フレンチトースト

貝和 吾鋲

フレンチトースト

 フレンチトーストが食べたい。そう思ったのは冬の早朝だった。

 彼女がこの家を去ってから1年。すっかり一人暮らしに慣れて、最早ふとした時には彼女の存在を忘れるくらいになってしまった時のこと。

 久しぶりに彼女の夢を見たのだ。食卓を囲んで二人でフレンチトーストを食べる夢。他愛もない会話を交わしながら一人一切れ頬張る、短いような長いような、曖昧な夢だ。夢から覚めた瞬間、死ぬときは一緒だなんてほざいておきながら急に出て行った彼女を思い出して、腹が立って、寂しくなって、こうなったら一人で美味しく食べてやろうと決意したのだ。

「材料は家にあるし、早速作っちゃいましょ」

 一人で呟いて、牛乳・卵・砂糖・食パンをキッチンカウンターに集める。が、一人で食べるには量が多い気がして気付いた。

「あ、これ二人分だ」

 いつの間にか彼女の分もカウントしてしまった。何回も作らされることがあったのに一人で作ることなんて一度も無かったから、身体に染み付いてしまっているようだ。あっちはどうせ私を忘れて友人や家族と仲良くやっていると言うのに、私だけ取り残されてまたむかついた。


「まずは、卵液か」

 一人分に合わせ直した材料のうち、食パン以外の全てを適当にボウルに入れて混ぜる。

 砂糖は若干少なめ、卵白は分からなくなるまで。彼女が一々私に指図していたことを思い出した。自分はパンの耳を切るだけの簡単な仕事なのに、私には口酸っぱく言って、その度に頑固親父だなんてイラついていた。だけれどそれも今やもう無い。砂糖の量が何だ、卵白が何だ、そんなもの私が好きに決める。

 と思っていたが、失敗すると嫌なので結局何時も通りにした。卑怯な訳ではない。

「老けたな、私」

 卵液を混ぜる手を見てそう呟いた。20代の頃に比べて格段に血管が浮き出て、皺も出来ている。毎日ハンドクリームも塗っているのに、冬はカサカサだ。

 彼女の手は何時だって綺麗で瑞々しかったのに。


「食パンは……半分でいいや」

 次に食パンを耳だけ切ろうとしたが、そうすると胃がもたないと判断した。昔は一枚では足りないくらいだったのに、少し年をとったらこうだ。特に胃なんかはすぐ駄目になる。

 こういう時、彼女がいてくれたらいいななんて少しだけ思ってしまう。そうすればこのパンは一日で使い切れるのに、なんて。それとも彼女は私より食が細いから、これより中途半端に残ってしまうだろうか。

「駄目ね、何回も思い出しちゃう」

 今朝の夢があんなに衝撃的だったのか、もう忘れかけそうになっていた彼女のことを頭に思い描いてしまう。さっさとフレンチトーストを完成させて、あの女のことは忘れよう。


「今日は雨だし、中で干そうかしら」

 卵液が食パンに染みるのを待つこと20分、昨日のうちに回しておいた洗濯物を干す。一年前より約半分軽くなった洗濯物だ。最初は彼女の担当だったのに、面倒くさがりの彼女に代わって私がいつもやっていた。彼女がいなくなってカラーバリエーションも、服の種類も少なくなった気がする。私よりもセンスがあるのは認めていたから、それが影響しているのだと思う。私の服がダサいのは断じて認めないが。

「あ、この服」

 2年前に彼女が選んでくれた服が目についた。私の服がダサいのは断じて認めないが、これが一番似合うからと言って彼女が選んでくれてからはよく着ていた。だけどその一年後にはあの様で、去年は着ていなかった。今年になってようやく決心がついたからまた着始めたのだ。

