client.2‐7

 月明かりを厚い雲が消した夜半よわ、彼はそれを見つけてしまった。心臓を直接掴まれたように一瞬動きが止まり、呼吸が苦しくなる。

 仄暗い血溜まりに、少女は沈んでいた。血の気を失った顔は、それでも生きることを諦めないかのように虚空を見つめている。

「……灯火とうか

 遅かった。何もかも手遅れだった。駆け寄り、微かに震える声で名前を呼ぶと、薄い紅茶色の瞳が瞬いて彼を見た。いつも自慢げに揺らしていた瞳と同じ色の長い癖毛は、赤黒い血で汚れていた。

「……あれ、京介……来てたの」

 場違いに明るく振る舞う声の調子とは裏腹に、荒い呼吸は徐々にゆっくり、か細くなっていく。

「何かね、もう痛くないの……見た目より……安心して」

「分かったから……もう喋るな」

 腹の傷は目を逸らしたくなるような深さで穿うがたれ、止めどなく溢れる血は傍らでひざまずく京介の足を染めた。灯火の体温を、血溜まりからぬるりと感じる。

「……あは、京介も悲しんでくれるんだ」

「…………お前は人間の心も読めるようになったのか」

 彼女は口の端を上げた。もういつもの笑い声は聞けなかった。

「……カマかけただけ……でも、悲しいって思ってくれてるのは……嬉しいな」

 す、と薄く呼吸してまぶたが下りる。そのまま彼女が目を覚まさない気がして怖くなり、もう一度名前を呼ぶ。何だか眠たくなってきた、とゆっくり薄目を開けた少女は、京介の手の甲にそっと触れた。

「いっぱい……後悔してるでしょ、ああすれば、こうすれば……って……何か、ごめんね……」

 何から間違ったかなんて、彼には痛い程分かっていた。あの時の彼女の言葉が嘘だと言うことくらい、自分は分かっていたのに。その言葉を信じて行かせなければ。

 慙愧ざんきの念に爪が食い込む程握った拳を、しかし灯火の手は柔らかく包み込んだ。京介ははっとして彼女の手にもう片方の手を重ねた。指はもうほとんど冷たくなっていた。

「でもね……京介……いっぱい後悔して……それに疲れたら――また、誰かを……信じて、ね」

 そう言って灯火は震える手を彼の手に重ね、最期の力を振り絞って握った。彼女はふっと目元を弛め、傍らで震える男を瞳に焼き付けるように見遣る。笑ったようだった。京介の両手の甲に、今際いまわの言葉と共に残りの体温が刻まれる。


「誰かを……慈しんで、生きて」



「――――!」

 椅子の上で目を見開き、京介は肩で息をしていた。夢にしてはやけに質感が生々しく、まるであの瞬間に臨場しているかのようだった。手の甲にはまだ、生温かい血の感触が残っている。全身からは汗が吹き出していた。

「…………」

 黒い両手で顔を覆い、息を整えるように深呼吸する。瞼の裏には先程の惨劇が焼き付き、耳の奥には彼女の最後の一呼吸がこびり付いていた。じっとりと濡れた首筋に真夜中の無機質な空気がまとわりつき、背中の怖気と繋がって身体を震わせる。

 ゆっくりと目を開け周囲を見渡すと、ガラス窓と障子に囲まれた狭いスペース。そうか、自分はいつの間にか眠っていたのだと記憶を紡いだ。壁にかかったアナログ時計の針は、緩慢な動きで三時半過ぎを指している。

 宵闇の静寂に消し忘れた深夜のバラエティの音が響き、障子越しにちらちらと光が瞬いていた。そっと戸を引くと、あとりの寝息がすやすやと聞こえる。

 それらの物音は京介を少し現実に引き戻した。震える膝を黒い手で押さえ付け、立ち上がる。再び目を閉じようものなら、またあの悪夢に引き戻されそうだった。二枚の布団にまたがり大の字になって眠る少女の脇をすり抜け、足早に部屋を後にする。

 とにかく、彼は落ち着きたかった。

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