client.3‐7

 昼下がりの事務所はしんと静まり返って家主を迎えた。机に向かって黒手袋が適当に鍵束を放り、無造作に音が散らばった。

 ソファーに倒れ込むように寝転がり、天井を仰ぐ。もう何を見るのも億劫で、片手の甲で視界を塞いだが、瞼の裏には大粒の涙を零す少女の顔が鮮明に映っていた。仕方なく薄目を開けて、深く溜息を吐く。

 ――またひとりになっちゃったねえ。

 耳の奥に響く、朗らかな灯火とうかの声。いよいよ幻聴まで始まったか、と京介は眉をひそめる。

「……ひとりはいつもの事だろ」

 吐き出した言葉は、がらんと広い客間に消え入った。答えるものは誰もいない。

 あのまま少女の嘘を飲み込んで真実をひた隠しにしていたとして、何が変わっただろう。自分の判断は間違っていなかったと確信もしている。だがしかし、何を間違ったかは彼の中で明白だった。どうして冷静さをかなぐり捨てて、ああいう言い方しか出来なかったのか。

『どうせ私の事だけじゃなく、他の人の事だって最初から、信用しようともしてないくせに!』

 彼女の言う通りだった。そもそも嘘が分かる云々の前に京介は用心深く、相手の事は頭から信用しないようにしている。何を今更。その今更に、傷付いている自身に驚いてもいた。

 言い当てられたのが癪だったのか。……否。

「俺は」

 信じたかったのか、あいつを。そう口にしかけて、止めた。もし砂の一粒も転がらなければ、認めてしまわねばならない。自分の心が嘘か本当かなんて確かめたくもなかった。

 空いた手がソファーからだらりと垂れ、黒い指が床に落ちる。人と仲違いして考え込むなど十代の少年でもあるまいし、馬鹿馬鹿しい。またひとつ京介は深く溜息を吐いて、苦い感情とともに思考を頭の隅に追いやった。

 何にせよこれで一週間前の生活に元通りだった。他人の物音に睡眠を妨害されることはもうない。誰にも期待せず、期待もされず、人と距離を置く隠遁生活。

 水を飲もうとゆっくりと上体を起こし、部屋の隅に丁寧に束ねられた雑誌の山を見つけた。彼は視界から消すように目を閉じ眉間を揉む。もうしばらく何をする気分でもなくなった。

 そのままもう一度ソファーに沈み込み、窓から差し込む陽光に顔をしかめながら無理やり眠りについた。



 物音がひとつして、京介は目を覚ました。微かだが玄関のサムターンが回った音を、神経質な耳は聞き逃さなかった。窓の外はいつの間にか日が暮れかかっている。

 あとりが戻ってきたのだろうか。眉間に皺が寄る。

 否、挙動がうるさい彼女であれば、もう少し物音がしてもおかしくない。それに帰ってきた時、鍵は確実に閉めたはずだった。その鍵は傍らの机に転がっていて、合鍵はない。

 そろりとソファーで起き上がる。古い板張りの床の、どの部分を踏めばきしむかは家主が最も熟知している。足音を立てずに、京介は客間のドアの影に移動した。

 玄関を突破したらしい侵入者は、着実に客間に迫っている。僅かな衣擦きぬずれの気配が扉の向こうに近付いていた。空き巣か、それとも――

 彼が見守るその目の前で、ドアノブがひとりでに回った。控えめに扉を開き、隙間から見える範囲に人がいないことを確認しいぶかしむ人影を、探偵は呼びとがめる。

「何の用だ」

 侵入者はドアノブごとびくりと震えた。京介が取っ手を掴んで引くと、その男は虚を突かれたように客間に倒れ込んだ。

 黒ずくめにマスク、一見して不審者らしい中肉中背の男は急いでポケットから何かを握り取り出し、探偵に向けた。玩具の銃のようなちゃちなそれの、四角い銃口を見て京介は身体を強ばらせる。それが何かを認識し避ける動作をする前に、男は引き金を引いた。

 バチ、と弾ける音と共に小さな電極が高電圧を伴って銃口からほとばしる。ほぼ射出音と同時に京介の身体はびくりと一度だけ震え、床に倒れ伏した。

 肩で息をし、侵入者はやおら立ち上がって動かない身体を見下ろした。掌の中のテーザー銃と、倒れた男とを繋ぐワイヤーを交互に見遣る。銀髪の男から渡されたそれの威力を疑っていた訳ではないが、ここまでとは。姿形を自在に変える彼の得体の知れなさと、こんなものをどうやって手に入れたんだという驚愕が相まって、男の背筋に怖気おぞけが走る。

 足元の男は死にはしなかったようだが、固く閉じられた瞳を見るにしばらく目を覚ましそうにはなかった。口封じに殺して埋めるか……否、と彼は頭を振って思い直す。ここで取る行動の全ては、あの男にゆだねなければならない。誘拐殺人犯の正体を握られている以上、彼は自身で何もかもを決める訳にはいかなかった。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、教わったばかりの番号を探し当てる。繋がるや否や、彼は狼狽を隠す余裕もなく電話口に喚いた。

「……おい玲奈れいな! 男がいるなんて……聞いてないぞ」



「んう……」

 革張りのソファーの上で、あとりは目を覚ました。客間で寝てしまった、と目を擦るが、寝返りできしむそれは知っている感触ではなかった。寝ぼけ眼で暗闇を見回す。

 そこは小さなバーのようだったが、改装中のような雑多な印象を受けた。いくつかのソファーがカウンター脇に鎮座しているが、そのどれにも紙袋に包まれた大きな荷物が置かれている。通路には一斗缶がいくつも転がっていた。入口の反対側の壁が一面だけガラス張りになっていて、向かいのビルの非常階段が店名のロゴ越しに見えた。月が高く昇り、その光だけが店内を薄く照らしている。

 何もかも彼女の知らない景色だった。

 曖昧な記憶を辿りつつ身体を起こすと、頭がやけにくらくらして、まだ夢の中にいるかのような浮遊感を伴っている。傍に落ちていたコートを手繰り寄せる。

 ええと猫を探して、死体を見つけて、探偵と喧嘩をして……その後は、と微かな記憶を紡いでいると、

「やっとお目覚めかな、お嬢さん」

 背後の暗闇で軽やかな声がした。あとりが振り向くと、バーテンダーに扮した男がカウンターの陰から姿を現した。

「初めまして……俺は八景坂はっけいざか篝志かがし。変装が得意なお兄さんだよ」

 彼はガラス玉のように澄んだ青い瞳を細め、口の端を吊り上げて戸惑う少女に告げる。

 それはさながら、人を化かす狐のような笑みだった。

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