第3話
その翌朝。
「それじゃあ、いってきます」
門の前に並ぶジジ様や門下生、町の人たちに対してユナは大きく手を振った。
突然の旅立ちだというのにこれだけ人が集まってくれたのは、隣に立つ〝英雄〟のおかげなのか。とにかく見送りは嬉しいから、ユナは笑顔で手を振る。
こんなふうに町の人が誰かを見送ったのは、おそらくユナの兄のゼツが都へ発つとき以来だ。自分は女で、兄のように仕官することはないためこうして見送られることもないと思っていたから、ユナは何だか誇らしい気分だった。
「ゼツには手紙を書いておくから、ひとまずは都を目指してみなさい。人が多いところへ向かっていけば、おのずと情報も集まるだろう」
「はい、ジジ様」
「それと、ヨキを探してみるのもいいかもしれんな」
「え? 母様を?」
訳ありの旅に出ている母のことが話題に出て、ユナには理由がわからなかった。
ヨキはジジ様の往時を凌ぐほどの強さと謳われた人物で、ゼツが武官として通用する武人に育ったのは彼女の存在あってのことだというのは誰もが知っている。
ただ、独特の感性の持ち主であるため、娘のユナであってもついていけないことがしばしばあった。だから、これからの大変な旅の最中に訪ねてみよと言われても、すぐに頷くことはできない。
「なに、別に用がなくとも母を訪ねて何が悪いというんじゃ。ファンファンを見せてやれ」
「それこそ、何でよ?」
「喜ぶじゃろうて」
「……」
ちらりとファンファンの顔を見て、ユナは黙って溜め息をついた。ヨキのことは母として武人として尊敬しているが、顔の良い男が好きということだけは受け入れがたいと思っている。それが自分の人生を狂わせたと思っていないあたりも、娘から言わせると嫌なのだ。
そして、ファンファンの顔を改めて見てみて、確かに母が好きそうな顔だと思ったことも気持ちを沈ませた。
「じゃあ、あたしはここに残っていろいろ調べるわ。兄さんたちとは別の道筋で情報が掴めるかもしれないから」
ひとりこの町に残ると言い出したメイメイが、改めてファンファンに言った。
ユナとしては知らない男との二人旅よりも、小さくても同性のメイメイが一緒のほうがよかったのだが、そういうわけにはいかないらしい。兄妹なのにあっさりしたもので、残ると言ったときファンファンも特に止めることはなかった。
「ここに残ってくれるのは助かるよ。何かあれば、この町にいるメイメイに手紙を飛ばせるから。くれぐれも、よろしく頼みます」
いつの間にか打ち解けあったようで、ファンファンはジジ様に頭を下げてメイメイのことを頼んだ。
「ワシのそばにおらせるから、心配ない。弱味を連れ歩く旅も難儀じゃろうから」
ジジ様も訳知り顔で、安心させるように頷く。
「心配なら、やっぱりメイメイちゃんも一緒に行ってもいいのよ?」
「いや、いいんだ。妹は預けられる場所があるのならそうしたいと、いつも思ってたから」
「……そう」
ファンファンがもし離れ難く思っているのなら連れてくればいいのにとユナは思ったのだが、そういう単純な話ではなさそうだ。
二十歳くらいの兄と、七、八歳に見える妹の二人旅は、何やら訳ありらしい。
ここでそれを問うのも野暮だと思い、ユナは気持ちを切り替えた。
「それじゃあ、行ってきます」
何度か振り返って手を振りながら、ユナとファンファンは出発した。
ユナは旅に出るのは初めてだし、何なら町からうんと離れるのも初めてだった。だからいい修行になるはずだとジジ様に言われたのもあって、気合いが入る。その気合いを込めて背負子の紐をギュッと握ると、隣で見ていたファンファンがなぜだかにんまりした。
「お嬢さん、つらくなったらいつでも俺がその荷物持ってあげるからねー。俺、力持ちだからさ」
