第5話 野生の力
「はっ、はぁ……」
激しい息をしながら、キュルルはがむしゃらに走り続けていた。
今どこにいるのかも、あの場所からどれだけ離れたのかも分からないまま、ただひたすらに走る。
だが、自分でも気づかないうちに体は限界を迎えていた。
「あっ!?」
足がもつれ、地面に手を付く余裕もないまま見事に転んでしまう。
キュルルは一瞬呆然として、遅れてやって来た痛みに顔をしかめた。
「うう……」
目の前がぼやける。打ち付けた体も、ずっと動かしていた足も痛い。だけど泣きたいほど辛いのは、どうにもならない自分の無力さだった。
いつもいつも何も出来ない。ホテルの時もそうだった。原因を作ったのは自分なのに、セルリアンと戦うみんなを残して避難するしかなかった。
今もそうだ。あんな大きなセルリアンと戦うカラカルを残して、一人だけ安全な所に逃げている。
歯を食いしばって立ち上がり、よろけそうになるのを踏みとどまって、キュルルは涙を拭う。
「早くかばんさんに伝えなきゃ……」
あのカラカルは大丈夫だと言っていたけれど、一人で戦うなんて無茶だ。かばんに大型セルリアンの事を話せば、きっと力になってくれるはずだ。
少しでも進もうと足を踏み出した時、手首に装着しているラッキービーストから声が発せられた。
「信号受信。ラッキービーストトジャパリトラクターノ接近ヲ確認」
「トラクター? 何で?」
かばんならバスを使うはずだ。それにオオセンザンコウとオオアルマジロに連れていかれた時のように、ラッキービーストに頼んで呼び寄せた覚えもない。
奇妙に思いつつ辺りを見回すと、こちらに近づいてくるトラクターが目に入った。
キュルルはトラクターに向かって手を振る。距離が縮まっていくにつれて運転席にはかばんが、その後ろからサーバルとカラカルが身を乗り出しているのが見えた。
「キュルル!」
トラクターがキュルルの手前で停まり、荷台に乗っていたカラカルが真っ先に降りて駆け寄っていく。若干遅れてサーバルも続いた。
心配そうな顔をしていたカラカルは、キュルルの顔や体についた土汚れに気付いて表情を険しくする。
「あいつになんかされたの?」
「違うよ。そこで転んだだけ」
「……本当に?」
キュルルは正直に答えたものの、カラカルは不安そうな目つきで再度訊いてしまう。二人の間に気まずい雰囲気が漂ったが、直後に運転席から降りたかばんが声をかけた。
「無事でよかった。あのカラカルは?」
よく逃げられたねと感心すると、キュルルは血相を変えて叫ぶ。
「一人で大きなセルリアンと戦ってる。助けて欲しんだ!」
「どういう事?」
ただ事ではないと察したかばんが冷静に聞き返すと、キュルルは泣き出しそうな口調でまくし立てる。
「黒くて大きなセルリアンが出たんだ。カラカルさんはぼくを逃がすために戦うって。でも他にも大きいのが追いかけて来てるみたいで……大丈夫って言ってたけど、あんなの一人じゃ無理だよ!」
キュルルから伝えられた情報は衝撃的で、かばんはしばし言葉を失った。
「なんて無茶を……」
大型セルリアンと遭遇したらまず逃げるのが基本だ。しかも黒いセルリアンともなれば、以前現れたフレンズ型セルリアンのように強力な個体である可能性が高い。それを一人で相手にするなんて無謀すぎる。
「セルリアンが出たのってどこ?」
不意に飛び込んできた声に、キュルルは一瞬驚いてしまう。質問の主はもう一人のカラカルに一番怒っていると思っていた相手だった。
「……なによ。早く教えなさいよ」
キュルルの意外そうな表情を見て取ったカラカルが唇を尖らせて、サーバルは彼女に笑いかける。
「カラカルもあの子が心配なんだね」
「セルリアンを放っておけないでしょ!」
微笑むサーバルとやたらと強い口調で答えるカラカル。いつもと変わらない様子の二人に安心し、キュルルは自分が走って来た方角を振り返る。
「あっち。森の方だよ」
