第2話《後編》





「で、添い寝はしてほしいかい?色男」



そう言いながら、長い黒髪を垂らしてヴェルダは私の顔を覗き込んだ。



「必要ない」

「あっそ」



あっさりと私から離れた女は、私の対面にある椅子に戻ると酒の入ったグラスを傾けながら一冊の本を開いた。


先程のことが無かったかのような態度に些か動揺するも、酔いが回った頭では深く考えられない。

そもそも、私自身も彼女に無体を強いてしまった身だ。

口付けされたからと言って、その事に意義を立てられる立場ではない。


酔いで止まっていた思考はヴェルダの強烈な頭突きによって、少しは覚めたものの未だフラつく身体には酒精が残っているのだろう。

そうと分かっていながら、私は懲りずに酒の入ったグラスに手を伸ばした。


酔って見知らぬ女を襲いかけたというのに、どうしようもない。

分かっているのに、今日だけは酒の力を借りて眠りにつきたかった。



そんな愚かな私に気づいているはずなのに、ヴェルダは何も言わない。

先程の、男もたじろうほどの気っぷのよさは、今は影も形もない。


緩く巻かれた黒髪を耳にかけ微かに首を傾げながら本を読む姿は、男ならば思わず声をかけたくなるほど絵になっていた。



何故、この女は今ここにいるのだろう。



見知らぬ男を自分の店に連れてきて、自前の酒を飲ませる。

これだけなら、男を誘っているのかとも思える行動なのに、いざ襲われかけたら頭突きをするわ、説教するわ、挙げ句、口付けしてきたくせに、その後は放置である。


考えれば考えるほど、よくわからない女だ。




…こんな女でも、愛した男を失ったら嘆くのだろうか。



「…お前には、惚れた男はいないのか」

「なんだ。私に興味がでたのか」

「こんな暴論女に好かれるような男はどんな奴かと思っただけだ」



勘違いするなと私が吐き捨てれば、ヴェルダは可笑そうにケラケラと笑った。

口元を押さえて控えめに笑うアイリーンとは全く違う。


けれど、その違いが今の私には心地良かった。



「私を抱きたいなら、十日毎夜に私の好きなものを一つ必ず持って来なよ。連夜で会いに来たら、その時は、十一日目の夜に抱かれてあげる」

「は」

「その間に私が誰かに惚れたら、その話は無しだ」



呆気に取られる私に、ヴェルダは口角を上げてニヤリと笑った。


なぜ、そんな話になる。

この女が、失恋した時にどんな姿になるのか興味が出たから惚れた男がいるのかと聞いただけだ。

誰もお前を抱きたいなど言っていない。


呆れ過ぎて言葉にならない私を放ってヴェルダは尚もニヤけながら言葉を続けた。



「惚れた男以外の男に抱かれる器用さは私にはないからね」

「誰もお前を抱きたいなどと言っていない」

「手ぶらで会いにきた暁には、その話は無かったことにしてあげる」

「聞け」



やっと言葉になったのに、ヴェルダは構わずに続ける。

話の通じなさに、酔いとは別の頭痛がしてくる。

思わず顳顬を押さえた私に、ヴェルダはニヤニヤとした笑みを向けてきた。


どうやら、完全に揶揄われていたらしい。


私は肺の中の空気全てを吐き出すほどの息を吐いた後、グラスに残った酒を一度に飲み干した。


吐き出した息と喉を通った酒精の熱さで、幾分か気分も変わる。

今度は満足げに息を吐くと、コツンと水の入ったグラスを差し出された。



本当に、変な女だ。



「私はお前を抱くつもりはないが」

「あっそ」

「連夜通って、お前の好きな物を渡すだけ。それだけで身体を許すなど、随分簡単だな」

「そうかな?」

「結局は、誰でも良いと言ってるようなものだろ」

「ンな訳あるか」



にやけた顔が不快そうに歪んだ。

ヴェルダは開いていた本に華奢な形の栞を店内の棚から取り出すと、それを挟んで本を閉じた。


売り物じゃないのか、それは。



「私は私が大好きだからね」



酒の入ったグラスに厚い唇をつけると、ヴェルダはその酒を残さず飲み干した。

そして、濡れた唇を指で拭うと私に向かって琥珀色の瞳を細めた。



「だから、私のことを好きな男が、私が惚れる男の第一条件なんだよ」



獲物を捕らえた猫のような瞳に、私は思わず視線を逸らした。



「そうか」

「そ。ってことで、あんたのことを襲ったりはしないから、安心して酔い潰れなよ。寝れないなら愚痴くらい聞いてやるから」



そう言ったヴェルダの言葉は、今までより幾分か柔らかく感じて、思わず視線を戻せば先程の猫のような瞳はどこにも無かった。
















それから私は、何故か未だにヴェルダとの交流を続けている。


初めて会った日に酔い潰れ一夜を共にしたとはいえ、互いに健全な関係のまま。


私は手ぶらで、何度も彼女の店に足を運んだ。



それは、ヴェルダの店の雑多な品揃えに興味を惹かれたというのも理由のひとつ。

あの女が集めた書物の不可解さに興味を惹かれたのも理由のひとつ。

日々の暮らしに過ぎるアイリーンの陰に締め付けられた胸の痛みを忘れるために、彼女の作った酒を求めたことも理由のひとつ。

