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 玄関の呼び鈴が鳴ったのは昼過ぎ頃のことで、あとりは床掃除と溜まりに溜まった食器洗いを終えたところだった。

 来客用のソファーに通された女性は、青白い顔で俯いていた。頬は痩せこけ、白いワンピースから伸びる手足も総じて骨張っている。長いストレートの黒髪が肩から背中へ、のっぺりと身体のラインに張り付いており、彼女の線の細さを強調していた。

「早速ですが、今日はどういったご依頼でしょうか」

 向かいのソファーに座る京介が切り出した。急いで髭を剃らされ、無精髭は跡形も無くなっている。依頼人――副島そえじま静香は視線を落としたまま、口を開いた。

「こんなことを探偵さんにお願いして良いか分からないのですが……実は夫を撒いてほしくて」

 副島は膝の上で裾を握り締めながら、ぽつりぽつりと語り出した。

 彼女は夫と二人暮らしで、持病のため仕事を休職しているという。日中、調子の良い日は外に出て気晴らしをするのだが、心配した夫が度々仕事を抜け出しては、彼女を遠くから見ているのだそうだ。

 最初は気付かないふりをしていたが、次第に監視されているように感じるようになってしまう。

「ご主人に直接話してみては」

「それがなかなか言いづらくて……主人は私が起きるより早く出勤し、就寝した後に帰って来るので、そもそも会話の機会が少ないんです。私への心配から、そのように仕事を抜け出しているとは本末転倒のようにも思いますが……でもたまには私も、誰の目も気にせず歩きたいんです」

「旦那様の愛が重いですね……」

 ソファーの傍でしみじみと呟くあとり。お前はあっちでお茶入れてこい、と京介につまみ出された。

「ちなみに本日はどのようにしてこちらに」

「今日は月に一度の通院の日と言ってありますので……今朝主人に病院前まで送ってもらい、主人が仕事に行ったのを見計らってタクシーで来ました」

 どうぞ、とあとりはお茶をテーブルに並べた。京介の前には本人の希望通り、中身の違うマグカップを二つ用意した。

 京介は右手の緑茶を啜って依頼を総括する。

「ご依頼内容をまとめると、あくまでご主人には我々の存在に気付かれないよう注意を払いつつ、副島さんをお逃がしするという事でしょうか」

 副島は静かに頷き、出来れば明日から三日間、と付け加えた。

「三日間ずっとですか!?」

「お前は黙ってろ」

「日中だけで構いません……午前中に家を出てから夕方に帰ってくるまで。謝礼はいくらでも致しますので仰って下さい」

 どうかお願いします、と頭を下げた。艶のない髪がぱらりと零れ落ちる。京介は少し考えてから、

「承知致しました、では詳しい打ち合わせをさせていただきます」

 依頼を承諾した。



「ああいう依頼はよく来るんですか?」

 依頼人が帰った後、客のカップを片付けながらあとりが聞く。

「……いや、そう多くは無い」

 黒手袋の人差し指がマグカップの縁をなぞり、何か腑に落ちないように考え込んでいる。

「本来ストーカーから本人を守るのは警察なんかの仕事だ。が、恋人同士のどうでも良いいざこざのような、警察が相手にしない軽微なストーカーの場合は引き受けることもある。しかし今回は相手が同居する夫で、外出の邪魔にならない程度に姿をくらませる手伝いをする内容だ」

 さらに、と付け加える。

「依頼人の言葉に嘘は無かった」

「うーん、でももう引き受けちゃいましたし。よーし明日から頑張るぞー」

 深く考えない主義なのか、あとりはやる気満々だ。

「いや、お前は留守番だ」

「えー! 何でですか!?」

 右手の緑茶に左手のコーヒーの残りを流し入れながら、京介はさも当然といった表情で言う。あとりは不満顔だ。

「こういう人に勘付かれてはいけない仕事は、複数人で行うとバレる確率が上がる。お前にはそもそも雑務以外求めていない」

 緑茶コーヒーを傾けながら、黒い人差し指があとりに突きつけられた。

「足手まといは置いていくから、大人しく掃除でもしてろ」



「付いて来ちゃいました☆」

 張り込み一日目の午前十時過ぎ、副島邸近くのコンビニで京介は頭を抱えたい気持ちになった。こっそりと出て来たつもりだったが、どうしても同行したい彼女を振り切ることができなかった。凄い執念だ。

「……留守番していろとあれほど」

「だって仕事を学ぶには現場で吸収するのが一番――あ! あれ副島さんじゃないですか」

 指差す先に副島がいた。昨日のワンピース姿とは違い、モスグリーンのシャツにジーンズ、生成りのトートバッグと、地味な出で立ちだ。周りを少し気にして見回し、駅の方向へ歩いていく。

「秋月さん、見失っちゃう前に行きましょう!」

「いや、待て」

 Tシャツの首根っこをつかんで制止する。副島の五・六十メートル後ろに潜み、電柱の陰から彼女を凝視する不審な男を黒手袋が指差した。品の良いスーツに身を包み、髪をきっちりと整髪剤で固めた男は、心配そうに副島の足取りを見つめている。

「あれが夫だ。事前に依頼人から聞いていた外見とも合致する」

「なんて分かりやすい尾行……!」

 コンビニから出て追おうとするあとりを再度抑え、京介が厳しい口調で言う。

「いいか、今から依頼人と夫の双方に悟られないように後をつけるが、妙に目立ったり、こちらから二人に声を掛けたりするのは駄目だ。もし守れなかった場合は即刻クビにする」

 了解です! と即答する彼女の笑顔に、京介はどっと疲れを感じた。

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