キュルルが指差した先には、左右に広がる森があった。
「分かった! 任せて!」
「ちょっとサーバル!?」
サーバルが飛び出していき、少し遅れてカラカルが走り出す。
みるみる遠ざかる二人に届くよう、かばんは声を張り上げて警告する。
「気を付けて! もう一人のカラカルが戦っているセルリアンは、かなり強いと思う! 倒せないと思ったらすぐに逃げて!」
「え……」
あのセルリアンはそんなに危険なのかと、キュルルは息を呑んでかばんを見やる。
不安の面持ちをしたキュルルの肩に手を置いて、かばんは穏やかな口調で話しかける。
「あの二人なら大丈夫だよ。もう一人のカラカルもかなり強かったしね」
「うん……でも……」
今走っていったサーバルとカラカルが強いのは知っているし、もう一人のカラカルも確かに強そうだった。だけど、本当に大丈夫だろうか。
もうほとんど見えないほど離れたサーバルとカラカルを、キュルルはじっと見つめていた。
唸りを上げてセルリアンの太い触手が伸びてくる。その先端は平たい石のように広がっていて、キュルルを逃がしたカラカルに迫る。
カラカルは拳を振り、広がった部分を横殴りにして攻撃を逸らす。触手が弾かれて、先端部分が地面に当たって跳ね返った。
次の瞬間、カラカルの周囲が急に暗くなる。頭上の影に気付いた彼女が飛び下がると同時に、分厚い壁のようなセルリアンが倒れ込んだ。
のしかかりを避けたカラカルは距離を取り、荒くなった息を整える。
正面では攻撃を防がれたセルリアンが引き戻した触手をうねらせている。その反対側の肩のような部分にはもう一本同じような触手が伸びていて、そちらの先端には上下に分かれて数本の大きな爪が生えていた。
隣には体の表面に格子状の模様があり、分厚い縦型の板のような形をしたセルリアンが体を曲がりくねらせている。先ほどカラカルを押しつぶそうとした個体だ。
腕のあるセルリアンと板型のセルリアン。キュルルと話している時に気付いた森の奥から迫って来ていたのはこの二体で、どちらも先ほど倒したセルリアンと同様の黒い大型だ。
複数いる事に気付けなかったのは、腕のあるセルリアンが大きな体を跳ねさせて移動する音に紛れていたせいだった。
キュルルを逃がし、森の外にいたセルリアンを倒して、追って来る相手を迎え撃とうとしていた時、森の奥から二体の大型セルリアンが現れた時は肝を冷やした。
しかしカラカルは全く引かず、大型を二体同時に相手取っていた。
「流石にちょっとキツイわね」
セルリアンから決して目を離さず、カラカルはひとり呟く。
とにかく一体を仕留めて数を減らしたいが、片方を相手にしている間にもう一体が攻撃をしてくる。当然そちらにも注意を向けなくてはならず、こちらの攻撃が分散して決定打を与えられない。
セルリアンは二体とも健在。未だ不利な状況だが、カラカルは冷静だった。
攻撃は分散させられているが、二体に同じ程度のダメージを与えられている。一気に攻めれば二体同時に仕留められる。
これで決めてやる。戦いを終わらせるために足を踏み出した時。
「何あれ!? おっきい!」
突然声が割り込んで、カラカルは咄嗟に動きを止めた。思わず振り返りそうになったが、セルリアンから目を離す訳にいかなかった。
間もなく傍に駆け付けて来たのは、かばんの家で気絶させたはずのサーバルと、自分と同じ姿のカラカル。
「あんたたち、なんで!?」
「助けに来た!」
「キュルルに頼まれたの!」
単純明快な返答に、もう一人のカラカルは事情を悟る。
おそらく、二人はかばんと一緒にキュルルを迎えに来ていたのだろう。自分と別れた後に無事彼女たちと合流したキュルルは、誘拐犯を心配して助けを呼んでくれたのだ。
キュルルの気持ちや行動を責める事など出来はしない。だが、今相手にしているのは通常のセルリアンよりも強力な黒い個体で、しかも少々クセのある攻撃をしてくる厄介な敵だ。
