client.4‐4

 あとりは顔を上げ、八景坂を真っ直ぐ睨んだ。覚悟した榛色の瞳が力強く瞬いて、

「いやだ!!」

 拒絶した。銀髪の男は、選択を受け取り一瞬呆けたような顔をした。

「……あなたについて行かないし、連れても行かれないし、ここから逃げもしません!!」

 少女の膝の震えは、もう止まっていた。京介は驚いて目を見開く。八景坂はやれやれと嘆息した。

「とんだ我儘ガールだね。全部のお願いが叶うとでも思ってるの?」

「……私は」

 溜息を吐かれても、あとりの意思は揺らがなかった。

「私は秋月さんと一緒に、ここを出ます!!」

 高らかに宣言した。

「お前……」

 京介は言葉を失う。彼女の無茶な選択に、そしてそれに自分が含まれていることに。

 馬鹿かと叫びたくなり、いいから逃げろと叱り飛ばしたくなり、呆れ果て……全てを飲み込んで溜息を吐く。この何の望みもない状況下で、あとりの瞳の輝きだけを信じてみたくなった。彼らしくもない自棄やけでも、手の甲の古傷が痛みを思い出しても、もう良かった。

 他人の選択を信じることへの、ほんの少しの心の震えを押さえながら、問いかける。

「……やれるのか?」

「…………大丈夫です」

 彼女は静かに頷いた。切り出したばかりの石つぶてのような粗いざらつきが、京介の胸に去来する。大嘘も大嘘だった。

「……分かりやすい嘘を吐きやがって」

 探偵は呆れて笑った。少女も不敵に笑う。

「でも、何でか自信があるんです。信じてくれますか、私を」

「……ああ」

 もうこれしか、ここから出る方法は思いつかなかった。一歩間違えれば死ぬ。だがこのまま座して死を待つより、京介は賭けてみたかった。荒唐無稽な少女の幸運に。

 何らかの希望を見出した彼らに、八景坂は楽しそうに問いかける。

「さて、何をする気かな」

 あとりは通路の一斗缶とソファーの紙袋に視線を遣り、そっと抱きかかえていたコートに手を滑り込ませる。少女の動作を見て、その中身を知る京介は何をする気なのかに気付いた。

「先に君を動けなくする方が良いかな? あんまり痛い目に合わせる気はなかったんだけど……しょうがないなあ」

 彼女の行動に疑問符を浮かべた八景坂は、探偵に向けていた拳銃をゆらりと少女の足元に向け、照準を合わせる。

 その隙に京介は足元のアイスピックを拾い、傍の壁のコンセントに躊躇なく突き刺した。

 小さな雷のような白い電光が幾筋も壁穴から迸り、彼の濡れた掌、腕を介して、二人の身体へ衝撃が突き抜ける。

「ぐ……」

「がッ」

 意図的に起こされた感電に、八景坂は体勢を崩し一瞬腕を弛める。

 心臓よ止まるな。京介はその機を逃さず痺れる身体を叩き起し、迷わずあとりのいる窓辺へと駆け出した。

「く……」

 数拍遅れて起き上がった八景坂は、忌々しそうに銃口を向け、数回引き金を引く。

 薬莢と共に吐き出された鉛玉は、探偵の背中を狙って飛ぶはずだった。しかし腕の痺れで咄嗟に照準が合わなかったか、京介の足元の一斗缶に一発、残りは全てあとりの髪束を掠めて全弾窓ガラスに命中し、大きな蜘蛛の巣を張らせる。

「来い!」

「はい!」

 京介は駆け付けるスピードそのままに、焼け焦げた掌をあとりに伸ばし――彼女も探偵の胸に飛び込んで――彼は少女を抱きかかえたまま、背中でガラス窓を突き破って宙へ飛び出した。

 飛び出す瞬間、あとりはコートの内ポケットの中身を取り出し、躊躇なく放った。

 火を点けたばかりのオイルライターは彼女の手を離れ――小さな炎は、床に零れたガソリンに着地した。


 少女が最後に目にした八景坂は、炎の向こうで何か奇跡を目の当たりにしたような笑みを浮かべていた。



 豪火と地鳴りのような音が轟いて、バーの跡地は吹き飛んだ。コンクリートの破片が黒煙と爆風で、五階の空に散る。

 窓から飛び出した京介は腕の中の少女を絶対に放すまいと、固く抱き締める。完全に無策の賭けだったが、何としても彼女を死なせるわけにはいかなかった。もう二度と、目の前で失わないように。あとりは目を瞑ってその胸に取り縋っている。

 その時、一際大きくガスボンベが破裂するような大爆発が起こり、空気が歪む破裂音が彼らを襲う。八景坂が用意した火薬に引火したようだった。紅炎が空中の二人に取り縋るように迫り、あとりが掴んだコートの裾を焦がす。

 少女を抱えたまま、探偵は爆発の衝撃波により、突き破ったガラスの欠片と共に向かいのビルの非常階段に叩きつけられた。



「んん……」

 京介の腕の中で、あとりは生きていた。耳が少し詰まったような音の聞こえにくさを感じつつ、目を覚ます。硬い繭に覆われているような感触がして、身動ぎをひとつした。

 すぐ目の前には、目を瞑って動かない探偵の顔があった。そのかいなはだらりと力なく少女を包み込んでいる。四階相当の非常階段に着地して無傷だったのは彼に庇われたからだと知り、身体を起こして慌てて揺り動かす。

