第8話
麓の町ですっかり日が昇った時刻に、メイメイはようやく目覚めた。
前の晩、ファンファンが力を使ったのを察知して目覚めてしまってから、なかなか寝つけずにいたのだ。ようやく再び眠りについたのが明け方だったため、起きるのがすっかり遅くなってしまった。
もっとも、ここでのメイメイの立場は客人で、寝坊を誰に咎められることもないのだが。
それでも、ジジ様と呼ばれる老師率いるこの道場の人々はみな早起きで勤勉だ。せめて洗濯や昼食の準備には合流せねばと、いそいそと寝台から起き出した。
道寺育ちのメイメイだが、師父が緩い人のため、あまりきっちりした生活は身についていない。師父や兄が緩いぶん自分がしっかりせねばという意識はあったものの、この道場に来て本当にきちんとした生活を送る人々を目の当たりにすると、ちゃんとできているつもりになっていただけだと思い知らされる。
「おはよう、メイメイ」
「老師、おはようございます」
「顔色が悪いの。よく眠れんかったのか?」
起き出して部屋から出ると、廊下で老師に声をかけられた。メイメイの変化をすぐさま見抜くあたり、やはり只者ではない。自分に〝顔色が悪い〟という概念が当てはまるかを疑問に思いつつも、何らかの変化を気取られたのは間違いないのだろう。
隠しても無駄だし、隠す理由もないと判断して、メイメイは昨夜のことを話すことにした。
「昨夜、兄が戦ったみたいで……ファンファンが力を使うと、わかるので起きてしまったんです」
話すといっても、詳しいことがわかるわけではない。メイメイにわかるのは、ファンファンが力を使ったということだけだ。どれだけ離れていても、それは間違いない。
「力を使ったということは、激しい戦闘が行われたのだな」
「そうみたいです。体術と札で乗り切ることがほとんどの兄が力を使ったということは、それだけ相手が強敵だったということですから」
「そうか。しかし、離れていてもそういったことがわかるのは、血のなせる技か」
本来なら荒唐無稽なことのはずなのに、さすがは老師というべきか。ジジ様の物分りはいい。
だが、わからないことも当然あるのだろう。探るような視線を向けられ、メイメイは考えた。
この老師相手に隠し事は無理だ。それに、隠しておくよりも知られていたほうがいいのかもしれない。
「私たち、血はつながっていないんです。だから……」
「やはりか。血のつながりではなく、術のつながりというわけか。血のつながりよりも、厄介よのぉ……」
今の短い会話だけで、おおよそのことは理解されてしまったようだ。ジジ様は意味深なことを言う。
「それならば、おぬしはなおさら行動を共にすべきだったのではないか? 離れていると、不都合も多かろう」
この問いをするということは、ジジ様がこちら側の事情を理解しているということだろう。だとすれば隠すことは何もないと、腹をくくることができる。
「あたしがそばにいると、兄は私の維持に力を割きますから。この度は強敵に出会うことがわかっているのだから、足手まといはついていけません」
山の麓にイノシシの死骸が出たときも、メイメイがいなければファンファンは存分に力を振るうことができただろう。もしかすると、ユナに呪いがかかることもなかったかもしれない。
そのもしもは無意味だし、ジジ様の前で口にするのは憚られて、メイメイは言わなかったが。
「きつそうじゃの。兄さんが戻るまで、眠って過ごしたほうがよいのではないか?」
ゆっくりとした動きで移動するメイメイを見て、ジジ様は言った。本気で言っているのが伝わってきて、メイメイは困惑した。一体、どこまで見抜かれているのだろうかと。
見抜いた上で言っているのなら、いろいろ説明せるのは野暮というものだろう。だが、これがカマをかけてきている可能性も否めない。
わかっているのか、いないのか。それを探ろうとじっとジジ様を見つめてみたが、皺だらけで小さくなった目を見ても、底知れないことしかわからなかった。
「……次の目覚めがもし来なかったら怖いので、毎日朝を迎えたいんです」
知られているにしてもまだ自分の口から言う段ではない気がして、メイメイはそう言葉を濁した。そのことを深く追及する気はないのか、ジジ様はただ頷いた。
「それなら、毎朝気にかけるとするかの。うちの若いのたちも、おぬしのことを気に入っておるからの」
