client.4‐3
見れば見るほど、目を覆いたくなる古傷だった。八景坂の話は本当だったという事だろうか。少女の反応をよそに、探偵はまだ目を覚まさない。
「興が乗ったな。お話しよっか」
彼はカウンターのシンクに立ってアイスペールを手に取る。このバーを根城にしていた誘拐犯が晩酌でも
数拍を置いて、その眉根がぴくりと動いた。
「おーい、起きた? おはよう京介」
場違いに朗らかな声で呼びかける八景坂。ゆっくりと目を開ける探偵にあとりは少し安堵したが、バーテン服が取り出した拳銃を見て、すぐに血相を変えた。
水溜まりの中で顔を拭った京介は、手袋がない事に気が付いた。そして自身に銃口を向ける八景坂を視界に入れるや、忌々しく舌打ちする。
「何のつもりだ、八景坂……」
「久しぶりじゃん、旧交を温めようよ。お前に分かるように、わざとあの頃の顔のまま来てやったんだから」
言いながら跪いて探偵の頭に銃口を突き付け、空いた手で彼の後ろ襟を掴んで引き起こした。
京介は同じ組織にいた、変幻自在の詐欺師の事を完全に思い出していた。顔や声などの外見から年齢、経歴に至るまで全てが偽りの男。最早男であるかどうかすら疑わしかった。
その嘘をことごとく見破る彼は八景坂にとって己の存在を否定する相手であり、居てはいけない人間として認識されていた。京介は組織を抜けた後、余計な恨みを買わぬように姿を
旧交を温める気などさらさらないのは明らかだった。
「言うの忘れてたけど、お嬢さんも京介もあんまり暴れないでね。その辺の一斗缶と紙袋は全部ガソリンと爆薬だから」
バー全体を見回し笑顔で牽制する八景坂の言葉に嘘はなかった。
窓辺で震える少女と目が合う。
「……」
彼女の顔は安堵と怯えが渦巻いていた。探偵は銀髪の男を睨みつける。
「何のつもりだと聞いている」
「何も。懐かしくって会いに来ちゃった」
嘘だ。軽薄に笑うその顔からも砂の感触がした。冗談通じないなあ、と射抜く視線を受け流し、八景坂は軽口を叩くように経緯を語る。
「SNSで画像見かけてさ。この子空飛んでただろ?なんか興味が湧いちゃってさ。お前にはもったいないから、俺が貰おうと思って。随分仲が良さそうだけど、もしかして
灯火、と聞いて京介の顔が険しくなった。反応を愉しむように、青い狐目がすっと細められる。
「お前も人が悪いね、あの子の事を黙ってるなんて。さっき話してあげたらびっくりしてたよ」
「……何を」
何って、と襟首を掴んでいた手を離し、彼は己の顔を撫でる。再び、紅茶色の瞳の少女が現れた。
「私が死んだ時の話」
「……化け物め」
苦々しく口にし、京介は目を伏せた。偽者だと分かっていても、その懐かしい気配は確かに彼女のものだった。
「久しぶりだね、京介。私の事、ちゃんと覚えててくれた?」
灯火の顔と鈴のような声が、彼を逃さぬように耳元に迫る。
「忘れないよ、私の嘘を信じて行かせたこと。忘れさせないんだから。ずっと背負ってよ、私を殺したこと」
笑顔と共に京介を
力なく俯く探偵が、あとりには小さく見えた。どれだけの間、彼は苦しんできたんだろう。これまで他人を近付けさせなかった京介の、心の大穴の縁に立っているような気がした。
八景坂は彼の頭に銃口を押し当てたまま、追い縋るように首に腕を回す。
「でもね……京介だって嘘を暴きたくて暴いている訳じゃないよね……分かってるよ、純粋に不幸な体質だと思う」
だからね、と灯火の瞳が、優しく細められる。
「嘘を見抜くあなたの苦痛を、その死をもって終わらせてあげたいな」
断罪の言葉を咀嚼するだけの気力は京介には残っていなかったが、
「……嘘だ。八景坂、お前にとって俺が邪魔なだけだろう」
胸の内で感じるざらつきだけを頼りに、灯火を拒絶した。前髪から滴る水が、汗と共に顔を伝う。
