四 : 思いと思い(4)-光秀の苦悩

 七日朝。天王寺砦を十重二十重と囲む門徒勢だが、俄かに慌ただしくなった。この時、若江城を出撃した信長率いる織田勢が門徒勢を急襲していたが、門徒勢の包囲が厚く砦の外に人を派遣するのは難しく、光秀は当初何が起きているか分からなかった。その後、櫓から見張りをしていた兵から味方が救援に来たと伝えられ、砦内は大いに沸き立った。

(あの、上様が……)

 御味方、救援の報に接した光秀は、喜びと同時に驚きを感じていた。

 元号が天正に変わってから、上様は戦に出る事が少なくなった。戦に出るのは雌雄しゆうを決する大戦か、全ての総仕上げとなる戦か。どちらも出来得る限り命の危険を排除した上での出陣だった。大将が自らの命を惜しむことを、間違っているとか怖気おじけづいていると光秀は決して思わない。大将が討たれれば他の全ての者が生存していても大敗北だ。その代表例が上様の名を一躍知らしめることとなった桶狭間の戦いである。

 尾張へ侵攻してきた今川勢に織田方は多くの将兵が命を落とし、織田家の命運は風前の灯も同然だった。座して死を待つより一矢報いると出撃した上様は、桶狭間で休止していた今川本陣を急襲。今川方が圧倒的優位で事を運んでいたが、総大将今川義元が討たれた今川勢は取るものも取り敢えず逃げていった。織田方の損害は大きかったが、世間一般の評価は織田方の大勝と捉えるのが今では定説となっている。大将が敵に討たれれば、どんなに勝勢だったとしても全て水泡に帰してしまうのだ。

 だからこそ、光秀は上様による救援が来ない事も覚悟していた。自らの出陣に見合うだけの対価が見込めないと判断すれば、例え窮地にある味方も上様は容赦なく見捨てる。助けに行って敵に討たれる事となれば元も子もないからだ。十重二十重と取り囲まれている天王寺砦の将兵三千の命が助けるに値するか、光秀に判断がつかなかった。必死に戦ってくれる将兵達に「もしかしたら助けが来ないかも知れない」とは口が裂けても言えず、光秀は一人胸の内に秘めて苦しい思いをしていた。

 それが今、上様は我々を救う為に戦ってくれている。光秀はとても感激していた。

「弥平次!」

「はっ!!」

 光秀が弥平次を呼ぶと、すぐに駆けつけてきた。

「急ぎ、打って出る支度を整えさせよ。外の味方と合わせ、敵を挟み撃ちにするのだ」

「承知!!」

 下知を受けた弥平次が直ちに下がっていく。直後、「今まで好き勝手やられた分をやり返す時が来たぞ!!」と将兵を鼓舞する弥平次の声が聞こえてきた。

「駿河守殿。貴殿は搦手からめてより打って出て下さい。弥平次の申す通り、存分に暴れて下され」

「心得ました!!」

 この三日間、苦しい戦いを強いられてきた信栄にも希望が見えたのか、少しだけ表情が明るくなった。「支度がありますのでこれにて」と一言断りを入れ、信栄は足早に自分の持ち場に戻っていった。

 砦内で反撃の準備が着々と進んでいく中、将兵達にも活気が戻ってきた。その騒々しさも光秀にとって心地よく感じられたのは、未来への展望が見えてきたからか。

 将兵達の様子を見て回っていた光秀が向かったのは、櫓の上。敵に見つからないよう注意を払いながら上がると、眼下に見える門徒勢は明らかに浮足立っているのが分かった。遠くに目を移せば、砂煙が上がり微かに喊声も聞こえてくる。

 と、その時。門徒勢の一角に陣取っていた手勢が本願寺のある北の方角に移動を始めた。まだ織田の軍勢とは距離があるが、形勢の悪い状況でその場に留まれば難が及ぶ恐れがあるので早めに手を打った……と光秀は推測した。その判断は正しい。しかし、何とか食い止めようと味方が懸命に戦っている中で、後方の手勢が助太刀するのではなく離脱すると知れば、自分達は見捨てられたと解釈して戦意を喪失させてしまう可能性が極めて高い。最前線の将兵に与える悪影響は甚大だ。そして、それは天王寺砦を囲んでいる兵も同様だ。

