client.2‐11
出しっ放しの『清掃中』の看板を避けながら二階の家族湯の暖簾を潜ると、三畳ほどの脱衣場の冷たい床で男が倒れていた。着衣のままうつ伏せに横たわった彼は、濁った薄目を開け床を見つめている。確かに京介が夜明け前に露天風呂で会った男に間違いなかった。
見慣れぬ死体に、あとりは小さく悲鳴を上げて手を合わせる。その仕草に京介もふむ、と追従した。
「すみません、今から色々調べさせてもらいます」
とはいえ、何から始めて良いやら分からず、きょろきょろと死体の周りを見回した。床には薄ら白い埃が溜まっている。
「……それにしても埃が凄いですね、ここ」
「普段人が出入りしないんだろうな」
そう言って彼は死体を通り過ぎ、浴場へのガラス戸を引くと――奥の露天風呂には、湯の一滴も流れていなかった。
「やはりそうか」
「これは……故障中でしょうか?」
源泉の湧出口には赤い×の張り紙がしてあり、しばらく掃除もしていないのか、湯釜は植栽の枯葉や
黒手袋が腕を組む。
「昨日家族湯から掃除夫が出て来るのを見た。が、持っていたブラシは濡れていなかった。つまりここは今日に限らずしばらく掃除もされず、捨て置かれていたんだろう」
「温泉の設備が故障してて、ですか。でも何でわざわざ掃除に入ったふりなんか」
そう言いかけて、あとりは足元に転がるコーヒーの空き缶を見つけた。指紋を付けるな、と京介に注意され、ハンカチを添えてそっと拾い上げる。
「うえ、煙草だ!いっぱい!」
空き缶の飲み口を覗き込むと、容積の半分以上を煙草の吸殻が占めていた。ぷん、とタールを煮詰めたような悪臭が鼻を突く。彼女からパスされた京介も、中を覗き込んで頷いた。
「灰皿か。銘柄が違うものが混在しているな」
黒い手がそっと空き缶を元のように転がした。あとりはハンカチを仕舞い、何か気づいたようにぽんと柏手を打った。
「もしかして、ここって……喫煙所だったんですかね?」
だろうな、と京介も肯定する。掃除夫もこそこそと出てきていたあたり、従業員用の非公式な場所であったのだろう、と彼は推察した。
「『清掃中』と看板を出しておけば、宿泊客はまず入ろうと思わない。通りかかった客にも、あたかも清掃に時間がかかっている風に装えば諦めてくれるとでも思ったんだろう」
「温泉で何てことを……設備が壊れて温泉が出なくなったからって、何も喫煙所にしなくても」
呆れて呟くあとり。湯船周辺でそれ以外に変わったものは見つからず、二人は改めて死体の検分に取り掛かるため脱衣場に戻った。
先程と変わらず死体の背中が出迎える。棚に足を向け伏したそれに、一見して外傷はなさそうだった。京介はどうしても明け方の夢が脳裏にちらついたが、血に塗れた刺傷のような致命傷が無いのが救いだ、と目を細めた。
そっと死人の枕元に屈んだ彼は、黒手袋で慎重に触れる。体温を失った身体は、手袋越しでも分かるほどに冷え切っていた。手の甲がじわりと痛みを思い出す。
「見た目で分かる外傷は……あった」
淡々と検分を行うと、あとりも後ろから覗き込んだ。京介の指し示した男の後頭部は不自然に窪んでおり、少量の血の塊がこびり付いていた。
「何かで殴られたか、ぶつけたか……これだけ頭蓋骨が凹めば致命傷にもなるだろう」
「痛そうな死因ですね……」
何にぶつけたんだろ、と脱衣場に隈無く視線を配ると、
「あれでしょうか」
すぐに見つかった。床の端の方に、人の頭より少し大きいくらいの丸く黒い壺が転がっている。あとりが近づき屈んで観察すると、それは表面がゴツゴツとしていて、重厚な鉄製のようだった。壺の口にハンカチを添え、拾い上げようと掴む。
「おっっも!何これ」
予想外の重さに驚いた。持ち上げられないことは無いが、大きさに反してかなりの重量感だった。ふむ、と京介も立ち上がり、壺に手をかける。
「これは……鉄器か」
京介の腕にずしりと収まった壺は、照明の光を黒く鈍く照り返している。壺の曲面を死体の外傷にあてがうと、その形はほぼ一致した。念の為周囲を見回すが、他に外傷を与えうるようなめぼしいものは無い。
「傷の原因はこれで間違いなさそうだな」
「てことは、鉄の壺で殴られたことによる殺人事件ですね……!」
あとりは手帳に『湯煙温泉殺人事件!!』と大きく書いて下線を引いた。
「まだそうとも言い切れないだろ」
壺を元通りそっと転がして、京介は否定する。死体の傍には籐編みの籠を擁した背の高い棚が立っている。ここから偶然落ちてくることも考えられた。
むーん、とあとりは顎に手を当てて唸ったが、
「とは言え、事故か殺人かのどちらかには絞れそうですね」
そう結論付け、それには彼も頷いた。自殺にしては打ちどころが難しいし、病死だったにしてもこの傷の説明は別で必要そうだった。
「すごい、少し真相に近づいた気がします……!」
正直真相究明は無理だと思っていた京介も、ある程度の道筋が見えてきたと感じていた。ただし、まだ分からない事はたくさんある。
「素人の検分で分かることはこれくらいだ。あとは……お前の出番だ」
「おおー」
男の死に誰か関わっているのか? そもそもなぜ宿の従業員や宿泊客は皆嘘を吐いているのか? 聞かなければいけないことは山積していた……が、京介はあくまであとりに聞き取りさせる気でいた。
「お前がやると言い出したんだからな」
「もちろんです! 任せて下さい!」
栗毛の少女は親指を立ててにっこり笑う。しかしサポートするとは言ったものの、探偵はその笑顔に不安しか感じなかった。
暖簾を潜り、死体を置き去りにして家族湯を後にする。従業員らに話を聞くため、食事処へ向かった。
「俺は離れて会話を聞いているから、嘘だと分かったら合図する」
「どんな風にですか?」
あとりの問いに、京介は少し考える素振りをして、黒手袋の人差し指と中指をクロスさせて見せる。
「……幸運を祈る?」
「嘘吐いてます、という意味でもある」
へえ! と彼女は感嘆した。知らない事もあるものですね、と感想を漏らしながら、聞き逃しが無いよう、供述の録音に使おうとスマートフォンを取り出した。
「聞き込みで、真相がどこまで明るみになるかは分からないが……とにかく余計なことは言わず、あくまで聞くに徹しろよ」
「ふぁい」
意図を持った聞き取りに慣れていなさそうな彼女に京介は忠告するが、あとりは二つ返事でスマートフォンを操作する。
ロック画面を解除すると、朝からしばらく開いていなかったからか様々なアプリのポップアップが表示された。慣れた手つきで処理していくが、その内動画配信アプリの通知に指が触れ、開いてしまう。
「あらら、今これじゃないの――ん?」
アプリを閉じようとした指が止まる。その両目は、画面に釘付けになっていた。一階へと続く階段の踊り場で、足が止まる。
昨夜京介が言っていた『この宿で出会う人間の全てが嘘』という謎。それが、あとりにはこの一瞬で解き明かせた気がした。
「秋月さん」
何かあったか、と振り返った京介に向き直る。彼を見る
「……今日のいいこと、今あったかもです!」
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