「……わ、秋月さん! 秋月さんってば!」

「……ん」

 全身の痛みに顔をしかめながら、京介は薄く目を開いた。目眩を振り落とすように頭を振る。

「生きてるのか……」

「そうみたいですね」

 流れてくる煙に咳き込みながら、彼も上体を起こす。

「お前、後先考えないで燃やしただろ……」

「結果的に生きてるからOKです!」

 そう眩しい笑顔で言い放つあとり。轟々と音を立てて燃え盛る炎を見上げる。奇跡のような幸運に恵まれ、生き長らえたようだった。

 だがあんな賭けは正直もう二度とやりたくない、と探偵は嘆息した。

 夜月に照らされた京介の顔をまじまじと見て、少女は気が付いた。

「秋月さん……血が」

 ガラスの破片で切ったか、彼の左頬は血が滲んでいた。思わずあとりが手を伸ばす。彼が逃げる前に、温かい指が傷に触れた。おもむろに彼はその手を取ろうとし――手の甲の醜い傷痕を晒していることに気が付いて――少女に触れる前にゆっくりとその手を下ろした。

 されるがままに血を拭われた京介は目を伏せてしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。

「昼間は、悪かった」

 殊勝な言葉にあとりは心底意外に感じ、両手を振り乱して慌てた。

「そんな! 私もあれはさすがに言い過ぎたなって。秋月さんのこと、何も知りもしないで」

 人伝ひとづてに聞いた彼の過去について思い返し、思わず顔から目を背けてしまう。

 京介は目を伏せ、押し黙る。少女に語って聞かせるつもりは毛頭なかったが、知れてしまったところで受け入れてもらえる話とも彼は思っていなかった。

 彼女に及ぶ危険は先程目の前で爆ぜた。だからこれ以上話すこともない。

 どの道彼女はそれらを知ったところで、自分は彼女の前から去る。だから理解されずとも良い。

 これ以上一緒にいると、先程のように彼女に危険が及ぶ可能性もある。

 京介はあとりの人生に今後関わるつもりはなかった。最後に一言謝ることができたのだから、それでもう良かった。

 爆炎で赤く照らされた少女の横顔。少しだけ名残惜しく眺め、口を開く。

「あとり……これで」

 さよならだ、と口にしようとした瞬間、爆音が轟き廃墟が一段と大きく弾けた。

 別れの言葉に気が付かなかったあとりは、あの、と探偵に向き直り問いかける。

「さっきライター投げる前に言ったの、全然根拠のない自信だったんですけど」

「ああ、分かってる」

「じゃあなんで信じてくれたんですか?」

 榛色の瞳は、純然たる問いにほんの少し期待を織り交ぜて瞬いていた。京介は答えに窮して黙り込む。幾らか視線を夜風に彷徨わせ、そして己の心を確かめるように、言葉を口にした。

「……お前を、信じたいと思ったからだ」

 穏やかな胸の内に、砂粒は転がらなかった。

 あとりにはもう、その言葉だけで充分だった。それまで彼女が胸に抱えていたわだかまりが、一瞬にして風に流れる砂礫されきのように崩れ去ったような気がした。

 肩の力が抜けて涙腺が緩み、彼女は気の抜けた泣き笑いを見せた。喜怒哀楽目まぐるしい表情に、京介は少し呆れて嘆息した。

「……泣いたり笑ったり、忙しい奴だな」

「うるさいですね、誰のせいだと……あ、そうだ」

 何かを思い出したように、いそいそとコートを取り出した。埃を払うようにばさっと広げ――京介の肩にふわりと羽織らせる。

「えへへ、やっと返せました」

「……そうだったな」

 ちゃんと一度洗ったんですよ? と笑う。榛色の瞳は、楽しそうに揺れていた。律儀に守られた約束に、少しだけ別れ難く感じたその時。

「さて、帰りましょうか」

 あとりは膝の埃を払って立ち上がり、京介に手を差し出した。その笑顔には臆面もてらいもなかった。

「は」

 心の底から呆けた声が出て、ただ目を見開いた。彼女は怪訝そうに探偵を見下ろす。

「何ですか、ぼーっとしちゃって」

「……俺といると厄介事に巻き込まれる。今日みたいに過去の因縁を辿って追って来る奴がいないとも限らないし、今後危ない目に遭うことも――」

 あーもう、と面倒臭そうに、あとりは言葉を遮った。

「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと事務所帰りましょう? 私お腹空いちゃいました」

 掌は変わらず、一度彼女を拒絶した彼の目の前で揺れている。深く考えることは、やはり少女には向いていなかった。

「――――」

 敵わないな、と京介は少女を見上げた。きっと彼女は何度拒絶されようと、相手の心に触れるために手を差し伸べるのだろう。

 それは惑う闇に下りてきた、一縷いちるの蜘蛛の糸のようだった。

 満月の光を湛えた彼女の髪が緩い夜風で揺れて、思わず綺麗だ、と見惚れる。

「……ああ」

 傷痕が剥き出しになった手で今度こそあとりの手を握り、立ち上がる。裸の掌に、確かにそのぬくもりを感じた。

 錆びた階段を降りて、遠い街明かりに向かって、少女は真っ直ぐに歩いていく。その後ろ姿を少し遅れて追う京介の表情は、影に隠れて誰にも見えなかった。

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