「失恋のショックかしらね」

 言ってみたものの、おそらく違う。恋人だったことには何も言い返せないが、私と彼女は長い間ずっと一緒に居続けてしまった。より近いのは、家族を失った喪失感だろう。


 食パンを裏返して浸してから更に10分後。ようやく卵液がなじんだので、最後にトーストを焼くことにする。蓋をして、弱火で全体にも行きわたるようにじっくりと加熱する。一切れがぎっしり詰まっているのではなく、半分だけが真ん中でポツンと佇んでいる。今のこの部屋も同じだ。二人で住むには少し小さめのLDK、何時も二人の持ち物でいっぱいいっぱいになっていて、車のカギが行方不明になったこともある。だけど一人で暮らすには少し大きい。私の荷物だけじゃ少なく見えて、どこに何を置いてもすぐに見つかる。リビングも、ベランダも、キッチンも、二人で暮らすから不十分に見えただけで、一人では有り余っている。

「私の心とは正反対」

 老いに重ねて、孤独が増やした独り言を言う。私は自分では心が広いと思っていた。頑固で、面倒くさがりで、食が細くて、ファッションセンスは良い。彼女と暮らせているのは私のおかげだと。

 しかし本当は違った。一人暮らしになると途端に自分の弱さが露呈した。まずは家計の管理が上手くいかなくなった。食費とか、光熱費とか、家賃とか、彼女が軽々とこなしていることが上手く出来なかった。仕事の愚痴も言えなくなったし、休日どんな服を着ればいいか相談も出来なくなった。直ぐに自分にイライラして、そこでようやく心の狭い私に気付いた。

「反対だったら、どうかしら」

 彼女も自分が心の広い人間だと思って、計算ができなくて、直ぐ小言を言って、ファッションセンスのない私を生かしていると思っていたのだろうか。それで私がいなくなって自分の短所に気付くのだろうか。

 結局は同じ穴の狢だろうか。

「でも、人なんてそんなものか」

 お互いに歯車みたいに欠点凹凸だらけで、それを補い合うことでようやく生きて行ける。それに気付かないまま自分が凄いのだと自惚れて、歯車のへこんだ部分は気にしない。

 けれど、それでいいのだと思う。へこんだ部分は相手が補填してくれるから、一緒にいるうちは気付かない。そして後から焦り、自分の弱さ、相手の強さにを認識する。そういうのが人間らしさなのかもしれない。

「……あ、ひっくり返さないと」

 片方が焼けすぎると美味しくない。片方が焼けすぎなくても美味しくない。そう考えると、フレンチトーストと人間は違うなんて当たり前のことに行き着く。フレンチトーストは片方やりすぎで、片方やりなさすぎると失敗する。二つの面で平均が取れないからだ。人間は違う。人間は長所と短所、二人の能力で平均をとれば、何も問題なく生きて行ける。

「私は、もう平均は取れないわね」

 なんせ一人しかいないのだ。二で割ることはできないから平均は私一人の能力だ。それはもう欠点だらけだ。

「でも、それも案外楽しいかもしれない」

 彼女と暮らしている時間の方が、一人暮らしより十数倍長かった。これから十年もなさそうな人生は、欠点まみれのボロボロな状態で過ごすのもありだ。たった数年、チャレンジ精神で生きてゆくのもきっと楽しい。

「さて、もう焼けたかしらね」

 蓋を取って、甘さ控えめの香ばしい香りを楽しむ。きっとこれからはもう作ることもないだろうフレンチトースト。これは遅すぎるかもしれない人生の再出発祝いだ。


 これからはどうしようか、生憎もう恋人を作る気はない。そんな体力は無いし、一生分の愛情は彼女に注ぎ切った。だからもう彼女を愛する気はないのだ。やることはやったのだから。

「天国にでも行けば、愛情もまた復活するかもね」

 一人笑いながら、リビングの隅を見る。貴方はどう?なんて写真には聞くことができない。死人にも写真にも口は無し。だから彼女が私と話すこともフレンチトーストを味わうことももう無い。

 享年84歳、死因は胃癌だった彼女は、新しい人生を迎えようとする83歳の私にエールを送ることも無いのだ。

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