client.4 笑わない探偵

client.4‐1

「やっと逢えたね」

 数年ぶりに会う恋人にそうするように、八景坂はっけいざかは優しく語りかける。

「ひ」

 意識を失う前に何をされたのか思い出したあとりは、その美しい笑みに恐怖を覚えた。震える膝が言うことを聞かず、ソファーから転げ落ちる。カウンターを出て、ゆっくりと近づく彼から逃れようと総ガラスの窓辺に四つん這いで駆け寄るが、羽目殺しのそこは何処にも逃げられはしなかった。

「残念、そこは開かないんだ」

 ガラスの向こうには錆びた非常階段だけがビルの外壁を這うように伸びている。人気のない路地に面しており、少女に気づく者は誰のひとりもいなかった。

「俺はね、君を助けに来たんだ」

「たす……け……?」

 ガラスを背にして座り込み、あとりは困惑した顔で彼を見上げる。ゆったりと歩いて近付くバーテン服の男は、青い瞳を細め彼女の震えすらも愛しく見下ろした。

「そう。あのまま京介と一緒にいると死んじゃうよ?」

 話が飲み込めず目を白黒させる少女と目線を合わせるように、八景坂はひざまずく。攫われたときにした甘い香りが、あとりのすぐそこで香った。

「それって……どういう」

 はしばみ色の瞳がまたたいて、怯えが言葉を紡ぐ。彼が口にする言葉は優しいのに、どうしてか埃臭いバーには緊張が張りつめていた。

 そんなに怯えないで、と長い睫毛を伏せ、八景坂はリラックスさせるようにゆっくりと語りだす。

「昔話をしようか。ほんの六、七年くらい前の話だけど」

 彼はそういうなり、両手で己の顔を包み込み、揉むように撫でた。両手の下から現れたのは、少女がこの数日間一緒に過ごしてきた男――京介の顔だった。あとりは息を呑む。黒い瞳の色だけでなく、その人を射抜くような視線と仏頂面は、紛れもなくよく知っている探偵のそれだった。銀髪はそのままのため見分けがつかなくはないが、まさに瓜二つだった。

「この顔の方が雰囲気が出るかなと思って。どうかな?」

 絶対に京介はしないだろう犬歯を見せて笑う顔に、現実味のない恐怖を覚える。たった一瞬で、彼は外見から声色まで完璧に再現して見せた。

 変装が得意、という先程の自己紹介の範疇を超えた芸当に、あとりはただ目を見開くことしか出来なかった。

「俺の他人の嘘が分かる能力。これは生まれながらの才能ギフテッドだ。そういう人知を超えた能力や八景坂のような特異な技術を持った者達が集められ、法で裁けない、理屈で解決できない事態を一手に担う組織が、少し前まであった。警察や政治家、大企業なんかから秘密裏に依頼され、人知れず請け負う組織が」

 今はもうなくなってしまったがな、と笑顔を消し、京介の口調を真似る。

「そこで、犯罪者の口を割らせる尋問官として働いていたんだ」

 それは秋月京介の告白のようだった。少なくとも見知った顔に真っ直ぐ見つめられ告げられた言葉は、あとりの心には真実のように映った。戸惑いつつも、話の先を聞いてしまう。

「尋問官って……」

「真偽が分からない、証拠もない、とにかく話をはぐらかす重罪人の話を聞き、本当か嘘かを判定する。相手が真実を吐くまで、何日も問い続け真実を聞き出す役目だ。相手を問い詰め、はいかいいえかの一言でも聞き出せたら俺には分かる」

 確かに彼の嘘発見能力は、あとりがこの一週間見てきた限り完璧な精度だった。八景坂の口から語られた話のはずなのに、そうした経験があれだけ嘘に敏感で疑り深い人格の形成に繋がったのだろうか、と夢想してしまう。

「その時同じ組織に動物使いの灯火とうかという少女がいた」

 その名を口にする時、少しだけ目を伏せた。それはまるで、本物の彼もそうすると知っているかのような所作だった。

 間を置かずに彼がまた両手で顔を覆うと、その下から現れたのはあとりが知らない顔だった。少し大人びたような面差おもざしの、紅茶色の優しい光を瞳に湛えた十代の少女だった。

「んん……こんな感じだったかな、彼女」

 鈴のような声も再現したのは、恐らくたった今話に出た灯火かと見当をつけた。

「私達はお互いを相棒として信頼しあっていたんだけど……ある日、京介の尋問相手お客さんが大規模な動物の密輸に関わっていると知って、私に心当たりがないか話したの」

 灯火の姿のまま顎に手を当て、思い出すような仕草で話を進める。

「手がかりを掴んだ私はひとりで片付けようとしたんだけど……京介は私が言う『大丈夫』を信じて行かせて……結果、私は殺されたの」

 朗らかにそう言い、微笑む。

「京介はね、私の言葉が根拠のない嘘だって分かってて見殺しにしたんだ。寂しかったなあ、最後はひとりで血溜まりに浮いて」

 あっけらかんと語られる顛末てんまつ。もしこの話が真実だったとして、灯火の顔と声で語られる悲劇を京介が聞いたら正気ではいられないだろうとあとりは思い、それを平気でやる八景坂に心底ゾッとした。

 三度みたび、顔を拭って、元の美しい狐の微笑が現れた。化けた二人を嘲笑うかのような笑みだった。

「結局、京介は尋問相手められたんだ。尋問官として恨みもたくさん買っていたからね。食いつきそうな証言をされ、あいつがまんまと食いついて、相棒を行かせて見殺しにしたって訳さ」

 肩にかかる銀髪を掻き上げ、後日譚を紡ぐ。

「彼女の死後、多少は罪の意識があったのか、手の甲の皮を自分で剝いでいたけれど……生き返る訳じゃないのにねえ。そんな事するくらいなら、いっそ消えていなくなればいいのに」

「手の、甲を……」

 自分で剥ぐ。何故その思考に至ったのか、あとりは考えるだけで神経がヒリヒリした。それは想像を絶する苦痛のはずだが、それをしたということは、痛みを悔恨の念が大きく上回ったのだろう。本当に、探偵はあの黒手袋の下にそんな悲しみを抱えていたのだろうか。頬を冷や汗が伝う。

「京介の近くにいたら、君にも彼女のように危害が及ぶかもしれない。そうでなくても、多くの人間の恨みを買う能力だ。一緒にいて不利益を被るのは君の方だと思わない?」

 す、とあとりの顎に指を添え、至近距離で見つめる。体温を感じさせない冷たい指だった。

 彼女が言葉に詰まっていると、カウンター奥の勝手口がガチャリと音を立てた。

「ほら、噂をすればやってきたね」

 八景坂にそう促され、振り向いた先に現れたのは、何かを担いだ中年の男だった。よほど重かったのか、大粒の汗をかき肩で息をしている。

 大きな溜息と共に彼は肩の荷を投げ出した。床に転がったのは、

「秋月さん……!」

 固く目を瞑って動かない、探偵の姿だった。

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