at 11:30 p.m.

 情勢のせいなのだろうが、ここ最近、夜遅くまでバーが賑わっていることは少ない。それでも何人かは日付が変わるまで残っているのが常だったが、今夜は真夜中にならないうちに一人の客もいなくなった。

 バーの営業は午前三時までだ。この後からやって来る客がいるか分からないが、店は開けておくことになる。

 私はオーナーの指示で一昔前の流行歌を弾いていた。

「今日は暇だな、ノーヴェ。まあ、今日に限らず、食料が配給制になって以来、客足は遠のく一方だが。みんな、娯楽を求める気分じゃないんだろう。とはいえ、この店では酒が飲めるし、音楽も聞ける。状況を思えば、ここはいい場所だよな?」

 オーナーは私に問いかけるような話し方をしているが、返事を求めているのではない。私に声を出す機能はないのだ。

 私は演奏を続けた。オーナーのリクエストは尽きることがない。

「じゃあ、次の曲は――」

 突然、轟音とともに強烈な衝撃が私たちを襲った。思わず立ち上がったが、視界が激しく揺れ、立っていることができる状態ではなかった。私はバランスを崩して床を転がった。その拍子に、頭上の様子が見えた。天井が崩れ落ちてきていた。

 気がつくと、周囲の大部分は瓦礫に埋まっていた。

「ノーヴェ、無事か?」

 どこにいるのか分からないが、オーナーの声が聞こえた。私は運よくピアノの下に入ることができたようで、一応は無事だった。ピアノ自体も、大量の粉塵を被ったものの、破損はしていないようだった。

 ピアノの下から這い出そうとして、右腕の肘から先がなくなっていることに気がついた。瓦礫に潰されてしまったらしい。何とか立ち上がり、鍵盤を鳴らして、オーナーに私がまだ停止していないことを知らせた。

「よかった。たぶん直撃弾だ。まだ生きているだけ運がいいが、いつ次が来るか分からない。地下室に避難したいところだが、埋まったよな……」

 私はオーナーの姿を探した。ふと顔を上に向けると、半分ほど崩れた天井の隙間から夜空が見えた。いつ残りの部分が崩れても不思議ではない。

「お前だけでも早く避難しろ、ノーヴェ。近くの無事な建物の地下室に行け」

 ようやく見つけたオーナーは、胸から下が瓦礫に埋もれてしまっていた。自力で出られるはずがなく、私にも助け出すことは不可能だった。

 オーナーは私に避難するように言った。その指示を守ることが正しいのかも知れない。だが、私は既に取り返しのつかない損傷を負っている。隻腕の演奏ロボットに弾くことのできる曲など登録されていない。片手だけで弾くための曲も、世の中には存在するというのに、残念なことだ。

 こうなった以上、私自身のことなどどうでもいいが、オーナーを見捨てる訳にはいかない。私は左手で簡単な旋律を弾いた。私はここにいる。あなたとともに。

「何のつもりだ、ノーヴェ?」

 私は弾き続けた。意思も感情も心もなく、言葉さえ持たない私が何かを伝えるには、ピアノを弾くほかない。オーナーのお気に入り、ベートーヴェンの『悲愴』、その第二楽章を、片手で可能な限り。それはぎこちなく、たどたどしい演奏だった。

「お前はまだ助かる。こんなところに留まらないで、早く行け」

 オーナーの声は次第に弱々しくなっていく。もう喋る気力もなく、その命は風前の灯だった。もうすぐ、オーナーは死んでしまう。その死を遠ざけるためにできることはない。

 長い時を共に過ごした相手の最期に立ち会うのは、これが最初で最後だ。私には何をするべきか分からない。ただただ、思考回路の乱れが酷くなるばかりだった。正常にものを考えることができない。

 私に何が起こっているのか、ふと、合点がいった。私は悲しいのだ。これが感情なのか、感情らしきものを再現しているだけなのか、それは分からない。分かりたくもない。

 私はピアノを弾く手を止めた。オーナーは目を閉じて、弱々しく呼吸していた。

「最期に、お前の曲を聞かせてくれよ、ノーヴェ……」

 小さな声だったが、私には確かに聞こえた。オーナーの望みは、私の人生を象徴する曲。まだ私には分からない。いつか分かるときが来ると信じていたかったが、オーナーにも私にも、もう時間がない。今ここで、自分なりの答えを出すしかない。

 私は決意を胸に、弾き始めた。ラフマニノフのヴォカリーズ。主旋律だけを左手で弾いた。この曲は言葉によらない歌唱。私はピアノを通じて歌った。終わりゆく人生、消え去る命のために。

 これは誰の演奏を再現したものでもない。オーナーを置き去りにできず、その命令にすら背いた私は、もはや完全に壊れていた。本来の性能によるものとは比べるべくもない拙い演奏が、オーナーが最期に耳にする音楽となった。私は忸怩たる思いに駆られながら、最後まで弾き通した。

 オーナーは満足そうな微笑を浮かべて、事切れていた。

 私は動けなかった。涙を流すことすらできない機械の身が恨めしかった。

 次なる直撃弾が飛来することはなかったが、空が白み始めた頃、崩れかけていた天井が限界を迎えた。私たちを押し潰すことになる瓦礫の山を見上げて、ロボットにも救いは訪れるのだと、私は思った。


  *


 目を覚ますと、私はピアノの前に座っていた。周囲は眩いばかりの光に溢れ、ここがどこなのかは分からない。遠くに大きな門が見え、その門を目指して歩いていく人々の列があった。

 この光景は何だ。私は――

「死んだはずだ。いや、壊れたと言うべきか」

「違えるな。お前は死んだ」

 声が聞こえて振り返ると、フードを目深に被った人物が立っていた。

「生あるものだけが死を経験し、やがて安息へと行き着く。最期の瞬間、お前は間違いなく生きていた。だが、今のお前には門をくぐる資格がない」

「それがどうしたと言うのか、理解できない。どのような言葉を用いたとしても、私の死とは、修復不能の破損だ。その先などあるはずがない」

 フードの人物はピアノを指さした。

「門をくぐることを望むなら、弾け。弾き続けろ。お前の精神、魂を証明しろ」

「そんなものは存在しない。それに、私に望みはない。オーナーが死んでしまった今、ピアノを弾く理由はない。結局のところ、私はあの人のために演奏していたんだ」

「再会が叶うとすれば、門の先だ。私から伝えることは、もうない。ここで朽ち果てるのも、お前の自由だ。この先は好きにするといい」

 言い終えると、フードの人物は初めから存在しなかったかのように、私の視界から消えた。

 私は自らの両手を見下ろし、問題なく動くことを確かめた。それから、鍵盤に指を触れた。適当にアルペジオを奏でた。かつて私が弾くことのできた曲の数々を思い浮かべ、それを可能にしていた再現演奏の機能が完全に失われていることに気づいた。

 私は今、自由にピアノを弾くことができる。

 自由を得て新たな望みを持つことが許されるなら、私はもう一度オーナーに会いたい。


 再現の機能がなくなったことで、技量の点では著しく劣化したとも言える。まずは練習曲から始めるべきだろうか。いいや、目標は決まっている。

 私は弾き始めた。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番『悲愴』、その第二楽章。オーナーのお気に入りだ。

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あれは君のための歌 梨本モカ @apricot_sheep

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