第2話 脳内転送(のうないてんそう) その1
酸素マスクを着けられた私、
悔しくないかって言われれば、悔しい。だって、昨日まで、こんなふうになるなんて、想像すらしていなかったんだから。
ただ、なぜか、心残りはあっても、誰かを憎むような感情は、湧いてこなかった。身体中を十か所以上も刺されたんだから、普通は、襲ってきた人を恨むのでしょうが、そういった感情がまるで無い。
なぜかと言えば、顔がはっきりと見えなかったからかもしれないし、顔を見たとしても、そんな感情は生まれなかったかもしれないし、そもそも見たくなくて顔を背けちゃったからなのかもしれない。そのうちのどれかも、きっと原因の一部なのだろうけど、それよりも、恋人を失って、生きる希望をすっかり失っていたことの方が大きい。
「にゃあ。にゃあ」
猫の鳴き声が聴こえる。
この病室に、野良猫が入ってきたの? まさか、この病院は最先端の医療をする総合病院のはず。そんなにセキュリティが甘いわけがない。そんなこと、ありえないわよね……。
「にゃあぁ」
やっぱり、聴こえる。空耳なんかじゃない。近くに、猫がいるわ。
国立医療センターは、都心にあった。国費を存分に投入したこの病院は、次々に画期的な医療技術を確立し、その実績は、医療革新と呼ばれて、喝采を浴びている。海外からの注目も高く、まさに、日本のフラッグシップに位置付けられている病院だった。
私は、酸素ボンベに繋がれて、強制的に呼吸をさせられているうち、わずかに瞼を持ち上げることが出来た。ぼんやりと病室の景色が見えてくる。
「にゃあ」
猫の鳴き声のする方に視線を向けると、止血処置を施してくれていた年配の医師が、背中を丸めてパイプ椅子に座っていた。銀縁眼鏡を持ち上げ、目頭を指で押さえている。もはや、これ以上、手の施しようがないのだろう。
私の方は、とっくに諦めているんだから、そんなに落ち込まないでって言いたかったけど、麻酔のせいなのか、口が動かない。
「にゃあ。にゃあぁ」
医師はため息を一つつくと、足元にいた黒猫を抱き上げて、膝の上にのせた。
「にゃおーん」
慣れた手つきで、頭を撫でている。
その黒猫は、ジャマイカ国旗のようなボーダー柄のセーターを着せられていた。服のセンスは微妙だけど、そんなのを着せられているということは、この医師の飼い猫なのかもしれない。猫は、八割れの愛くるしい顔をしていた。
瞳も大きくて、なかなかの美人さんじゃない。……って、そんなの、どうでもいいことなんだけど……。
私は、二十五歳――思い返せば、短かったけど、満足のいく人生だった。幼い頃からずっと人気者で、高校時代の私は、クラス中の誰とでも仲良くできた。男子の友達も多くて、その内の何人かからは告白もされたっけ。
クラス一のイケメンに告白された時の私は……と、思い出に浸ろうとしていたら、にょきっと医師が顔を出した。
「須藤沙羅さん、起きましたか?」
アニメに出てくる、発明が得意な博士のような顔をした医師が私の名前を呼んだ。よく見ると、この年配の医師、どこかで見た覚えがある。たしか、何年か前に、よくテレビに出演していた。
何かの、世界的権威だとかで紹介されてなかったっけ? それで、知り合いの誰かのお父さんだったような気がするんだけど。
私の視界の中心にいるその医師が、眼鏡の眉間を上げる。
「見えていますか? きこえますか? 意思表示が出来ますか?」
矢継ぎ早に質問をしてきた。私は、力を込めるが、アゴを少し引くことすら出来ない。
ちょっとパニックになって、もがこうとしてみるけど、身体はどこも動かない。
すると、伝えられない悲しさが涙腺を刺激して、瞳に潤いを与えた。
「ん? どうしたの? 何か言いたいのかな?」
深いしわの入った医師の顔が歪む……。それを眺めていると、ふと、意思を伝えられるかもしれない、ある方法を試してみようと閃いた。
瞳孔に意識を集中させて、銀縁眼鏡の向こうにある医師の目を突きさすように見る。
私の意図を汲み取ろうとしてくれているようで、医師の顔が、じわじわと近づいてきた。
そう……。そうよ、そう。もっと近くに来て。私の心の声を聴いて。
医師は一度首を捻ったが、私がしゃべれないと分かると、私の前髪を上げ、年相応の広いおでこを重ねてくる。
そう、それでいい。
(聴こえますか? 私の声が、聴こえないですか?)
聴こえて、お願い。私の心の声を。
医師のおでこは、私のおでこと、ぴったりとくっついた。
(ねぇ、聴こえていますか? 私が生きているうちに、してほしいことがあるの。私の望みを叶えてほしいの)
医師の動きが止まる。
「うんうん、いいねぇ。まだ、意識はあるんだね。キミの想いがぐんぐん伝わってくるよ」
や、やった! 聴こえたのね!?
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