな道士のファンファンに対して信用しきれていない様子だった。それでも、弔ってくれた礼だといってお布施を包んでくれた。

 ファンファンは受け取れないと断ったが、突き返すことは許されなかった。だから、村を出てからずっと、彼は持て余すようにそのお布施が入った袋を持ち歩いている。

「ここから何日かかかるけど、大きな町に行こうか。途中、船にも乗ってさ」

「うん、そうだね。大きな町に行ったほうが、情報も集まるだろうし」

 時折ぽつりとファンファンが何か言葉を発すると、それに対してユナが答える。それを何度も繰り替えすものの、会話はなかなか弾まなかった。

 おそらく、どちらの心にも抱えているものがあるからなのだろうが、それを吐き出せる段階にはない。その吐き出せないものが障壁となって、ふたりを隔ててしまっている。

 軽薄でどうしようもないと思っていたファンファンが、村を出てからユナに対して一切軽口を叩かないというのも、居心地が悪い理由のひとつだった。

 呪いを封じる応急処置だという接吻も、何日もしていない。泥やら何やらで汚れた身体に触れてほしくなんてないから、好都合といえばそうなのだが。

「あっちに、水の気配がある! 川か泉だね。水浴びができる」

 森を突っ切る道に入って少しして、ファンファンが突然走り出した。不意のことで驚きつつも、ユナはそのあとに続いた。

 木漏れ日が射し込む森の中は、空気が清涼で、視界がほどよく明るくて心地よかった。暑くはなかったが、直接太陽の光を浴びるのは何となく気が引ける日々を送っていたから、森の中の仄明るさは心が落ち着いたのだ。

 水の気配も匂いもユナは感じられなかったが、ファンファンについていくと本当に水場にたどり着くことができた。

 それは、緑碧色の美しい水をたたえた泉だった。大きすぎず深すぎず、飲み水を確保するのにも身を清めるのにもちょうどよさそうだ。

「ユナは着替え、あるよね? 俺ないから、先に入らせてもらうよ。身体洗うついでに洗濯する」

「え、あ、うん」

 言うや否や、ファンファンは泉に勢いよく飛び込んだ。水しぶきが上がり、それが光を受けてキラキラする。

 水に浸かると、ファンファンはすぐに服ごとゴシゴシと身体をこすり始めた。

 木漏れ日に照らされ、ファンファンの亜麻色の髪が艶めいた。水面を反射した瞳は、いつもと違う色に見える。

 無心に、無邪気に身体を洗う彼の姿が美しくて、ユナはつい見惚れてしまった。

「何、ユナ? 俺の裸に興味あるの? でもなあ、こんな明るいうちからはそのご要望にはお応えできないな」

「そ、そんなんじゃない!」

 視線に気がついたファンファンに冷やかされ、ユナは慌てて泉に背を向けた。ついでに、水から上がったときに火が必要だろうと考えて、小枝を集めることにした。

 背を向けると、ファンファンがバシャバシャと水の中で動いている音がした。おそらく、服を脱いで洗っているのだろう。ということは、裸になっているはずだ。

(……いけない。乗せられて、そんなことに意識が向くようになってしまった)

 恥ずかしくなって、小枝を拾うことに無理やり意識を集中させた。

 服を干すなら必要かもしれないと思って、大きめの枝も見つけたら拾っておくことにする。小枝も、あればあるだけいいだろうと思って、とにかくたくさん拾った。今のユナには、何かに没頭して邪念を払う必要があった。

「枝を集めるの、そのくらいでいいんじゃない? 火は、俺が起こしておくよ。ユナも水浴びしといで」

「う、うん」

 どのくらい集中していたのだろうか。ユナはファンファンに声をかけられ、驚いて我に返った。振り返ると、背後には水浴びを終えたファンファンが立っていた。髪も、身体もずぶ濡れだ。……上半身は裸だが、下はかろうじて着ているのを確認して、ユナはほっとした。ほっとしたついでに、着替えを持って泉へ向かう。

「いたた……うわぁ……」

 服を脱ぐと、目に入った自分の身体にユナは小さく声を漏らした。

 あれだけの戦いだったから、身体があちこち痛いのは承知していた。だが、一糸まとわぬ姿になると肌の色のあまりの変化にぞっとしてしまった。

 白磁の肌だと母によく褒められた肌は、今は青や赤紫の斑が浮いている。殴られ蹴られのしかかられたためについた痣だ。まだ弱くて道場で散々鍛えられていたときにすら、こんなに痣を作ったことはなかったのに。そのことが、ひどく嫌だった。

 何よりユナを憂鬱な気分にさせたのは、左胸についた痣だ。くっきりと残る五つの斑点――あの医者の指の痕だ。

 まだ誰の愛撫も知らぬ、自分でさえ日頃からよくよく触れることなどない場所だ。そこに、こんな痕をつけられたということが厭わしくてたまらない。

 それに何より、あの男に穢された証のように感じてしまうことが嫌だった。

(こんな痣をつけられて、恥ずかしい。……わたしが未熟だったから、つけられた痣だ)