「何をニヤニヤしてるのかと思ったら、そんなことを言いたかったの? 結構よ。自分のものは自分で持てるから。それと、私はユナよ。お嬢さんって呼ぶのはやめて」
「ユナはツンツンしてるなー。美人がそんなことしても、可愛いだけだよ」
馴れ馴れしいのと軽く見られているのが嫌で、ユナはファンファンに腹が立っていた。ふいっと顔をそむけて不快感を示しても、にやけたままなのがさらに癪だ。
「何よ、そのしゃべり方。昨夜、ジジ様たちの前ではちゃんと話してたじゃない。何で私の前だとそんなふにゃけた態度を取るの?」
昨夜、道士らしい真面目な姿を見ているだけに、ユナは今のファンファンの態度に猛烈に腹が立っていた。ジジ様の前ではきちんとするのにユナにはヘラヘラするというのは、どうしても馬鹿にされているように感じてしまう。
「それはさ、女の子との接し方がわからないからだよ。ずっと修行ばっかりだったから、不慣れなのさ。特にユナみたいな可愛い子なんて、他に知らないし」
「あんた、妹いるじゃない!」
「メイメイは女の子って言っても、まだちびだから。ユナのような年の近い子とおしゃべりする機会なんか全然ないんだ」
「……顔のいい男って、やっぱり信用ならないわ」
隣を歩くのが嫌になって、ユナはスタスタとファンファンの先を行った。
女の子に不慣れなどと、一体どの口が言うのだろうかと思ってしまう。呪いを受けたための応急処置だと言っていたが、昨日ユナはファンファンに接吻されているのだ。唇だけではなく、首筋にもだ。あんなことをされたのは初めてだし、嫁入り前の娘としてはあってはならないことだ。
あんなことを平然としておきながら、慣れていないなどと言う男のことは信用できなかった。
「そういうユナだって、俺にだけ当たりがきつい気がするよ。顔のいい男が信用ならないってどうして?」
「それは……わたしの父親がそうだからよ」
早歩きで追いついてきたファンファンは、屈んでユナの顔を覗き込んで尋ねてきた。捨てられた犬みたいな悲しげな表情をしているから、ユナは何だか悪いことをしたような気分にさせられた。
「うちは代々武官を輩出するような強い拳法の使い手の家で、ジジ様も昔は出仕してたし、そのジジ様の父上、つまりわたしの曾祖父もそうだし、ずっと遡ってもみんな何かしら国に貢献してる強い人たちばかりなの。それで、ジジ様の娘であるわたしの母も当然強かったのだけど、女は役人になれない。それなら見込みがありそうな殿方に婿に入ってもらって、強い血を大事にしていこうってなったのに、母様が惚れ込んだのは顔がきれいなだけのへなちょこ男だったのよ……」
ユナは苦々しく言いながら、自分のつるりとした顔を撫でた。自分のこの整った顔は父譲りのものだから、手放しに好きにはなれないのだ。
「父は役人を目指してはいたものの箸にも棒にもな人物で、でも母が惚れ込んだ人物だからって、ジジ様が何かと目をかけてやって……やっとのことで役人になれたの。そうやって、恩があるはずなのに父は全然そのことがわかっていなくて、真面目に仕事もしなければ浮気ばかり繰り返すしで……今は都の近くで浮気相手と暮らしてるんだって。きれいな顔くらいしか取り柄がないから、そんなふうにろくでもない生き方してるの」
言いながら、ユナの気分は沈んでいった。父の恥は、自分の恥でもある。容姿が似ているからこそ、母の想いに報いず傷つけた父のことが一層憎く思えてしまう。
「ふーん。それで顔がいい男が信用できないっていうわけか。でも、それってどうなんだろうね。浮気なんて、顔でするわけじゃないし。不細工でも浮気をするやつはするし、一途な美男子だっているだろうさ。俺とかね?」
「……話聞いてた?」
軽薄な男が嫌いだという理由を説明したはずなのに、ファンファンはにやけた顔でユナを見つめてくる。
