client.2‐8

 汗を流し熱い湯に浸かって初めて、京介は一息吐くことができた。白濁した湯に、身体の芯の震えが溶けていく。岩を積んだ露天風呂には他に人の姿はない。彼の吐く息と木々のざわめき以外は静まり返っていた。

 天を仰ぐと植栽の隙間に無数の星が瞬いている。湯煙は深夜の春風に揺らめいて、その光景を幻想的に浮かび上がらせていた。

『誰かを……慈しんで、生きて』

 耳の奥で甘く鳴る、灯火の最期の言葉。し尽くせない程した後悔が、今に蘇る。いつも他人の胸の内を見透かすような事を言う奴だった。きっとあれも、京介の行く末を心から案じてかけた言葉だろうということは、彼も分かっていた。だからこそ、大切にしたかったのに。

「……」

 身に巣食うわだかまりとともに、首まで湯に沈める。あれから数年が経つが、彼はその資格さえないと思っていた。死なせてしまった少女に対する後悔が、彼女の最期の願いに相対する己にじわじわと染み込んで蝕んでいく。

 知りたくなくても、聞きたくなくても他人の嘘を感じ取ってしまう京介にとって、他人やその言葉を信じることは非常に難しいことだった。ましてや嘘の奥に潜む思惑を信用するなど。信用したツケが大切な人の死であったなら、最初から全ての嘘を拒絶してしまいたいくらいだった。

 いつしか貰った言葉は、呪いのように重く圧し掛かっていた。

 何で、最期の最期に、そんなことを。

「…………灯火」

 奥歯で噛み潰すように小さく呟き、手袋のない白い両掌で顔を覆った。両手の甲の傷痕が、星明かりで露わになる。醜く皮膚が剥がされ、所々の薄皮が引きれて痛々しい。表皮を失った肌は、グロテスクな肉色をしていた。

 それは彼自身の手で剥がしてしまったものだった。灯火が死んだ後、彼女の失われていく体温とぬるりとした血の感触が、己の後悔とともに押し寄せてどうやっても離れなかったのだ。傷は塞がっているが、悔恨の痛みは消えなかった。

 返ってこない問いを握り潰すように両手を握り、閉じた瞼に押し付けたその時。

「お兄さん、その手の甲……凄いね」

 慄く声にはっとして、我に返った。目の前にはたった今露天風呂に来たばかりと思しき、三十代くらいの男が立っている。京介は白い顔で平然を装い、両手を湯に沈めた。

「この時間なら誰もいないと思って来たんだけど……お兄さんも朝風呂派?」

 宵闇の風に湯煙が揺れる。男は飄々と言って黒髪を後ろに流し、湯に浸かった。短く整えられた顎髭と彫りの深い顔立ちは、軽薄そうに笑う。夫婦で来ていた客か、と探偵はようやく気が付いた。

「良いよね、真夜中の温泉」

「……」

 男の独白に京介は言葉を紡がず、ただ立ち上る湯気に目を向けていた。溢れた湯が流れていく音と男が吐く溜息、風にそよぐ松の葉の香りが五感を支配する。先程までの仄暗い思考が一旦停止し、ただ白濁した湯に溶けていった。細く長く、深呼吸する。

 再び沈黙を破ったのは、やはり男の方だった。

「こんな時間に一人で?もしかして一緒に来てた彼女と喧嘩でもしたの?」

 絞った手ぬぐいを頭に広げ、まあ俺も他人の事言えないけどねえ、と独りつ。同行している少女は彼女ではないし喧嘩してもないが、今の京介に否定する気は起きなかった。ただ揺れる水面に視線を落とす。

「お……図星かな。仲直りするならお早めにね。色々話がこじれる前に……これ、人生の先輩からのアドバイス」

 軽薄そうに笑う彼からは酒の匂いが漂った。温泉って酔いが回るなあ、と星空を仰いだ彼との問答がわずらわしくなり、

「…………どうも」

 京介は小さく会釈し、早々に湯を後にした。



 カラスがようやく目を覚まし、明けたばかりの静かな空に一啼きする頃。茶髪の大学生はひとり、宿の廊下を歩いていた。

「ったく……あいつら全然起きなかったな……」

 春本番とは言え、空調を切った明け方の空気はしんと冷えていた。浴衣姿で裸足をスリッパに突っ込んだその姿は寒々しい。

「あー……カメラ忘れたな……まああいつらがどうとでもするか」

 スリッパをパタパタ言わせ、今頃部屋の布団でぬくぬくしているであろう眼鏡と坊主を脳裏に浮かべる。

 早く用事を済ませ、暖かい布団に戻りたかった彼は二階の家族湯へと急いだ。人の気配がしない廊下は静まり返っていた。

 休憩室を通り過ぎ、家族湯の暖簾の前に立った。入口には『清掃中』の看板が出しっ放しになっている。この看板が出ている限り、ここは永遠に清掃中だ。

「これなら誰も入らな――」

 看板を避けて揚々と暖簾のれんを潜った彼は、その先の光景に言葉を失った。

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