そう言ってジジ様は歩きだし、ちょいちょいと手招きした。どうやら、ついてこいということらしい。
メイメイがジジ様に連れて行かれたのは、厨房だった。まだ昼食の準備は始まっていないはずだが、ひとつの蒸籠から湯気がのぼっていた。
「饅頭を作ったから、おあがり」
「ジジ様が?」
差し出された饅頭を受け取るとホカホカで、冷えた指先で触れるとそのあたたかさに驚いた。きっと普通の人には熱くないのだろうが、メイメイには火傷しそうに感じられた。だが、それを顔に出さないよう努める。
「おいしい。中の餡もジジ様が作ったのですか?」
「そうじゃ。若い頃な、食べても食べてもすぐに腹が空くから、自分で饅頭くらい作れんとなと思って。門下生にはなかなか食べさせん、ワシ特製の饅頭じゃぞ」
メイメイが気に入ったのがわかったからか、ジジ様は得意げに言う。特別なものを食べさせてくれるのは、この人なりのいたわりなのだろうとわかって、メイメイは嬉しくなった。
「その落ち着きぶりは……うちのユナと同じくらいの歳か? まあ、ユナは落ち着いとらんが」
噛みしめるようにゆっくりと饅頭を食べていると、それを見てジジ様が尋ねてきた。
普通ならギクリとするところなのだろうが、この食えない老師が相手となると、どこまではぐらかせるか楽しむべきなのかもしれないという気もしてくる。
「あたしは八歳ですよ」
「まあ、人間は見た目に精神の年齢が引きずられるというからな。それならもっと、子供らしく遊ばぬか」
「え……はい」
思いもよらない返しに、メイメイは戸惑った。本当に、どこまで見抜かれているのかわからない。
だが、気にしたところで仕方がないのだろう。
「あの、水盤をお借りできますか?」
「花でも活けるのか? うちにそんな洒落たものはあったかいの」
「なければ、何か水を溜められそうなものをお借りしたいです。ちょっと、占いをしたくて……」
昨夜のこともあり、ファンファンたちの動向が気になったメイメイは、彼らの居場所を探ってみることにした。
「なるほどな。占いなら、これでもいいだろうか。やたらとでかい盆なんじゃが」
「ありがとうございます」
意図が伝わると、ジジ様は棚から大きな盆を取ってきてくれた。たくさん皿は乗せられそうだが、ひとりでは運べそうにはないくらい大きい。
その盆に、メイメイは水差しで水を注いでいった。それから、部屋から取ってきたいくつかの駒をその盆の中に並べていく。
「初めて見る占いじゃの」
メイメイの手元を覗き込みながら、ジジ様が珍しそうに言った。
この国で占いといえば、命と卜と相と呼ばれる三種類のものが有名だ。命はその人の生まれた日や時間などから運命を占うもの、卜はその人の占いたいという動機から病気の安否や願い事の成否を占うもの、相はその人の顔や手のひらの模様から運命を占うものである。
「これは失せ物探しの応用で、兄のおおよその位置を探ろうというものです」
「なるほど。それでは、これらの駒は見立てか。この国の地図を表しておるのだな」
「そうです。だから、あたしが息を吹き込んだ式をここに浮べれば……」
言いながら、メイメイは人型に切った紙に息を吹き込み、盆に浮かべた。するとその紙人形は、意思を持ったように移動を始めた。
「この町を発って、どこかへ立ち寄り、またどこかへ行き……この動きは、川沿いに向かったの」
「そうですね。たぶん、旧都へ向かうのではないでしょうか」
紙人形はしばらく陸地に見立てた場所を移動していたが、川沿いへ出て、どうやらそこから船に乗るようだ。
「少しずつ都に近づいておるが、何か掴めとったらいいんじゃが」
旧都へ向かう紙人形を見て、ジジ様は思案するように髭に触った。一見すると旧都に遊びに行くように見える動きだから、心配しているのかもしれない。
「最初に訪れた場所で何か情報を掴んで、それで次の場所に向かったのかもしれません。というのも、最初から旧都を目的地としていたのなら、この道順は不自然ですから」
「確かにな。より詳細な情報を求めて人が多く集まる場所を目指したのか。……何じゃ? 水が不自然に揺れておる場所があるぞ」
しばらく盆を見つめてあれこれ話していたのだが、不意にジジ様が一点を指差した。そこは、何かが震えているかのように波紋が浮かび続けている。
それは、王都に見立てた駒のある付近だ。もしかしたら、そこで何かが起きているということなのかもしれない。
