client.2‐5
何らかの理由で全員が嘘を吐いている。疑惑が確信に変わった京介は温泉宿の外周やマイクロバスなどを調べ歩き、部屋に戻った時には日が少し暮れ始めていた。鶯の間の戸をからりと開き、あとりがいるはずの部屋の襖戸に手をかける。
部屋はもぬけの殻だった。外出でもしたのだろうか。
ふと座卓に目を遣ると、投げ出された部屋の鍵とメモ帳の書き置きが残されていた。
『温泉に行ってきます! あとり』
「……あいつ、鍵かけないで出て行ったな……」
不用心な奴め、と悪態を吐きながら部屋を歩き回る。先程調べた宿の外周やマイクロバスには、特に異常はなかった。もしあるとしたら客室など、温泉宿の屋内施設か。
床の間の前に立ち、黒い指が鶯の掛け軸に触れる。それ自体は何の変哲もない美術品のようだったが、手袋は埃で白く染まった。
「……」
京介は表情を変えずに、埃を叩いて落とした。窓の外の風景に視線を向けると、夕暮れ時を迎えた外の植栽は橙色に照らされている。暗幕を引き景色を遮ると、光源を失った部屋は闇に包まれた。暗闇の中、彼は黒手袋で顎を摩り思案する。
「はふん……善きかな善きかな……」
白濁した湯に浸かり、あとりは恍惚と目を細めた。栗色の髪は湯につかないよう結い上げられ、白い首筋が露わになっている。立ち上る湯気は夕陽色に染まり、木々のざわめきと共に景色に溶けていった。
他に客はおらず、女湯の露天風呂で彼女は思う存分足を伸ばして浸かっていた。ちゃぷ、と肩湯を掛けながら、この旅に同行する男の仏頂面を思い浮かべる。
「秋月さんとのなかよし大作戦、上手くいってるかなあ……」
何食べても通常運転だったけど、と昼食に披露された抹茶コーヒーを思い出す。京介について、あとりはひとつ発見したことがあった。
特に美味しいものを食べた時、彼はほんの少しだけ目元が緩むのだ。といっても一ミクロンほどの違いで、本人も気づいているかは分からないし、変化と呼ぶにはかなり微妙だが。
それによれば、旅館のご馳走よりあとりの何でもない手料理の方に軍配が上がっているらしかった。ふへへ、とこぼれ落ちる笑みで湯煙を揺らす。
混ぜ物ドリンクを嗜好するあたり、もしかして味覚が死んでいるのかと思っていたけど。多分、不味いものに対するストライクゾーンが広いだけなんだ、と納得した。上り始めた白い月を仰ぎ、ひとり満足気に呟く。
「温泉来てよかったあ」
少しずつ、あの笑わない探偵のことを知っていこう。だってこれからも一緒に働くんだから。
試用期間という言葉が頭からすっぽり抜け落ちたまま、彼女は熱い湯を後にした。
「さーて、温泉の醍醐味といえば湯上がりの牛乳と……これこれ!」
浴衣に身を包んだあとりは、湯冷ましを兼ねて牛乳瓶を片手に休憩室を訪れた。温泉同様、貸切状態のそこには四台のマッサージチェアが整然と並んでいる。
うち一台にぽす、と腰掛け、すかさずスイッチボタンに手を掛けたのだが。
「……あれ?」
革張りの椅子はうんともすんとも言わなかった。ボタン押す前にお金入れるタイプ? ううん、違う。おかしいなあ、と立ち上がり隣の椅子に腰掛けるが、やはり動かない。その隣もさらにその隣も、動く気配は微塵もなかった。
「んんんー?」
もしかして調子悪いのかも?と思うことにして、あとりはマッサージチェアを諦め休憩室を後にした。
「お風呂お先にいただきました――って暗っ!」
帰ってきたばかりのあとりが浴衣を翻し、部屋の暗さに慄いた。湯上がりらしく栗色の髪は結い上げられ、頬は少し上気している。すかさず明かりを点けようとする彼女に、
「いい、点けるな」
京介は短く制止する。え、とその場で固まるあとりに、素早く接近した。黒手袋が今しがた開かれたばかりの襖を閉め、一分の隙もなく部屋は漆黒の闇に覆われた。
「あとり」
彼は背後から少女の耳元で囁く。湯上りの首筋が、仄かに香った。
「……少しの間黙っていろ。スマートフォンを持ってるか」
