1-1『路地裏の邂逅』

「──まったく、呆れるほど絢爛けんらんな空だ」


 夜風が吹き抜ける路地裏で、男は空を見上げながらひとちた。

 視線の先には、暗闇に煌々こうこうたたずむ大きな満月。そして無数に散らばる色とりどりの星々。

 初めてこの光景を目にした者ならば、その荘厳そうごんさまたちまち心を奪われるだろう。

 そして思うのだ。

 『こんな光景が偶然生まれる筈がない。これらを創造した存在、すなわち神は実在するのだ』と。

 しかし──。


「……なァンてひたってる場合じゃねェ! こごえ死ぬわ!」


 次に男が口にしたのは、そんな情趣じょうしゅことごと台無だいなしにする、けたたましい絶叫だった。

 美しい星空に対する感動など微塵みじんもない。絶叫と共にこぼれ出た白い息だけが、空気中にむなしく溶けていく。


「参ったなァ……。三日三晩みっかみばん、砂漠を彷徨さまよい続けてようやく見つけた国だってのに、いざ入国にゅうこくしてみれば"これ"とはなァ」


 ひざいてガクガクと身体を震わせながら、男はサナギのように身を縮こまらせる。

 その呟きには、深い落胆が滲んでいた。

 

「ここは致命的に、野宿のじゅくとの相性が悪いらしい……て、はっ、はっ──」


 再び空を仰ぐ。だが何度眺めても、ただ美しいだけの景色に心揺さぶられることはない。

 当然だ。身体のしんから凍えるような寒さの前では、感動も哀愁あいしゅうも何の意味も持たないのだから。

 それを証明するかのように、冷たい風が男の肌を撫でる。

 直後、クシャミの音が夜空に木霊こだました。



※ ※ ※ ※ ※



 世界には、無数の"くに"が存在する。

 国はそれぞれ独立した歴史や文化、文明を持ち、一つとして同じものはない──どの国も、巨大な城壁じょうへきで領土を囲っていること以外は。

 "彼"が訪れた砂漠の国『オアシス』も、その例に漏れない。


「はァ……えらいところに来ちまったよ」


 め息じりにつぶく男の名は、ジン。

 としは二〇代前半、背丈せたけは高くも低くもない|、やや痩せた体型の青年だ。

 びっぱなしの黒髪を後ろ結びにまとめており、あごや鼻の下には無精髭ぶしょうひげをぶら下げている。

 胸元が開いた緋色ひいろの着物を着流きながしており、腰にはベルト代わりの細いおびいているのは、今にも鼻緒はなおほどけそうな古い草履ぞうりだ。

 所持品は、かたわらに置いた風呂敷包ふろしきづつみとさやに収まる一本の刀。

 その姿を見れば、誰もが浮浪者ふろうしゃと認識するちだ。

 そして、それは正しい認識である。


「どうしたもンかねェ。ここは他国よそと比べて一層"旅人たびびと"に厳しい国らしい」


 "旅人"とは、様々な土地をめぐ定住地ていじゅうちを持たない者を指した言葉だ。

 その多くが勝手気儘かってきまま自由奔放じゆうほんぽうに日々を過ごし、人や社会のしがらみとらわわれない生活をしとして生きている。

 そのり方から、一部では根無ねなし草やイナゴなどの蔑称べっしょうで呼ばれ、真っ当に社会にじゅんずる者たちから蛇蝎だかつごとく嫌われていた。


 しかるに旅人とは、国や街コミュニティに馴染めなかったハミ出し者、というのが世間一般からの扱いなのである。

 そして、そんなハミ出し者の例に漏れないジンは現在いま、夜の路地裏で逼迫ひっぱくした状況に直面していた。


緊急きんきゅうだったとはいえ、前の国で荷物の大半たいはんを置いてきちまったからなァ。それでも多少の宿代やどだいだけは死守ししゅしたつもりだったんだが……」


 そう呟くジンは、路地裏の外に視線を向ける。

 そこには背の高いビルがいくつも並んでおり、電光看板でんこうけいじばん立体映像ホログラムを浮かべ、カメラを付けた小型の飛行物体ひこうぶったい物顔ものがおで歩道の上を巡回じゅんかいしていた。