「それにしても、すごい占いじゃの。 これはおぬしが考えたのか?」
「いえ。師匠がやっていたものを真似したのです。あたし用に使いやすい道具を兄が……ファンファンではない兄弟子が作ってくれて……」
言いながら、メイメイはひとつの可能性に行き当たった。
息を吹き込んだ紙人形がファンファンの位置を追っているなら、この土地に見立てた駒が震えているのは、それを作った人が関係しているのではないかと。
「もうひとり兄がおるのか。その人は、寺に残っておるのか?」
「いいえ。もう何年も前に喧嘩別れのようになって飛び出していき、そのまま……もしかしたら、王都にいるのかもしれません。波紋が浮かんでいるのは、王都に見立てた駒の近くですから」
メイメイの頭の中に占めているのは、最悪の想像だ。
「……あたし、王都に向かいます。たぶん、行かなきゃいけないんです」
「兄が、おるのかもしれんのだな?」
「いえ、わかりません。でも、可能性があるのなら……」
もとより道寺を出発したときから、もうひとりの兄――ユーシュンを疑っていたのだ。巷を騒がす屍骸遣いが、ユーシュンではないのかと。
道中、哀れな屍骸を倒すうちに、その確信は強まった。
ここにきて彼が作った駒が震えているのを見ていろいろ考えるのは、全くの的外れではないだろう。
「そうか。それなら、最初から船で目指すといい。そちらのほうが時間が短くて済むだろう。今から船着き場のある町を目指せば、日のあるうちの船に乗れるかもしれん」
そう言いながら、ジジ様は蒸籠から残りの饅頭を取り出して、それを竹皮に包んで差し出してきた。どうやら、持っていけということらしい。
「船着き場のある町まで行ってくれる馬車を手配してくるから、その間に荷物をまとめなさい」
「……いいんですか?」
言い出したのは自分だったが、こんなにあっさり許可が下りるとは思っていなかった。
なぜなら、メイメイは言ってみれば人質なのだ。ファンファンが無事にユナの呪いを解いて、この町に帰ってくるという約束を果たすための。
だが、ジジ様はそんなことを気にはしていないようだ。
「どうせユナたちには、問題とぶつかったときに顔を合わせるはずだ。そのとき、加勢できるもんがひとりでも多いほうがいいというじゃ。屍骸遣いは手強いはず。手伝ってやってくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
メイメイはジジ様に礼をして、厨房を出て荷物を取りに行った。
名目は、王都へ先回りしてユナたちと合流することだが、心の中は別のことでいっぱいだった。
ユーシュンが悪いことをしてるなら、あたしが止めなくちゃ。優しいファンファンが、ユーシュンのところにたどり着いてしまう前に――そんなことを、考えていた。
***
水の上をぐんぐんと進んでいく船の上に、ユナとファンファンはいた。
船が進む先に立つ白波も、水の香りを含んだ風も、山の近く育ちのユナには初めてのことだ。そのためすっかり興奮して、ずっとはしゃいでいる。
これからふたりは、大きな川を挟んだ向こう岸にある、栄えた町へ行く。
「大きな川だね。海みたい」
「ユナは海を見たことがあるの?」
「ううん、ない。でも、話には聞いたことあるよ」
その話を聞いたのは、町に出入りしている商人からだ。その人の話す海の話がひどく楽しそうに聞こえたため、ユナはそれ以来海に対して憧れを抱いている。
「海の上を行く船は、あんまり気持ちよくないよ。生臭い風が吹いてるし、その風はベタベタするし」
「そんなこと言うってことは、ファンファンは海を見たことがあるの?」
「あるよ。というより、船で海に行ったことがある。あんまりいいものじゃなかったけどさ」
本気であまりいい思い出がないらしく、ファンファンはつまらなそうに言った。そして、風が気になるのか少し神経質に前髪を整えていた。
ファンファンはずっと、長い前髪で片目を隠している。共に旅を始めて日にちが経ったが、ユナはまだ彼のその前髪の下を見ていない。そんなに頑なに隠したがるのなら、と思って積極的に見ようとも考えていないが。
「じゃあ、こうして川を船で行くのは好き? わたしは初めての船だから、なかなか楽しいかなって思ってるんだけど」