腕のあるセルリアンが飛び跳ねて、縦に回転しながら三人に向かって突進してくる。
サーバルとカラカル、もう一人のカラカルが二手に分かれてセルリアンをかわす。
体当たりを外したセルリアンは回転を止め、サーバルとカラカルへ体を向けながら触手を振り下ろした。二人が飛び下がってかわすと、触手が地面に激突して重い音を立てる。
サーバルとカラカルが顔を見合わせて頷き、隙を見せたセルリアンに向かって走り出した。もう一人のカラカルも別の方向からセルリアンへ迫る。
だがセルリアンの動きは速かった。楕円型の足を固定したまま今度は体を横回転させ、その勢いで触手を持ち上げて豪快に振り回す。
「うみゃああ!?」
「なによこれ!?」
思わぬ攻撃に驚愕しつつ、サーバルとカラカルは素早くしゃがんで避ける。長い触手が頭上を何度も通り過ぎて、その度に風が巻き起こる。
大回転を納めたセルリアンがサーバルとカラカル目掛けて突進し、屈んで触手を避けていたもう一人のカラカルは焦りの表情を浮かべる。
「まずい……!」
このままだと分断される。二人に加勢しようと立ち上がった刹那、優れた聴覚が異様な物音を捉えた。
もう一人のカラカルが横へ跳んだ直後、彼女がいた場所に無数の破片のような物体が降り注ぐ。
もう一人のカラカルはサーバルとカラカルの元へ行こうとするが、その正面に板型セルリアンが躍り出る。
「くっ!」
壁になって行く手を遮るセルリアンの向こう側で、もう一体のセルリアンがサーバルとカラカルへ襲いかかろうとしていた。
セルリアンの触手がサーバルとカラカルに迫り、二人が立つ位置からやや離れた地面に先端部分が突き刺さる。狙いがてんで外れた攻撃だった。
「どこ狙ってるのよ!」
避けるまでもなかったとカラカルが余裕を見せるが、セルリアンの動きを視界に入れていたもう一人のカラカルは違った。
「逃げて!」
彼女が警告を発すると同時に、サーバルとカラカルの足元が盛り上がる。
二人が違和感を覚えた時には、もう遅かった。
「わああああ!?」
サーバルとカラカルが土塊と共に高々と宙に舞う。突然の事に訳が分からず困惑する二人は、眼下の地面が掘り返されているのと、触手を振り上げたセルリアンを目に入れた。
そして、セルリアンの狙いに気付く。先ほどの攻撃は外れたのではない。地下に触手を潜り込ませ、地面ごと自分たちを足元から放り上げるためだったのだ。
不安定な空中で何とか体勢を整える。しかし鳥のフレンズのように飛ぶ事は出来ないサーバルとカラカルに、セルリアンの触手が迫った。
爪の部分でサーバルを挟み、もう片方の触手をカラカルに巻き付ける。
捕らえられた二人は抜け出そうとしもがくが、拘束は全く緩まない。むしろ獲物を逃がすまいと力が強まっていく。
「どうしよう……このままじゃ!」
「この……! 放しなさいよ!」
セルリアンは二人の悲鳴を無視して触手を引き戻し――
そのまま体の中にしまい込んだ。
「な……」
もう一人のカラカルが絶句する。
彼女は板型セルリアンからの攻撃をしのぎつつ、向こうの様子を常に窺っていた。
サーバルとカラカルを捕らえていたセルリアンが、体に収めた触手を外に伸ばす。
その先端に、二人の姿はなかった。
ぎり、と、もう一人のカラカルが歯を軋ませる。隙を見せた彼女に、板型セルリアンが再びのしかかりを仕掛ける。
もう一人のカラカルは倒れ込むように姿勢を低くすると、両手を地面について前方へ飛び出し、セルリアンと地面に出来た隙間を潜り抜けた。
彼女は地面に激突した板型セルリアンに背を向け、四つ足の状態で駆ける。
サーバルとカラカルを体の中に納めたセルリアンへと。
もう一人のカラカルの目が虹色の光を帯びて、体から同色の輝きが溢れ出す。
二人も取り込んで味を占めたのか、セルリアンは迫るカラカルも餌食にしようと触手を伸ばした。
もう一人のカラカルは足を止めずに立ち上がり、両腕を広げるように振り抜く。
