client.3‐6

 嗚咽おえつを噛み殺しながら、少女はひとり自宅へ足を向けていた。契約中のアパートまでは歩いて帰るような距離では決してなかったが、来た時のように電車やバスに乗る気にはならなかった。

 何度拭っても、大粒の涙は後から後から零れてくる。それが腹が立ったからなのか、悲しかったからなのか、感情はい交ぜになって分からなくなっていた。

「ばーかばーか! 人見知りの仏頂面!」

 口喧嘩を思い出して蹴飛ばした小石は、電柱に当たって跳ねた。喉の奥から涙の味がして、もう何度目か鼻をすする。

 反応が薄くても突っぱねられてもめげずに話しかけていたのは、そうしていればいつか心を開いてくれるかもと希望を持っていたからだ。

 最初の頃より少しは打ち解けたと思っていた。けれど、彼の心の扉は一ミリも開いてなどいなかった。ひとりで空回りしているみたいで虚しくて、寂しかった。

「仲良くなれたと、思ってたんだけどなあ……」

 呟きながら、また目頭が熱くなる。作ったご飯を囲んでいる時。並んで歩いている時。たわいの無い会話をしている時。思い出されるのは、この一週間に起きた様々な事件に挟まった、何気ないが心地良い時間。

 ああそうか、私も一緒にいて楽しかったんだ。あとりは何だか腑に落ちた気がした。だから、きっと期待してしまったのだ。この気持ちを共有出来ていますようにと。分かり合うほど長い時間話をしたわけではなかったけれど。

「もう少し、知りたかったなあ。秋月さんのこと」

 ぬるい春風が濡れた頬を撫でて、ようやく口にした後悔を運んでいく。別れ際、彼には酷い事を言ってしまった。反応を確かめるのが怖くて走り去ってしまったが、いくら鉄面皮相手でも言ってはいけない言葉だったということは彼女にも分かった。

 謝った方が良いだろうか、と逡巡しゅんじゅんした所で、はたと気づいた。足を止め、慌てて鞄を開ける。

「持ってきちゃった……」

 今日の終わりに返そうと決めていた、借り物のトレンチコート。綺麗に畳まれたそれは、鞄の中にすっぽりと収まったままだった。あちゃー、と取り出して広げる。

 どうしよう。今から戻る? いやでも、まだ気まずいし。立ち止まり、あとりはうんうん悩む。このままだと借りパクだ。

 直接渡すかどうか考えあぐねて小さく足踏みし、腹を括ってきびすを返そうとしたその時。

「やあ、こんにちは」

 死角から、涼しい声がした。驚いて振り向くと、そこには若いバーテン服の男が立っていた。銀糸のような滑らかな髪が風に踊り、青い切れ長の双眸はずっと想いわずらってきた相手にやっと出会えたかのように優しく細められている。

 少女は彼に見覚えはなかった。涙の痕を慌てて拭い、問いかける。

「えと、どこかで……?」

 その現実味がないほど端正な顔立ちは、一度見れば忘れそうにはなかった。であれば、男が何か人違いをしているのだろうか。しかしあとりの問いかけに、彼は口の端を曲げて笑った。それがどこか、雪原で獲物を見つけた美しい狐を思わせた。うやうやしく頭を垂れ、万感の思いを込めるように告げる。

「あなたをさらいに伺いました、お嬢さん」

「……え」

 それがどういう意味か彼女が理解するより前に、男は素早く少女をそのかいなで包み込んだ。バーテン服の胸にすっぽりと収まったあとりは何か声を出そうと一息吸ったが、首筋にちくりと針で刺されるような痛みを覚え――そこでようやく数日前に届いた犯行予告メールを思い出し――直後、視界は暗転した。

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