少しでも気を紛らわせられればと、努めて明るくユナは尋ねてみた。真剣にしているのならともかく、ファンファンがピリピリしているのは何だか気になった。いつも軽薄で上機嫌でいてほしいというわけではないものの、気持ちが沈むことがあるのならそれを和らげてやりたいと思ったのだ。
「あー……たぶん、船での移動自体が好きじゃないんだな。でも今は、ユナが一緒だから楽しいよ」
「そっか、それならよかった」
「まあ、はしゃぐユナが船から落ちないか、気が気じゃないない面もあるけどさ」
「そ、そんなこと……あるかもしれないけど」
「俺、泳ぎはあんまり得意じゃないから落ちないでね」
「……気をつける」
思いがけず釘を刺されてしまったが、ファンファンに軽口を叩く元気が戻ったことにユナはほっとした。
それからも、ユナは落ちないよう注意しつつはしゃいで見せた。ユナが楽しそうにしてみせると、ファンファンもそれに付き合って楽しんでくれるから。
船旅に対してか、こういった水辺に対してか。きっと彼の中には何かあるのだろう。だが、せめてそのことを考えずにいられればいいなとユナは考えていた。
そして数時間揺られて、船を降りて少し歩いてから、ようやくふたりは目的の町にたどり着いた。
「え……すごい! 人がたくさんいるね! お店もたくさん。それに、活気がすごい……」
町に入った途端、ユナは落ち着きなくキョロキョロした。まるっきり、田舎から出てきた人間だ。
だが、ユナがそんなふうになるのは無理もない。ここは、都と見紛う賑やかさの町なのだ。
「ここは前王朝の頃、王都だった場所だからね。多少戦火に焼かれても立て直すだけの力があって、こうして川の近くという立地の良さだから、栄えているのは当然の町だ」
「そうなんだ。ファンファン、物知り」
ユナが素直に感心すると、ファンファンは何でもないことのように笑った。これも、話したがらないことのひとつだなと思ったが、ユナは特に触れずにおいた。
なぜ道士になったのか、道士になる前はどうやって生きていたのか、出身はどこなのか――聞いてみたいことはたくさんある。ただ、彼の髪と目の色を見れば何か訳ありなのはわかるし、軽口の彼が自分のことを話さないのは話したくないからだとわかる。
だから、何かのついでのように聞き出すことはしないでおこうとユナは決めていた。
「これだけ人も店もたくさんだと、どこに行ったらいいかわからないね」
目に入るものすべてが目新しく刺激的で、ユナは興奮気味に言った。そんなユナを見て、ファンファンは笑った。
「それなら、見て回りながら決めたらいいよ。急いでも情報が手に入るわけじゃないからね」
「そうだね」
ファンファンが優しく言ってくれるのが嬉しくて、ユナは手を叩いて喜んだ。最初は空元気だったのが、町の活気にあてられたのか本当に元気になってきたのだ。
平気そうに振る舞ってはいるが、やはりミンたちの村での出来事はまだユナの心にわだかまっていた。人であったものと戦うことに対する恐怖やためらいも、自身の強さが揺らいだことも、まったく消化しきれずにいる。倒すべき屍骸遣いのもとにたどり着いてすらいないというのに、こんなふうに迷いや不安を抱えていることは、ひどく嫌なのだが。
「見て、ユナ。武術大会だって。優勝したら賞金がもらえるらしいよ」
歩いていると、開けた広場のようになった場所にたどり着いた。その中心は色の違う土が四角く盛られており、そこで試合をするのだとわかる。
「ユナ、出たらいいよ。それで賞金で買い物をしよう。きれいな服とか買ったらいいさ」
「優勝すること前提なの? そんなにうまくいくかな」
武術大会は注目度の高い催しらしく、大勢の人が観戦のために集まっていた。中央の試合をする場所の付近には力自慢だろうと見て取れる屈強な男たちが集まっていた。身体の大きさが強さに直結するわけではないとわかっていても、やはり身構えてしまう。
「大丈夫。ユナなら一番になれるよ。だって、熊を倒したんだからさ。しかも、ただの熊じゃなくて屍骸になった熊だ。できるよ、行っておいで」
「……うん」
試合に興味はあるし、賞金も欲しい。それでも足踏みしてしまっていたユナの背中を、ファンファンは優しく叩いてくれた。それで、もしかするとこれは彼なりの激励なのかもしれないと思って、ユナはその気になった。
(ファンファンはたぶん、わたしに自信を取り戻させようとしてくれてるのね。勝てば、優勝すれば、ちゃんと強いって証明できるから)