 水に身体を浸すと、澄んだ冷たさが身にしみた。それと同時に、己の未熟さも痛感させられる。

 痣が、それにしみる水の冷たさが、嫌だ。それを嫌だと感じるのは、自分の不甲斐なさを感じるからだ。そして、その不甲斐なさゆえにファンファンに苦戦を強いてしまったということを改めて思わされて、申し訳なくなる。

 ユナが死者たちと戦うことを恐れなかったら、きっともっと戦いようはあったのだ。少なくとも、彼だけに重荷を背負わせることはなかったし、ユナもこうしてボロボロになることはなかったはずだ。

 ユナが人を傷つけることを厭うたから、代わりにファンファンが傷つけなければならなかった。

 ユナは、自分は強いと思っていながら、嫌な戦いをファンファンに押し付けたのだ。弄ばれた命を、再び死なせるという役目を彼だけに押し付けたのだ。

 そのせいで、ファンファンはきっと傷ついただろう。

 弱さゆえに下衆に身体を穢され、ファンファンを傷つけた。そのことが悔しくて、恥ずかしくて、気がつくとユナは泣いていた。

「胸、ひどく掴まれてたね。やっぱり、痣が気になる?」

「ひゃっ」

「大丈夫、見てない! 見てないからね」

 いきなり声をかけられ、ユナは泉の中で飛び上がった。振り返る勇気はなかったものの、悲鳴に慌てていない様子から、見ていないのは本当だろうと判断した。

「痣は……そうだね。気にならないって言ったら嘘になる。でも、いつか消えるものだし。それよりもわたしは、自分の不甲斐なさが悲しくて涙が出てしまったの。わたしが、戦うことをためらってしまったから、そのぶんファンファンは苦戦した。わたしはこれまで自分を強いって信じてたけど、結局はそれはただの人間を相手にしたときだけのこと……本当の本当に強いってことではなかったんだって、気づいてしまったの。ごめんなさい……足手まといにならないって言ったのに」

 言いながら、情けなくてユナはまた涙を流した。

 全身の痣は、傲りや慢心が生んだものだ。本当の意味で戦う覚悟ができていたら、こんなふうにはならなかったはずだ。 

 ユナはこれまで、試合という規定のある世界で強かっただけだ。相手の命を奪わない、平和な戦いにおいてのみ強かっただけだ。

 倒すということが傷つけること、相手の命を奪うことに直結した途端、何もできなかった。その挙げ句、こんなふうにボロボロになったことが悔しくて恥ずかしくて、そして申し訳なかった。

「これまでユナはそれで生きてこられたんだから、それでよかったんだ。むしろ、こんなことに巻き込まれてしまったことを嘆いてもいいくらいだ。俺が、もっと早くに屍骸になったあの獣を仕留められてたら、ユナを巻き込むことがなかったら、ユナは一生こんなふうに傷つくことも、こうして泣くこともなかったはずなのに……ごめんな」

 ユナに対して、ファンファンは優しい声音で言った。いたわる声だ。慰められているのだとわかって、より一層泣けてきた。

「強くなりたいのに、やっぱり怖い……でも、このまま足手まといなのも嫌だ」

 泣いて尻尾を巻いて帰るのなんて簡単だ。でも、ユナはそれをしたくなかった。呪いにかかっているからというだけではない。

 悪いやつがこの世にいるとわかっていて、それに立ち向かわずに負ける自分でいたくないのだ。

 泣きじゃくりながら、ユナはそれをファンファンに訴えた。

 ファンファンはユナの言葉を、一切茶化さずに聞いてくれた。ただ穏やかな声で相槌を打つだけで、余計なことは言わずにいてくれた。そこにいたのはいつもの軽薄な彼ではなく、ジジ様の前で見せたような、ちゃんとした彼だった。

 背中越しに聞いていても、ファンファンが今、真剣な顔をしているのはわかった。

「強くならなくていいよって言っても、ユナはだめなんだろうね。……それなら、強くなるしかないさ。俺がいる。俺と一緒に行こう。必ず屍骸遣いを倒して、また安心できる日々に帰ろう」

 どんな顔をしているのだろうかと気になって、ユナはそっと振り返ってみた。だが、すぐにそれを後悔する。

「な、な、何で裸なのよ!?」

 泉から少し離れたところに背中を向けて立つファンファンは、あろうことか全裸だった。布で隠す様子もなく、まごうことなき全裸だった。

 ユナが見ていることに気づいたファンファンは、にっこり笑顔で振り向いた。

「えー? 振り返るユナが悪くない? 本当は俺の裸を見たかったんでしょー? ほらほら、とくとご覧よ」

「ぎゃー! 前を見せないで! 隠して! 変態!」

「ふふん、嫌だね。俺の身体に隠すべき場所なんて存在しない」

「バカなの!? やだ、もうっ、あっちいってー!」

 いい雰囲気になったのも束の間。ふたりの間に流れるのは、いつものどうしようもない空気。

 それからしばらく、ユナが意を決して水から上がるまでの間、ファンファンは上機嫌で裸踊りを見せつけていた。

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