「お前は他人の能力への憧れを拗らせた嫉妬心から、その子の幸運を我が物にしたいだけだ。打算の塊の癖に、場当たり的に嘘を吐いて誤魔化すな」
吐き出す言葉と共に、思考を自責から引き剥がす。狐に
八景坂は彼の首元に腕を回したまま、心底つまらなさそうに己の顔を撫でて元の顔に戻した。
「はあ……本当、腹立つね。お前は」
冷たい笑みを消し、彼は銃口を押し当てる力を強めた。上着を抱き抱え固唾を飲んで見守るあとりに、優しく語りかける。
「俺はね、嘘は愛だと思ってる。万物に対する愛だ。偽る事で相手を思いやる事ができる。それを暴くのは愛を疑う事に他ならない……さっきの言葉も、最愛の彼女の言葉を聞きながら死ねるなんて贅沢だなって思った俺の、精一杯の愛なんだけど」
朗々とした語りは、次第に熱を帯びる。
「こいつの前では全ての嘘は無に帰す。隠しておいた方が良い優しい嘘も、暴けばたくさんの人間が不利益を被る事実も、全て等しく白日の下に晒してしまう。それができるのは世界で京介だけ。極めて不幸で、そして不平等だと思わない?こいつだけが、相手の言葉の真偽を理解し、価値を裁定することができる。その能力は、およそ人間が獲得していい物ではないんだ。そうだろう?」
忌々しそうに語る八景坂。しかしその端々にどこか羨望が見え隠れしていた。
同意を求められたあとりだったが、何かを答えたら彼の言説に絡め取られそうで、何も言えなかった。もっともらしい言葉に聞こえるのに、それらの集約先が京介の死でしかない事も、彼女は絶対に同意できなかった。
「ね、俺とおいでよ。君を危険に晒すことはしないし、その特異な幸運を俺にだけ見せて、俺のために使ってくれないかな?」
散歩にでも誘うように、八景坂は口の端を曲げて提案する。
少女はごくりと乾いた喉を鳴らし、京介に一瞬視線を遣り、それからコートを握る手を強め、八景坂を真っ直ぐに見据えた。
「もし、着いて行ったら……秋月さんはどうなるんですか?」
彼女の問いに、うーん、と考える素振りを見せる八景坂だったが、
「君を保護した上で、悪者にはまとめて罪を償って頂こうと思ってね。誘拐殺人で世間を賑わせた犯人は、探偵に詰め寄られて居てもたってもいられずバーに火を放ち焼身自殺して、運悪く探偵も巻き込まれましたってことにすれば全て丸く収まるかなって。誘拐殺人の証拠隠滅のお手伝いもできて一石二鳥。俺って親切だと思わない?」
足元に転がる誘拐犯に
狂ってるんだ、自分のやりたい事しか見えてない。もう何を言っても話が通じない事を悟り、あとりは言葉を失った。
「あとり」
探偵に呼ばれた少女は、はっとして彼を見る。
「俺は良いから、逃げる事を考えろ」
そう言って彼は、八景坂に気取られない程度に足元の水溜まりに沈むアイスピックに視線を落とし、後ろの八景坂を見た。
刺し違える、つもりだろうか。どう考えても背後の拳銃の方が速く京介の命を終わらせるだろうということは、あとりでも予想がついた。背中をヒヤリとした汗が流れる。
「はは、他人の心配ができるなんて、余裕だね。さ、俺と来るか君が決めて。今なら、君の目の前で京介を殺さないと約束しよう」
引き金に指を掛け、銃口を探偵の頭に擦り付ける八景坂。
どうしようどうしよう、と少女は脳味噌をフル回転させ考える。言われた通り逃げるか。八景坂の言うことを聞いても聞かなくても、京介の命運が尽きる事は明らかだった。
この一週間の出来事が彼女の中で走馬灯のように脳裏を掠める。町外れの探偵事務所に駆け込み、駆け抜けた一週間。まだ探偵業だって始めたばかりだったのに。笑わない探偵と、もう少し話したかったのに。
コートだって、まだ返せてないのに。
決めた。
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