彼が自分のことを考えてくれているのが嬉しくて、ユナは勇んで広場の中央へ向かっていった。
「すみません、試合へは参加できますか?」
これから戦おうとしている男たちが集まっているところへ行き、その中で一人身なりのそこそこ良い、強そうには見えない男にユナは声をかけた。戦わなさそうということは、おそらく主催側の人間だろうと踏んだのだ。
「お嬢さんが? このごつい男たちと戦うっていうの? 君みたいな可愛い子は、ぜひとも参加する側ではなくて応援するほうに回っておくれよ。男ってもんはさ、可愛い女の声援で奮い立つもんだから」
男はユナを値踏みするように見ると、にっこり笑って言った。馬鹿にするつもりはなかったのだろうが、軽んじられたことはよく伝わった。
慣れているから、特に腹は立たなかった。故郷の町の人たちはユナが道場で師範をしていることを知っているから侮ることはないものの、外から入ってきた人間たちはそうではなかった。みんな、ユナの見た目に騙されるのだ。
「その子、出させてやりな」
出場者と思われる男たちの列の中から、そんな声が上がった。ユナがそちらを見ると、上半身裸の熊のような男と目が合った。
「その子、いやに姿勢がいいだろ。それは身体を支える筋肉がしっかりついているってことだ。強いかどうかは別にして、何らかの武術の基礎は身についてるのは確かだ」
「そ、そうなのか?」
「それに、女だからって侮ったらだめなのはあんたもよく知ってるだろ。俺は前に女に負けたことがある。まあその女はその子みたいに華奢じゃなくて、それなりにゴツかったがな。――というわけだ。出させてやれ。小娘だからというのは出させん理由にならん」
「あんたがそう言うんなら……」
どうやら熊男のとりなしで、ユナは試合に出られることになったらしい。ユナがお礼を言うと、熊男は無言で頷いただけだった。
その後少し待たされて、対戦の組み合わせが発表された。
ユナが飛び入りしたことで、総勢十三人が戦うことになった。つまり、一回戦は六組できて一人余る。
どうやら熊男は強さにお墨付きがあるようで、一回戦は飛ばしていきなり二回戦に進むことになっている。
「あんたが飛び入りしてくれて助かったよ。じゃなきゃ俺が、あのシォンと当たるようになってたからさ。誰も一回戦で負けたくはないだろ」
ユナと対戦することになったふくよかな男が、機嫌がよさそうな様子で言った。熊男・シォンには勝てないがユナになら勝てると言っているのだろう。下手な挑発に乗ってはいけないと、ユナは丁寧に礼をした。
試合で戦う相手には礼を尽くすよう教えられている。礼を欠く者、相手を侮る者は弱さに繋がるのだとジジ様が言っていたし、現にそういうものだとユナ自身も見てきている。
挑発に乗らなかったことにふくよかな男は意外そうな顔をしたが、力の差というのは試合でわからせるしかない。
審判の掛け声を合図に、試合が開始された。
「オラオラッ」
相手は、両手の平を交互に素早く突き出してきた。それをユナは跳躍して避け、相手の次の出方を見る。
相手を地面に伏せさせること、もしくは四角の外側に出すことが出来れば勝利というのが、この試合の決まりだ。つまりこの対戦相手は、ユナを押し出そうとしたのだろう。
「初めて見る技に怖気づいたか? これはな、東の果ての島国で修得した、『張り手』って技なんだぜ。極東の神秘の国の技、受けてみやがれ!」
男はそう言って、再び高速で張り手を繰り出した。確かに重量のある人間から繰り出されるその攻撃は、一撃食らうだけでもかなりの衝撃を受けるだろう。だが、それだけだ。
「はっ!」
速さはないため、ユナはすぐに男の背後に回り込むことができた。そしてそのまま、右手で突き左手で突き、飛び上がった勢いで踵を男の頭に叩き込んだ。
「ぐぉっ」
ユナは、男がよろめいたところでさらに背中を蹴っ飛ばした。男は手をつくことなく倒れ込んで、地面に伏す格好になってしまう。
そこで審判が声を上げ、ユナの勝利が確定した。
予想外の結果だったからか、観客から盛大な歓声が上がった。ユナを讃える声も。男は起き上がって来なかったが意識があるのは見て取れたため、ユナはきっちり礼をしてその場を去った。
ファンファンは見ていてくれただろうかと探したものの、あまりの人ごみに見つけることはかなわなかった。その代わり、別の人物に肩を叩かれた。