 この国で暮らす人々からすれば、何の疑問ぎもんも持たない日常的な光景なのだろう。

 しかし、この地を訪れたばかりの彼にとって、それらは目を疑いたくなるものばかりであった。

 そんな光景から目を反らし、ジンはふところから財布さいふを取り出す。

 そして溜め息。


「悲しいことに、この国じゃ他国の通貨つうかは使えないどころか両替りょうがえすら出来ねェときやがる」


 中にあるのは、数枚の紙幣しへいと幾つかの硬貨こうか。この貨幣かへいが流通している国ならば、二晩は安宿やすやどを借りられる。

 しかし彼が口にした通り、この国ではゴミ同然の無価値なモノでしかない。

 つまり今の彼を端的たんてきひょうするなら、素寒貧すかんぴん一文無いちもんなし、という言葉が最も適切だった。

 そんな彼の胸中きょうちゅうを物語るように、再び路地裏に風が吹く。


「うゥっ! 冷える冷える……このまままちなかで凍え死ぬとか洒落しゃれになンねェぞ」


 震える身体に鳥肌を立て、体温を下げまいと腕をさする。

 状況だけを見るなら、とても砂漠の国の環境とは思えないだろう。

 しかし、この寒さには理由があった。


 砂漠と聞いた時、多くの人は何を思い浮かべるだろう。きっと大半が、焼けるような熱砂ねっさの大地を想像するのではないだろうか。

 その認識は間違いではない。ただし、そこには『あくまで日中に限った話』という注意書きが立てられる。

 現在の彼が居るのは夜の砂漠。太陽からの熱を失った砂漠は、それだけで気温が氷点下を下回ることもあるのだ。

 当然、布一枚ぬのいちまいまとった程度でしのげる寒さではない。

 加えて、


 ──あァ畜生ちくしょう、眠くなってきやがった。それに体力も限界だ……。


 不意に振り掛かる、抗いがたい眠気。理由は単純、旅の疲労だ。

 彼は入国して以降、宿を探して日が沈むまで休まず歩き続けていた。

 しかし無一文の旅人に手を差し伸べる物好きは居らず、行く先々で門前払い。結果、辿り着いたのが現在の路地裏だった。

 疲れがたたり、無意識に閉じようとする瞼。このままでは、街中でこごにしかねない。

 その時──。


「……なンの音だ?」


 パシュンッ──くぐもった破裂音。

 不意にジンの鼓膜が、路地裏の奥から響く音を捉えた。

 一拍遅れてガキャンッ、バキンッと硬い何かが激しくぶつかり合うような甲高い音が響き、ザリザリと何かを引きる音が近づいてくる。


「──!」


 これが雑踏ざっとうの中であれば、気付くことさえなかっただろう。

 しかし静寂こそが常である夜の路地裏にいて、それはたちまち不可解な異音へと成り果てる。

 そして、それはたびびとの意識を覚醒させるに十分なものだった。


「ただでさえシンドイ状況なんだ。追いぎとか、勘弁してくれよ……」


 疲労困憊ひろうこんぱいの体に鞭打って、膝に手をつき立ち上がる。

 足元の刀を拾い鞘を帯に通すと、油断なく路地裏の奥をめ付けた。

 そんなジンの前に現れたのは──。


「ハァ……ハァ…………っ」

「……もしかして、子供か?」

「ッ!?」


 それは、見るからに小柄な人影だった。

 荒い呼吸を繰り返し、左脚を地面に引き摺りながらも、両腕で大きな荷物を抱えて歩いている。

 暗い路地裏であるため、人影の明瞭な容姿まではわからない。

 対する影はというと、ジンに気付いた途端ビクリと体を震わせ、直後にバランスを崩し荷物を下敷きに倒れ込んだ。

 ガシャンと響く、固い物体が地面にぶつかる音。


「お、おーい、大丈夫か……?」


 突然のことに呆気あっけに取られ、目を丸くするジン。しかし直ぐに気遣きづかわしげな表情を浮かべると、声を掛けながら影に近付いていく。

 ただし、すぐに駆け寄ろうとはしない。それは弱った人間を装った強盗である可能性を考慮こうりょしてのこと。

 『人が倒れたからといって安易あんいに近づいてはならない』とは、旅人の常識である。

 しかし、


「……おいおいおい、なンだってんだよ」


 距離が縮まるにつれつまびらかになる影の正体を目にした途端、ジンは旅人の常識をかなぐり捨てていた。


「おい嬢ちゃん、その怪我はどうした。何があった」

「うっ……うぅ…………」


 影の正体。それはあしや脇腹から血を流す、十代なかば程の少女だった。

 ヘソを露出した白いトップスと、その上に羽織る深緑ふかみどりのジャケットには、真っ赤な血潮ちしおがベッタリと付着してる。

 紺のショートパンツとタイツには切りつけられたような裂け目がり、肩まで伸びる銀髪は汗とほこりで乱れている。

 状況を理解できなくとも、只事ただごとでないと察するのは容易だった。


「待ってろ、すぐに手当てしてやるからな。とりあえず仰向けに──」

「っ! ダメ……ッ!」


 ジンは手当てのため、荷物に覆い被さる少女を仰向けに寝かせようと手を伸ばす。

 しかし彼の動作に何を思ったのか、少女は咄嗟とっさに平手でジンの手をはじいた。

 思わぬ抵抗に、ジンは目を丸くする。


ゥ! ……その体勢じゃ手当て出来ねェぞ。荷物をるわけじゃねェンだ、今は大人しく──」

「渡せない……これだけは、絶対に……」

「こいつ……」


 少女は出血も気に留めず、うずくまったままかたくなに姿勢を変えようとしない。

 その強硬な態度に、ジンは思わず眉をしかめた。

 とはいえ、なら仕方ないと引き下がれる状況ではない。今もなお、少女の脇腹の血は留まることなく流れ続けているのだから。

 故に、


「悪いが治療が優先だ。このままじゃ命に関わる」


 そう判断したジンは、抵抗を続ける少女の肩に手を掛ける。

 多少強引ではあるものの、それが一番手っ取り早い。

 しかし、いざ肩を引こうとしたその時。


「──そこのお前。そのガキを今すぐこちらに引き渡せ」


 路地裏の奥から不意に、うなるような男の声が響いた。

 続けて、カツンッカツンッという固い足音が大袈裟に立てられる。


「あン?」


 瞬間、ジンは咄嗟とっさに顔を上げると声がした方向をめ付けた。

 この状況で、一体どこの誰がほざいていやがると、苛立ち混じりの声を挙げながら。

 しかし暗闇の中、彼が目にしたものは──。


「おいおい、冗談だろ……?」


 そこに現れたのは、両腕を前に突き出して構える二メートル近い体躯たいくの人影だった。

 その手元で、金属のこすれる音がチャキリと鳴る。

 暗闇の中、月明かりに照らされた銃口が、にぶい光をまとってジンを捉えていた。

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