第5話 脳内転送 その4
「でも、脳内転送が間に合ったみたいだね。良かった……本当に良かった」
見上げると、医師は額の汗を拭きながら、安堵したように、白い歯を覗かせた。
騒がしく脈打つ心音は、立った耳でも捉えられるほど大きかった。それに呼応するように鼻息を荒くしていたが、冷静さを取り戻すに従い、徐々にテンポを落とす。ヒクヒクと動く鼻先に連動して、ピンと伸びたヒゲが視界の端で揺れていた。前足を伸ばして、耳を触る。
私……猫になったのか……。
「未練があるのは理解しますが、どこかで断ち切らないといけないですよ」
そ、そうよね……もう、猫なのだから……。私は、猫として生きて行かないといけないんだ……この体を提供してくれたコのためにも。
ただ、これからの生活を想像すると、どうしても確保しておきたいものがあった。
「にやあぁん」
私は、死体となった元の体の腰の辺りをまさぐった。確か、ポケットにスマートフォンを入れていたと思う。
「何? なんだい? 探し物かい?」
医師は、私の思いを汲み取ってくれたのか、死体のポケットの中を探してくれた。
「ああ、あった、あった。これか。これが欲しかったんだね」
医師は探り当てた袋の中から一本取り出して、私の口にあてがってくる。
唾液腺を刺激する、かぐわしい香り……。
「ほら、食いなさい。キミは、あたりめが好物なんだね。ほら、食いなさい。ほら、ほら」
「にゃ、にゃーあん!」(ち、ちがーう!)
この人は、何を言ってるの?
まさか、天然じゃないよね?
ひょっとして、ボケている?
このシチュエーションで、私が、ポケットのあたりめを探していたわけがないじゃない!
もう一度、死体に擦り寄って「にゃあん」と鳴くと、ようやく医師が間違いに気付いた。そして、死体からスマートフォンを抜き取って、私の着ている服の背中についている大きなポケットに、それを押し込んでくれる。
「そうか、スマホだったか……。役に立つのかどうかわからないけど、スマホがあると、安心感は増すもんね。どうか、この先も生き抜いて、また、気が向いたら、顔でも見せてくれないかな」
医師はそう言いながら、あたりめの袋に輪ゴムを巻き、それも背中のポケットに押し込んだ。
あ、あたりめも入れてくれた!?
な、なんていい人なの!
女心がわかってるじゃない!
医師は瞳を潤ませて、私の額のたるんだ肉を、ワシワシと撫でてくれる。
(ありがとう。私は、行くわ。猫として、第二の人生……いや、猫生を大切に生きて行くわ)
おでこを合わせていないから、この思いが伝わったかどうかはわからないけど、私は、頭の中で、思いの丈を医師にぶつけて、病室の出口に向かう。
「ああ、そうそう。それは、わたしからのプレゼントだから」
振り返ると、医師が誇らしげな顔をして、仁王立ちしていた。私は何のことかわからず、首を捻る。
「それ。キミの着ているその服だよ。なかなか可愛らしいだろ?」
私は、自身の格好を確認した。ジャマイカ柄のセーターを着ている……。
「さっきも言ったけど、いきなり全裸で生活するのは恥ずかしいでしょ? わたしの心遣いだけど、礼とかはいらないからね」
こ、この人、なんて気遣いが出来る人なの……。
私は、もう一度、自分の着ている服を確認した。
……っていうか、お尻は丸見えじゃない! 片手落ちだわ!
「じゃあ、気をつけてね。猫の世界で生きて行くのも大変だと思うけど、キミは器量よしだし、きっとどこかの人に可愛がってもらえると思うよ。お尻もかわいいし」
やだ、見ないで! キャー。
猫として再誕、須藤沙羅。心機一転、気持ちも新たに、病室を駆け出した。
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