「一回戦は勝ったな。だが、これから他のやつらの試合をよく見ておくといい。かなり激しいものになるはずだ。それを見て、己には無理だと感じたら退くのも大切だ」
肩を叩いてきたのはシォンだった。彼は観客の熱気にあてられることはなく、緊張もせず落ち着いている。これが強者の風格だろうかと、ユナはそんなことを思った。
「ご忠告、ありがとうございます。でも、負けることも必要な経験だとつい最近身につまされることがありましたので、できれば行けるところまで進んでみたいんです」
井の中の蛙でいたくないという意味で言ったのだが、伝わったかどうか自信がなかった。だが、その心配は杞憂だったようで、シォンは納得したように頷いた。
「その心意気なら、大丈夫だろう。決勝で会ったなら、存分に拳を交えようぞ」
予言めいたことを言ってから、シォンは立ち去った。
それからその言葉の通り、ユナは順調に勝ち進んで行った。
他の者たちの試合を見ておけと忠告しておいてもらってよかった。どの出場者たちも独特の癖のある戦い方をしており、手の内を知っているのと知らないのとでは勝敗に大きな違いが出ただろう。
何より、シォンの戦いぶりを見られたのは運がよかった。シォンは熊のように大きく筋肉質な身体をしているが、重量任せの戦い方は一切しなかった。
俊敏で、柔軟で、そして巧妙で癖の強い戦い方だった。
相手が拳を振るってきたら受け止め、反対の拳を繰り出せばそれも受け止める。それを何度かやるうちに遂には相手の両手を掴み、繰り返し両腕の曲げ伸ばしをさせるのだ。対戦相手は無様な踊りをさせられたかと思うと、不意に体勢を崩され、あっけなく地面に伏せさせられてしまった。
また別の試合では、投げ飛ばそうと掴みかかった相手の動きを利用して、くるりときれいに投げ飛ばしてしまった。そのときはギリギリ四角から出ることはなく判定にはならなかったが、その後相手が何度挑んできても踊るようにかわし、最終的には両手首を掴んでぐるんぐるんと勢いつけて回したあとポイッと放ったのだ。
不用意に近づけば何をされるかわからない――それが、ユナがシォンの戦い方を見て抱いた印象だった。
「本当に勝ち進んでくるとはな。まあ、飛び入り参加してきたときからこうなることが決まっていた気もするが」
決勝戦。試合の場でユナと向かい合ってシォンは言った。最初のときと同じように、彼にユナを軽んじる様子はない。やはり強いだけあって、相手を侮らない。もしくは、本質が見えているから侮ることがないのかもしれない。
「何とかここまで勝ち進むことができました。正直ここまで来たら勝ちたい。でも、あなたという武人の戦いぶりを間近に見ることができて、こうしてあなたと手合わせする機会を得られただけでも十分という気持ちもあります」
ユナはシォンを前にして、熱っぽく言っていた。
ユナは感激していたのだ。これまでユナの中で強い人といえば、ジジ様に母のヨキ、そして兄のゼツだけだったから。そんな尊敬する彼らとはまったく異なる戦い方の強い武人に出会えたということが、本当に嬉しくて、得難いことだと感じている。
「嬉しいこと言ってくれるなあ。だが、だからって手加減はしてやれん。加減をするなんざ、相手を思いやっているようで一番愚弄する行為だ。だから、全力で行くぞ」
嬉しいと言いつつ、シォンは真顔だ。気の緩みが一切ないのがわかって、ユナはさらに嬉しくなる。ここで鼻の下を伸ばすようなら、尊敬などできない。
「よろしくお願いします!」
ユナが丁寧に礼をしたところで、「ユナ、頑張れー」という声が聞こえた。ファンファンだ。どこへ行ったものかと思って、試合が始まってすぐ意識の外側へ行ってしまっていたのだが、どうやらちゃんと観戦していたらしい。
彼が見ているのならば、簡単に負けることはできないと、新たに気合いが入った。
だが、審判の掛け声のあとも、ユナもシォンもなかなか動かなかった。
不用意に近づけば投げられるか地面に伏せさせられるとわかっているユナは、慎重にならざるを得ない。そしてこれまでの戦いぶりを見る限り、シォンは重量と腕力任せな勝負には出てこない。ふたりはジリジリと見つめ合ったまま、しばらく時間を過ごした。
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