at 10:25 a.m.
カフェの営業は午前十一時から始まる。その時刻まで三十分ほど。私は指示された曲を弾き、オーナーは店内の掃除をしている。
イン・ザ・ムード。ジャズの数ある名曲の一つ。
オーナーは楽しそうだった。以前には何人かいた店員は、今や一人もいない。しかし、一人で店の仕事を全て担わなければならなくなっても、オーナーが疲れた様子を見せたことはない。
開店と同時に、家族連れが訪れた。カフェの常連客で、両親がまだ幼い娘を連れている。
「いらっしゃい。二人とも、いつものコーヒーでいいかい? 運がいいな、まだ在庫がある。お嬢ちゃんはオレンジジュースだったね」
「いえ、あの、今日は挨拶に伺ったんです」
父親は妻の肩を抱き、娘の手を握っていた。
「……ああ。避難することにしたのか」
「ええ。僕ら夫婦だけならともかく、娘はまだ小さいので。親戚を頼って、できるだけ安全なところに」
「そうか。寂しくなるが、まあ、仕方ないな。好きなものを頼んでくれ。代金はいい」
「そんな。申し訳ないです」
「気にするな。最後なんだから、遠慮することはない」
「戦争が終われば、戻ってきますよ」
そう言った父親自身、自分の言葉を信じている訳ではなさそうだった。彼はあまりにも自信なさげだったが、オーナーは気づかないふりをしていた。
「それなら、帰ってきてから、余裕があるときに返してくれればいい」
「……ありがとうございます。お言葉に甘えます」
両親は頭を下げた。
きょろきょろと周りを見ていた少女は、私に目を留めて近づいてきた。
「ノーヴェ、今日は何弾くの?」
私は肩をすくめた。まだオーナーから指示を受けていない。少し前まで弾いていたジャズを続けておけばよかったのかも知れないが、私はオーナーに顔を向けた。
「お嬢ちゃんのリクエストを聞いてやりな」
私はうなずき、彼女に視線を移した。
「何でも弾いてくれるの? じゃあ、あの曲。前に来たときに、この曲が好きって思ったの。題名はね、子犬の――何だったっけ?」
彼女が店にいるときに弾いたことがある曲で、子犬が関係するもの。検索の結果、合致する曲が見つかった。
私が鍵盤に指を乗せると、旋律が流れ始めた。ショパンのワルツ第六番、その通称は『子犬のワルツ』。
「わあ、すごい。どうして分かったの?」
過去の演奏ログを検索しただけであり、すごいことではない。人間が記憶から何かを思い出そうとするのとは違って、ロボットが記録から情報を読み出すのは容易い。
ロボットは冷淡だ。人間なら、今は感情を揺さぶられる場面なのだと思う。街に戦火が迫り、逃げられるうちに避難することになった少女との、おそらくは最後の別れ。しかし、私の演奏はいつもと変わりがない。彼女の求めているものが以前に聞いて気に入った曲であることを思えば、それも悪いことではないのかも知れない。
内心の歯痒さなど、何らかのバグに違いない。音楽に対する願望を除けば、私には感情などないはずだ。その願望自体、結局はバグなのだから。
少女の求めるまま、私は演奏を続けた。彼女は真剣な面差しで聞いていた。幼いながらも、これが最後の機会だと理解しているのかも知れない。
三十分ほどが経過し、両親が立ち上がった。
「そろそろ、行きます」
「ああ、気をつけてな」
オーナーが父親と握手をした。母親に呼ばれた少女は、私の脚にしがみついた。
「やだ、もっと聞きたい」
「わがまま言うんじゃありません」
「だって……」
涙目になる少女を見かねたのか、オーナーが口を挟んだ。
「ノーヴェからの挨拶ということで、あと一曲だけどうだろう。あまり長い曲じゃなければ、問題はないんじゃないか」
「まあ、そういうことなら……」
「お嬢ちゃんも、それでいいかい?」
「……うん」
オーナーは私の肩に手を置いた。
「曲はお前が選ぶんだ、ノーヴェ。お前からの挨拶だからな」
私には指示を受けずに選曲する機能はない。オーナーもそれを知っているはずだが、何も言わずに離れてしまった。
ピアノの前で動くこともできず、私は鍵盤に指を乗せたまま考え込んだ。あまり待たせる訳にはいかないことは分かっている。早く結論を出さなければならない。
求められているのは、この場面に相応しい一曲。私からの挨拶として贈る一曲だ。ここで言う挨拶とは、何なのか。
演奏ロボットは弾き終わりのお辞儀くらいしか、挨拶をしない。それは演奏家から聴衆への挨拶の再現であって、この場に適したものではない。そもそも、挨拶とは人間同士が行うものだ。ロボットに人間らしさを求めるにも、限界がある。頭脳部の回路が熱を持ち始めた。本来の用途では想定されていない思考プロセスによる過負荷状態だった。
白熱する思考の熱量は人間には進展をもたらすかも知れないが、ロボットには故障の原因だ。とはいえ、一定の見解に達することはできた。彼らとは、きっと二度と会うことがない。戦争とはそういうものだと聞いている。
これは別れだ。始めから、彼らのために私にできるのは、ピアノを弾くことだけだった。選曲は重要ではない。大切なのは心を込めることだ。それが私の挨拶だ。
私は演奏を始めた。エルガーの『愛の挨拶』。ピアノ用にアレンジされているが、弦楽器に特有の優美な旋律が鳴り響く。かつて誰かが行った演奏の再現だ。その誰かは、どのような場面で演奏したのだろうか、この演奏にどのような思いを込めたのだろうか。
私には分からない。分かっているのは、今この場で、その誰かの演奏が再現されていることだけだ。そして、もう一つ分かったことがある。再現演奏は完璧だと思い込んでいたが、元の奏者の思いが再現できない以上、私の演奏が完璧になることは決してない。
これは別れに相応しい曲ではない。そんなことは分かっている。それでも、私はこの演奏を通じて、彼らの無事を願う気持ちを、先行きの幸運への祈りを贈りたかった。祝福などと、大それたことを言うつもりはない。
思考は千々に乱れたが、動作の上では淡々とつつがなく最後まで弾いた。鍵盤から指を離し、立ち上がって一礼する私を出迎えたのは、少女と両親が両手を打ち鳴らす拍手の音だった。彼らはオーナーに声をかけると、店から出ていった。
お辞儀をしたら元通りに座るという規定の動作をするべきところ、私は動くことができずに立ち尽くしていた。
あれは喝采ではない。おそらく称賛とも違う。私はきっと、感謝されていた。
「ノーヴェ、いい演奏だったぞ」
オーナーが私に声をかけた。その声には称賛の響きがあるように感じられた。
私にそれらを受け取る資格があると、どうして信じられるだろうか。心を込めて弾いたつもりではあるものの、上手くできたとは思えない。どれほど考えても、私には分からなかった。
そして、改めて思い返してみると、私には心という機能は搭載されていない。それならば、私は一体、あの演奏に何を込めていたのだろうか。
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