第13話 WWW(ワールド・ワイド・ワンコ) ※ただし、人面犬 ②

 店の準備を終え、祖父と修司さんに業務を引き継ぎ、ようやく仕事から解放される。

 休憩室で私服に着替え、裏口から店を出ると塀の影からぬるりと小さな影が姿を現した。


「やあ、浩輔くん。もういいのかい?」


 銀助さんは後ろ足ですくりと立ち上がり、壁に前足をつきながら尋ねてきた。そんな珍妙な姿にリアクションを取らないように我慢し、営業用の立ち振る舞いを意識しないがら、銀助さんへと向き合うことにした。


「お待たせしてすいませんでした」

「待ってはないよ。私も今来たところだよ」


 そんな待ち合わせでかける常套句じょうとうくを言われても戸惑ってしまう。待たせたのはたしかに俺だけれど、押しかけてきて勝手に待っていたのは銀助さんの方なのだ。


「それでは行こうか、浩輔くん」

「……はい」


 銀助さんは前足を地面に下ろし、歩き始めたので、遅れないように付いて行く。銀助さんの歩く後ろ姿を眺めていると、柴犬独特のずんぐりとしたフォルムとその中でくびれた腰回りにどこか頼りなさを感じ、藍子さんに付いて来てもらえばよかったかなと早くも後悔し始めてしまう。

 はたから見れば、散歩中の犬と飼い主にしか見えない俺と銀助さんは何度か表通りに出ながらも裏路地を中心に歩き続けた。普段なら不安で仕方のない場所を歩いているはずなのに、はぐれないように銀助さんのとことこ歩く姿を追い続けているだけで不安になるということ自体がバカバカしく思え、不思議と冷静でいられた。

 顔を上げずに歩いていたので、どこをどう通って来たのかは分からないまま、銀助さんが足を止めた場所で顔を上げると、そこには雑居ビルがあった。明かりもついていないビルの中へと入っていき、ある部屋の扉を銀助さんは前足で何度か軽く叩いた。すると扉は内側からゆっくりと開いた。わずかに開いた扉の隙間からつぶらな大きな目をした女性が顔をのぞかせ、俺と銀助さんの姿を確認する。


「やあ、咲々乃ささの。今日もかわいいね」

「銀助さんでしたか。いらっしゃいませ」


 咲々乃さんは扉を開け、頭を下げた。頭を上げると俺の顔を真っ直ぐに見つめ、顔を寄せてすんすんと匂いを嗅いできた。


「それでこちらの方は? 人間のようでもありますが――」


 咲々乃さんは敵意にも似た視線を俺に向けてくる。


「彼は大丈夫だよ。いさか屋という喫茶店の当代の店長だよ」

「その喫茶店のお名前と噂はかねがね。そうでしたか、これは失礼いたしました」


 咲々乃さんは表情を緩め、「ようこそ、いらっしゃいました」と俺に向かって謝罪の意も込めて、深々と頭を下げた。頭をあげると咲々乃さんは「こちらへどうぞ」と衝立障子ついたてしょうじで区切られた向こう側へと案内してくれた。衝立障子の向こう側は隣の部屋へと続いていて、そこにはバーがあった。

 そして、俺はそのバーに集まっていた客を見て思わず言葉を失ってしまい、入り口で立ち尽くしてしまった。


「ちょうどカウンターが空いているな。浩輔くん、あそこに座ろう」


 足元で銀助さんがカウンターを前足で指し示し、それから俺をエスコートするように前を歩いてくれる。先にカウンター席に腰かけると、隣の椅子に銀助さんが飛び乗り腰を下ろした。


「いらっしゃいませ」


 俺と銀助さんの前に二十代半ばくらいの男性バーテンダーが立ち、水の入ったコップとお手拭きを置いてくれる。俺にはさらにメニューをそっと差し出してくれた。


楠葉くすは、私はいつものを頼むよ」

「かしこまりました。お連れ様はどういたしますか?」


 楠葉さんに促され、メニューに目を落とす。カクテルには詳しくはないので、


「白ワインでお願いします」


 と、目に入ったものを注文した。隣に座る銀助さんはカウンターに前足をついて、頬杖をついてリラックスしているようだった。俺は慣れない店で落ち着かず、視線をカウンター奥に並ぶ、ウィスキーやリキュールのラベルに彷徨わせた。喫茶『いさか屋』ではカウンター奥の棚にはアンティークのカップを飾っていて、夜の営業になるとカウンターテーブルには酒が並ぶといった感じなので全く異なる光景にどこか物珍しさを感じ、その当たり前だけどちょっとした違いが面白く思えた。

 耳をすませば、聞き馴染みのないハードテンポな音楽が掛かっていて、きっとこのバーは落ち着いた空間を提供するというよりは気楽に楽しむことを目的にしているのかもしれない。


「マティーニと白ワインになります」


 楠葉さんがそっと俺と銀助さんの前に飲み物を置いた。そして、楠葉さんは銀助さんと目を合わせると一礼をして、すっと離れた。


「浩輔くん、約束通りここは私のおごりだよ。とりあえず、乾杯しようか」

「ありがとうございます。それでは、いただきます」


 銀助さんが前足でショートグラスを軽く傾けるので、そこに軽く自分のワイングラスを当てて乾杯をし、ひとくち飲むと爽やかな酸味のあとにふわりと甘い風味が残り、そのおいしさについ頬が緩んでしまう。そのままワインをじっと見つめながら、このワインに合う料理はなんだろうと考えてしまう。


「浩輔くん、難しい顔をしているけれど口に合わなかったのなら変えてもらうかい?」

「いえ、美味しかったのでつい考え事を」

「それなら、帰りに楠葉にワインの銘柄でも聞いていくといい」

「そうさせてもらいます」


 銀助さんに軽く頭を下げると、前足をあげてそんな他人行儀に気を遣わなくていいと無言で制せられた。銀助さんは前足を器用に使い、マティーニに口をつけていた。


「浩輔くん。このバーはどうだい?」

「慣れない店なので緊張していますが、他のお客さんがリラックスして楽しそうで、いい店なんだなと思います」

「私もそう思うよ。ここはね、あやかし――その中でも犬にゆかりのあるものが中心に集まってくるところなんだよ。かくいう、私は人面犬で咲々乃と楠葉はたぬきの妖怪だよ」

「咲々乃さんの態度を見て、そういうところなのかなとは思っていました」

「咲々乃のこと悪く思わないでくれよ。咲々乃もこの場所とコミュニティを守るために必死なだけなんだ」

「ええ、分かっています」


 銀助さんはふっと笑みを浮かべ、マティーニに前足を伸ばした。それに合わせるように自分もワインに手を伸ばし、口をつける。やはり香りも味も自分には合っているのかおいしく感じられた。

 銀助さんに視線を戻すと、真面目で険しい表情をしていて、さっきまでの柔らかな雰囲気はなくなっていた。


「それじゃあ、浩輔くん。本題といこうか」


 銀助さんはそう切り出してきた。その何とも言えない緊張感に無意識に背筋を伸ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る