あとりはどぎまぎしながらこくこくと頷き、黙ってスマートフォンを取り出した。京介の指示でインカメラを起動する。
「借りるぞ」
「あ」
彼女からスマートフォンを取り上げ、彼は部屋中を隈なく歩き回った。何事かと、あとりも後ろについて見る。液晶の明かりだけが、室内をぼんやりと照らした。
カメラを部屋のあらゆる角度に向け――探偵はある地点で止まった。
「……!」
「……ここか」
部屋に備え付けられたエアコン。その吹き出し口を収めた画面には、小さな光が不自然にキラキラと瞬いていた。他の箇所で同じ光が見えないことを確認し、京介はスマートフォンをあとりに返す。彼は部屋の隅の椅子を静かに引き、踏み台にしてエアコンを触った。
「明かりを点けてくれ」
「……はい!」
言われた通り照明を点けると、そこには椅子から降りる京介の姿があった。その黒手袋は小さな何かを掴んでいる。あとりが駆け寄って見たものは、
「カメラ……?」
小型の隠しカメラだった。小さなレンズは、たった今京介が握り潰したようで割れていた。彼はそれを迷わずゴミ箱へ放る。
「客を隠し撮りするとは良い趣味だな」
椅子を元の位置に戻しながら、探偵は頭を振った。
「カメラってああやって探すんですね! すごい!」
「……楽しそうだな」
目を輝かせるあとりに、京介はどっと疲労が込み上げてくる。彼女はゴミ箱の中身を覗き込みながら、心底不思議そうに呟いた。
「でも、何のためですかね? 満足度調査的な?」
「……だとしたら、余程熱心な宿だが」
京介はエアコンを触ったばかりの手を広げて見せる。黒手袋は綿埃で白く汚れていた。手を叩いて埃を落としながら嘆息する。
「ここだけでなく、掛け軸や部屋の隅にもよく見たら埃が溜まっていた」
「そんな姑みたいなことを……」
「やかましい」
将来お嫁さんに嫌われますよ? と呆れるあとりを無視し、京介は続ける。
「従業員が言っていた、ここが人気の部屋という言葉は嘘だった。恐らく普段はそれほど客入りはないのだろう。そして、この宿で聞いたほぼ全ての言葉は嘘だ」
どういう訳か、と腕を組み考え込む。あとりは目を丸くした。
「全てって……どこからどこまでですか?」
「バスの中では気にして聞いていなかったから分からないが、少なくとも宿に入ってから聞いた言葉のほとんどだ。従業員だけでなく、他の客も」
彼女はお客さんも!? と浴衣の袖を揺らして驚く。声は和室に反響した。
「何か変わった事はなかったか」
「温泉は普通に気持ちよかったし……うーん……あ」
そういえば、と何かを思い付いたように人差し指を立てる。
「温泉帰りにマッサージチェアに座ったんですけど、全部動かなかったです!」
やはりそうか、と京介は黒手袋で顎を摩る。
「壊れているのか、電源から抜かれ束ねられたコードが埃を被っていたからな」
「ええ……気づかなかった」
感心するあとり。探偵と同じように頬杖をつき、温泉宿に来てから今までのやり取りを一から振り返る。そしてはっと気が付いた。
「てことは、あの学生さん達が私に可愛いって言ってきたのも嘘ってことですか? はあああん喜んで損した……」
「……それは残念だったな」
京介は頭痛がした。別にその部分は嘘でも何でもなかったが。
「……にしても、何でそんな事するんでしょう? ドッキリですかね?なら良いですけど」
と浴衣の裾を折り、畳に座るあとり。その言葉に彼は眉根を寄せる。
「全然良くないだろ……温泉宿が見栄を張りたいだけなら良いが、客も仕込みだとしたら最早思惑が分からない」
探偵の言葉に一瞬、空気が固まりかけたが、
「案外楽しい事をやろうとしてるのかもしれないですよ?後でネタバレしてくれるなら私はそれでも良いです」
それに臆することなく、彼女はにへら、と無防備に笑う。京介は反論しようと口を開きかけたが、その笑顔に何も言えず閉口した。
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