鋭い爪がセルリアンの触手を断ち切って、千切れ飛んだ部分が地面に跳ね返ってからサンドスターになって消滅した。
形勢不利と見たのか、触手が若干短くなったセルリアンが後退するような動きを見せる。
その時には、もう一人のカラカルは既に肉薄していた。
「逃がさない」
虹色の輝きを纏った腕が振るわれ、光る爪の一閃がセルリアンを切り裂く。
体に走った裂け目から崩れ、サンドスターになって砕けたセルリアンから、サーバルとカラカルが落ちてきた。
「みゃ!?」
「いたっ!?」
二人は突然の衝撃と痛みに顔をしかめる。急にやってきた解放感で外に出たのは分かったが、何が起きたのか分からない。
傍に誰かがいるのに気付き、二人は顔を上げる。そこに立つもう一人の自分を見て、カラカルは言葉を失った。
目に光を湛えたまま、もう一人のカラカルは踵を返した。未だ困惑から抜け出せないサーバルとカラカルを置き去りにして、残ったセルリアンへと向かって行く。
山なりに飛んでくる破片をかわしつつ接近し、セルリアンの背後に回り込む。相手に振り向く隙を与えず、再び爪を一閃させた。
板型セルリアンが弾け、サンドスターになって辺りに散って消えていく。
「すっごーい……」
大型セルリアンが瞬く間に倒されて、サーバルは呆気に取られてしまう。
もう一人のカラカルは、光が収まった目でサーバルとカラカルを一瞥する。
そして言葉を交わす事もなく、逃げるように森の中へ姿を消した。
呆然とするサーバルとカラカルは、彼女を追うのを忘れていた。
「助けて、くれたんだよね……?」
サーバルが首を傾げる。自分たちはセルリアンに食べられたはず。だけどこうして無事でいるのは、多分もう一人のカラカルがセルリアンを倒してくれたからだろう。
「……なんで」
「カラカル?」
傍らから聞こえた呟きを聞き逃さず、サーバルが呼びかける。
しかしカラカルはそれに答えず、もう一人の自分が消えた森を見つめ、ぽつりと言った。
「あいつ、サーバルと同じだった」
「はっ、はっ……」
足を止めると同時にふらついて、もう一人のカラカルは木に手を付いて体を支える。乱れた息を整える内に、疲労感がどっと押し寄せて来た。
キュルルを担いで長距離を走り、大型セルリアンを三体相手にして、セルリアンを倒した後は休む間もなく走り続けた。これで疲れない方がおかしい。
あの二人を撒く事は出来ただろうか。もうだいぶ離れたはずだ。
耳を澄ましてみるが、何かが近づいて来る音や気配はない。ひとまず追手の心配はなさそうだ。
木に背中を預けてズルズルと座り込む。このまましばらく動きたくない。
「……なんで、今になって」
久々に会ったサーバルのフレンズ。かばんという名前のヒトのフレンズ。自分と同じカラカルのフレンズ。そして、ヒトの子どものキュルル。
ずっと長い間、変化のない日々を過ごしていた。これからも何も変わらない毎日が続くと思っていた。
それなのに、今日だけで色んな事が起こりすぎている。未だに頭の中がぐちゃぐちゃだ。
激しかった心臓の鼓動がようやく落ち着いてきて、改めて自分がやった事を振り返る。
イエイヌから絵を奪い、はったりだったとはいえヒトを手にかけると脅して、身勝手な理由でヒトの子どもを連れ去った。
パークにヒトがいた頃だったら、来園者がセルリアンに襲われたのと同じか、それ以上に重大な問題として扱われていたに違いない。
かつての友だちや仲間たちは、今の自分を見たらなんて言うだろう。驚くだろうか。それとも怒るだろうか。
遠い目をしたカラカルの脳裏に、鮮やかな記憶が蘇る。長い時間を過ごす間に埋もれてしまって、だけど決して忘れる事などなかった大切な思い出。
ヒトがいた頃の、在りし日のジャパリパークを。
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