身体を鍛えた筋骨隆々な男たちばかりに囲まれて暮らしてきたせいか、ファンファンのような線の細い男性には不慣れだ。おまけにかなりの美貌で、そうして見つめられると落ち着かない気分になる。
それに、昨日は口づけまでしてしまっているのだと思い出すと、まともに顔を見られなかった。
「あのさ、このまま歩いてどこに行くの? 今日は野宿になるのかな?」
気持ちを切り替えようと、ファンファンから目をそらしてユナは尋ねた。
旅そのものが、ユナにとっては未知だ。今後の予定を知っておきたいという気持ちも当然ある。
「半日ほど歩いたところに大きな町があるんだ。今日はそこに泊まろうかなと。宿場町として栄えてるから、きっといろいろな情報が得られるはずさ」
「大きな町か。そっかあ」
いきなり野宿ではないとわかって、ユナはほっとした。それなりに覚悟を決めてきたつもりだったけれど、やはり外で寝泊まりするのには抵抗があった。何だかんだいっても、ユナは世間知らずなお嬢様ということだ。
行く先が大きな町だというのも、期待感が高まる。日頃、都会に憧れる周りの同世代の女の子たちの気持ちはあまりわからないなどと思っていたが、興味がないわけではなかった。
都会には、住んでいた町にはなかったような食べ物や服や装飾品ががあるのだという。遊びにいくわけではないとわかっていても、そういったものを見ることができるのだと思うとわくわくした。
そんなふうにこれから行く町のことで頭をいっぱいにしていたからだろう。ユナは、自分の隣をファンファンという軽薄な男が歩いていることを、わずかな間失念していた。
「隙あり!」
そう言って、ファンファンは突然ユナの唇を塞いだ。口づけられたのだとわかったときには、ユナのそばから離れている。
やられたこととそのあまりの素早さに、しばし動転してからユナは烈火の如く怒った。
「ちょ、ちょっと何するのよ!」
「何って、応急処置さ。呪いを封じておくためには、こうして定期的に接吻しないと」
「……嘘でしょ!?」
ファンファンの口調はあくまで軽く、表情もヘラヘラしている。その様子からは、本当か嘘なのか判断できない。だが、〝呪い〟という言葉を聞くと、強く抵抗できなかった。
(死にたくないから、口づけられるがままにしていただけよ。……早く、術者を見つけてぶちのめさなきゃ)
悔しいやら恥ずかしいやらで、ユナは顔を真っ赤にしている。
それをファンファンに悟らせないよう神経を尖らせて、決意を新たにユナは歩きつづけた。
それからずっと歩いて、日が沈む頃には目的の町にたどり着いた。
途中、水を飲んだり持たせてもらった握り飯を食べたりで足を止めたものの、そのほかは歩き通しだ。日頃から身体を鍛えているつもりのユナだったが、さすがにくたびれてしまった。
しかし、夜空の下でも明るい町の姿を目にすると、その疲れはたちまち飛んでいったようだ。
「すごい! 夜なのに、外がすごく明るいのね。お祭り、なのかしら? たくさんの屋台があるし、提燈が至るところに灯ってるわ」
目を輝かせてユナは言う。ユナの中で、夜になれば世界は暗くなるものだった。人々は家に帰るし、明かりというのは夜空の星か、家の中に灯る蝋燭くらいだ。だから、夜になっても明るいのや人が大勢外を歩いているというのは、祭りのときくらいしか考えられなかったのだ。
「これがここのいつもの光景。祭りじゃないんだよ。宿場町として栄えた結果、食べ物の店も増えてね。気軽に立ち寄ってもらえるようにってこの屋台の形式を始めたら定着して、住民たちも屋台で食事をするのが当たり前になったんだ。だから、いつもこんな感じ」
「へえ……」
こういうところに来るのには慣れているのか、ファンファンは落ち着いたものだ。驚くユナに、町の成り立ちについてさらりと語ってみせた。