「弥平次を呼べ!」

 梯子を下りた光秀が開口一番に弥平次を呼ぶ。程なくして弥平次が息を切らして現れた。

「お呼びでしょうか?」

「兵達の支度はどうなっている」

「もうじき、整うかと。いかがされましたか?」

「敵の一部に中抜けの動きが出ている。眼前の敵もさぞ動揺していることだろう。この機を逃さず、一気に叩く。この旨、駿河守殿にもお伝えせよ」

「承知仕りました!」

 弥平次が近くに控えていた近習に目配せすると、すぐに信栄の元へ走っていった。その姿を見届けた光秀は再び櫓に上る。

 先程と比べて喊声は大きくなり、味方の幟旗も見えるようになった。徐々にではあるが、味方が近付いているのが分かる。一方、眼前の門徒勢は動揺が全体に波及しつつあった。砦攻めの命令もなく、後方から喊声や銃声が聞こえてくるのは、さぞ肝が冷える思いをしていることだろう。

 光秀が櫓から下りると、控えていた弥平次が言った。

「申し上げます。駿河守様より万事支度整ったと報せが入りました。我等の方も万端整いましてございます。殿の御下知があれば、いつでも出れます」

「相分かった。馬の用意を」

 その足で正門に向かうと、既に明智の将兵達が集結しており、大将である光秀の命令を待っていた。皆、一様に表情が活き活きと輝いて見える。

 一人一人の顔を確かめた光秀は、弥平次を呼び寄せた。

「鉄砲衆は門が開くと同時に、門徒勢へ撃ち込め。撃ち終わり次第、速やかに道を空けて騎馬・徒士の者達は全員突撃せよ。弓衆は塀際に並んで味方を援護するように。それと、空になった砦を狙う輩が居ないとも限らない。近付いて来る者は容赦せず鉛弾と弓矢で存分に馳走ちそう致せ。皆にそう伝えてくれ」

「畏まりました!」

 光秀の指示を受けた弥平次が一礼すると速やかに下がっていった。程なくして、門の前に二列で並んだ鉄砲衆が準備に入る。

 やがて、鉄砲衆の組頭が弥平次に目で準備完了の合図があった。光秀も曳かれてきた馬に跨ると、手にした采配を上に大きく掲げる。

「さぁ!! 上様をお迎え奉るぞ!!」

 光秀が大声で宣言すると、門前に控えていた兵が固く閉ざされていた門を開ける。全て開ききったと同時に、二列に並んでいた鉄砲衆の鉄砲が一斉に火を噴いた。

「突撃―!!」

 光秀が采配を振り下ろすと、高らかに法螺貝が鳴らされる。それを合図に明智勢が勢いよく砦の外へ飛び出していく。

 三倍以上の数で圧倒していた門徒勢だったが、若江城を出撃した織田勢の急襲で完全に後手に回り、さらに味方の一部に撤退の動きが出た事でその流れに拍車を掛けた。砦を囲む門徒勢の間で気持ちに揺らぎが出始めた時、籠城していた織田方が外の動きに呼応する形で突如反撃に転じたことで、戦場の空気は一気に織田方へ傾いた。中には勇敢に立ち向かおうとする者も居たが、大半の兵は武器を捨てて逃げ出した。門徒勢の多くが百姓などの志願兵であり、真宗の教えで結び付いているだけで恐怖に支配されると我が身大事さで戦う事を放棄するのも無理はなかった。

 挟み撃ちになる事を恐れた門徒勢は我先に逃れようと局地的に同士討ちが発生する程に混乱をきたしており、この状況に立て直しは困難と判断した門徒勢の大将・下間頼廉は撤退を決断。天王寺から追い立てられるように戦線から離脱していった。

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