第6話 飼い猫になりたい その1

 病院を出ると、夜も更けていた。


 小洒落たショップが立ち並んで、昼間は若者で賑わっている街なのに、人はまばらにしかいない。

 でも、閑散としていたことは、却って好都合だった。医師にあんなふうに言われてから、スースーするお尻が気になって仕方がない。誰かにお尻を見られていると思うと、恥ずかしくて、歩けなくなるところだった。


 私は、ビールケースが積まれた路地裏に身を潜め、背中のスマートフォンを咥えて、ポケットから引き抜いた。


 スマートフォン……。猫でも役立つかしら……。


 見上げると、ビルに挟まれて細長い夜空だったけど、幸運にも、その中に丸い月が浮かんでいた。だから、街路灯が無くても、路地裏は意外と明るい。


 とはいえ、野宿なんて、イヤ。住むところを見つけないと。誰か、私を飼ってくれないかしら……。野良猫になんか、なりたくない。


 猫になった私は、一斗缶の上に置いたスマートフォンをタップする。


 おっ、肉球でもわりと違和感なく、反応するじゃん。


 ひとまず安心して、あたりめを一本、口に入れた。ガシガシと噛むほどに味が染み出す。

 エッ!? クソうまいんですけど。

 味覚が変わったのか、猫になって、さらに、あたりめが美味しくなった気がした。


 咀嚼音をたてながら画面をスワイプする。と、最新の着信履歴に、会社の後輩である青木君の番号があった。すぐに折り返したいところだけど、猫なので、音声通話はできない。

 仕方なく、メッセージを打つことにして、文字をタップする。反応は良く、パパパと文字が並んだ。

 ただ、肉球が大きすぎて、正確に打てていない。思った文字に変換するのに、何度もやり直した。

 何分ぐらい、かかったんだろう。


『元気?』


 そう打ち込んだところで、思うようにメッセージを打ち込めないイライラがピークに達して、その三文字だけを送信した。

 疲れ果ててしまっていた。長い溜息をつき、月の出ている夜空を見上げた。


 綺麗だなぁ、満月かなぁ。


 そういえば、もうすぐスーパームーンだって、ニュースでやっていたっけ。それで、こんなに大きく見えるんだ。月と地球が、一年で最も近づいているのね、今。


 地球に近づいたり、離れたりする楕円軌道を回る月。

 でも、決してぶつからない。宇宙の神秘だね……


 なんて物思いにふけっていると、本題を思い出す。


 それはそうと、住むところを探さないと。


 保護猫を紹介するサイトや、猫好きが情報交換するサイトなどを巡る。すると、想像以上に、世の中には、猫好きが多いということを知り、一筋の光明が差した。これなら、すぐに、私を飼ってくれる人が見つかるはず。

 猫を飼いたいと考えている人たちに、どうやってアプローチしようかと、頭を悩ました。


 しゃべれないから、打つのに時間はかかるけど、サイトに投稿するしかないわよね……。それで、どんなふうに、投稿すればいいんだろう。


 猫、譲ります……いや、誰から? ってなるわよね。

 私は、猫。私を飼ってください……いやいや、信じるわけないか。

 じゃあ、他には? うーん……。


 いくら考えても、良い解が見つからず、どんよりと落ち込んだ。

 仕方なく諦めて、スマートフォンを背中に戻す。

 ビールケースにもたれて、なおも味が出続けるあたりめを噛んだ。

 乾燥していたはずのイカは、唾液の水分を得て、弾力を取り戻していた。


 鼻孔の奥を刺激してくる匂いは、噛めば噛むほど強くなっている。

 静寂の中、クチャクチャとはむ音だけが、ビルのはざまにこだました。


 これから、どうしたものか……困ったなぁ……。なにせ、一人でキャンプすらしたこと無いんだから、野宿なんて絶対に無理。できない……っていうか、したくないし。


 やっぱり、飼い猫になって、安定した生活がしたいな……。誰か飼ってくれないかな。


 見えない未来の不安に苛まれていると、視界の端で、青白い光が、二粒、キラリと光った。考えごとをしていて、気づかなかったけど、闇の中をすぐ近くにまで、何かが迫ってきている。


 ま、まずい……。


 路地の奥に目を凝らす。


 げっ!


 暗闇の中から、いかついサバトラ柄の猫が顔を出した。

 片目は潰れかけていて、耳も破れて、百戦錬磨の風貌である。私なんかよりも、一回りも、二回りも大きいそいつが、のしのしと近づいてきた。


「ぎゃおぅーん」


 猫の鳴き声だったかもしれないけど、私の脳内には、はっきりとそう聴こえた。

 堂々として貫録のある歩き方から察するに、この辺りを支配するボスなのだろう。


 あたりめは美味しいけど、この状況はまずい……。けど、怖くて体が動かない。


(ごめんなさい。ここは、あなたの縄張りだった? すぐに出ていくから、許してくれない?)


 念じてみるけど、サバトラ柄のボスは、何も感じていないようだった。舌なめずりをして、品定めをするように、ギラつく目を動かしている。


「がるるる……」

 こ、こいつはひょっとして、女としての私を狙っているの!?

(お願い! 見逃して!)

 念じてみるけど、やっぱり効果はゼロ。


 さあ、どうしよう。もはや、神に祈るしかないわよね。


 私は、目を閉じて、これまでよりも強く念じる。

(神様、助けて! お願い!)

 あれ? どこかで、同じような体験をした? これって、デジャブ?



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