感心しつつ、自分が不慣れな場所に来たのだという自覚が突然湧いて、ユナは改めて背筋を伸ばす。
「この屋台のどれかで食べるの?」
「ううん。今日はこういう店に入るつもり」
そう言ってファンファンが指差すのは、かなり立派な酒楼だ。ただ、こういった店には下品な荒くれ者も多くいると聞かされていたから、ユナは少し不安になる。
「あの、こういうところは慣れてるの? ファンファンは道士だし、わたしは旅装だから、何となく敷居が高い気がしない?」
「しないしない。行くよー」
ユナがやんわり止めるのも聞かず、ファンファンは扉を開けて中へと入っていった。
そこは、小綺麗ではあるもののいたって普通の食事処だった。卓子がいくつも並び、たくさんの人たちが思い思いに食事をしている。ちらっと見ただけで料理の盛られた器も絵付けのされたちょっといいものだとわかって、そこいらの食事処よりもいい場所だということが察せられる。……ただ、やはり柄の悪い人間がちらほら視界に入った。
そんなことはお構いなしに、ファンファンは席につく。
「お兄さん、旅の道士様かい? どこかのお嬢さんをつれて?」
「そうそう。こちらのお嬢さんは訳あって都にいるお兄さんを訪ねていくから、俺はその付き添い」
「ずいぶんな長旅になるな。よっし。元気の出るものをお出ししましょう」
「ありがとう。ついでにお酒ももらえるかな」
席につくとすぐに店の人がやってきてくれた。気の良さそうなおじさん相手にファンファンはお得意の軽口を叩き、お酒まで注文してしまっている。その鮮やかなまでの軽薄さに、ユナは怒りを通り越して呆れていた。
「あなた、お酒を飲むの? 道士でしょ?」
「道士にもいろいろいるんだよ。寺から一切出ずに修行する人もいれば、俺の師や俺みたいに俗世に身を置いてるのもいる。それに、酒は薬だ。呑んで悪いものなはずがないさ」
「……生臭道士め」
ファンファンのいい加減な言い分にユナはさらに呆れたが、料理が運ばれてくるとそんなことはどうでもよくなった。
蒸籠に入った蒸したての饅頭、肉と野菜の炒めもの、野菜餡のかかった麺、それから肉団子がたっぷり入った汁。
「とろっとした汁が肉団子に絡んで美味しい……薬味がよく利いてて、食べてるうちに身体の芯があったまる」
目移りしながらも、ユナはまず肉団子汁に手を伸ばした。強くなるためには身体を冷やしてはいけないと、幼いときから汁物を重視する食卓で育ってきた。成長してから単にジジ様の好みだと知ったが、その頃にはユナもすっかり汁物が好きになっていた。
「ユナはそういう食事が好きだね。昨日も、汁の入ったどんぶりを最後まで手放さずにいたしさ」
「うん。大事な朝食だったから」
ほくほくと肉団子を食べるユナの向かいで、酒盃を片手にファンファンも食事をしていた。まるで水のようにすいすいと盃を飲み干していくのが驚いたが、ファンファンの顔色は変わらないのが気になった。
だが、そのうちに別のことが気になるようになった。
「……ファンファン、お酒ばっかり飲んでないで早く食べなよ。食べたら、お店を出て泊まるところを探そうよ」
若い道士と若い娘という組み合わせは目立つのだろうか。こちらを見る視線が気になって、ユナは落ち着かなくなってきた。見てくる者の中には、柄が悪い者たちもいる。そういった者たちに絡まれては嫌だなと思って、ユナは早く店を出たかった。
それなのに、ファンファンは気づいていないのか気にならないのか、機嫌よく酒を飲み続けている。
そしてついに、そんなファンファンの肩を叩く者が現れた。
「よお、兄ちゃん。可愛い子と呑んでるな。俺たちも混ぜてくれよ」
それは見るからに柄の悪い、身体の大きな男二人組だった。
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