男顔負けの気っぷの良さを持ちながら、深入りも無理強いもしてこないヴェルダの態度に居心地の良さを感じたのも理由のひとつ。



そんな彼女と交流する内にいくつかの季節が過ぎていった。



そんな中、変わったこともある。


私の目の前からアイリーンを連れ去って行った男とアイリーンが別れたのだ。

身分違い故の別れだったという。


アイリーンは男爵の娘だが、あの男は平民だ。

男爵程度なら、婚姻相手に平民を選んでもさして問題は無いであろうが、アイリーンの父親が反対した。

元々は、子爵家の三男にあたる私との婚姻を考えていた男爵は、まさかその娘が平民の男を選び私を振ることになるとは思ってもいなかったようだった。

そして、幾度も私の家に頭を下げにきたようだが、男爵家が子爵家との婚姻を断ったうえで再度婚姻を結ぶなど家門が許さなかった。

そこで私が強く父に訴え、アイリーンを愛していると告げれば、その婚姻もなんとか結ぶことはできたかもしれない。


しかし、私はそうしなかった。


未だアイリーンを愛する気持ちはあった。

けれど、彼女は他の男を愛していると私とは別の男の腕の中で泣いたのだ。


そんな彼女に、手を伸ばすことができなかった。



私の手で婚姻を拒絶した日も、私はヴェルダの店で浴びるほど酒を飲んだ。

飲んで、飲んで、飲み干して、自分の情けなさと拒絶される恐怖に負けた自分の不甲斐なさに思わず涙を流してしまった私に、ヴェルダは「ヘタレ」と冷たく言い放った。


本当に、容赦の無い女だ。


それでも彼女は、店を閉じて朝まで私に付き合ってくれた。



それから、男爵が人脈を駆使して探したところ、ある伯爵家の嫡男がアイリーンを見初めたらしい。

社交界でも評判の紳士に、アイリーンも憎からず想っているとのことだった。


そして、私からアイリーンを奪った平民の男は、アイリーンを伯爵家の男に奪われた。

噂では、その男は酒に荒れ、女に荒れ、身を持ち崩しているという。



その噂を私に教えたのは、ヴェルダだった。

店をやっているヴェルダは、案外顔が広い。

同じ平民で、私の口から散々聞かされた男のことも面識は無くても知っていたようだった。



「そいつにも試作の酒を飲ませてやったのか?」

「なんで?飲ませないよ、勿体ない」

「私には飲ませたじゃないか」

「そうだね」



私と会話しながらも、視線は手元の本に向けたまま。

酒の入ったグラスを傾け、緩く巻かれた黒髪を耳にかける。


人と話す気があるのかと問いたくなる態度だが、ヴェルダがこういう女であることを私はもう骨身に染みて理解している。

それに、これでいてしっかり話を聞いているのだから、食えない女だ。


それでも、本に向けた琥珀色の瞳を私に向けさせるために、私は言葉を続けた。



「何故、」

「ん?」



まだ、見ない。



「何故、私にしたように、あの男にもしなかった?」

「好みじゃなかったから」

「は、」



言われた意味がわからず、言葉に詰まった私にヴェルダが視線を寄越す。

この女は、私が話しているときには視線を向けないくせに、私が言葉に詰まるたびに視線を向けるのだ。


琥珀色の瞳を猫のように細めて。



「あんたは、優柔不断な女にキープ扱いされるには勿体ない男だと思ったから。さっさとそんな女のことなんか忘れれば良いと思って、声をかけたんだよ」

「な、」



ヴェルダの告げた言葉を頭が理解した途端、身体中が酒精ではない熱に侵された。



優柔不断な女とは、誰のことだ。

もしや、アイリーンのことか。

なんでおまえにそんなことがわかる。

キープってなんだ、私のことか。

いや、むしろ何でそんなことまで知っている。

まさか、あの時見ていたのか。

私が、アイリーンに振られた、あの場面を。



次々に頭の中に疑問が浮かぶが、私の中をぐるぐる回って何から言葉にすればいいかわからない。


言葉にならない私の様子をニヤニヤしながら見つめる目の前の女。

そうだ、この女はこういう女なのだ。



飄々しているかと思えば、ニヤニヤと人を揶揄い、けれど時に驚くほどの気前の良さを見せつける。

なのに、肝心な時は何も言わずにただ傍に居るだけの女。


まさか、と思う。


考えれば考えるほどに湧き上がる確信にジワジワと熱が上がる。



まさか、


その頃から、


この面倒な女は、私をそういった目で見ていたのか、と。



熱くなる体温に頭がグラグラする。

そんな私の視線の先で、ヴェルダはニヤニヤと笑っていた。



掴みどころのない猫のような女。

私が話しているときには視線を向けないくせに、私が言葉に詰まると視線を向けて揶揄ってくる女。

容赦の無い言葉を投げ捨てるのに、黙って傍に居てくれる情の深い女。

私が苦手だった香水の香りを纏っているのに、書物と酒の匂いが合わさって官能的な香りへと変化させる女。



ヴェルダと交流し始めて、いくつかの季節が過ぎた。

その中で、変わったこともあれば、知ったことも沢山ある。


ヴェルダの好きな物を知ったこともそのひとつ。

今では、私は両手で数えきれないほどの数の分だけ、彼女の好きな物を知っている。



「ヴェルダ」

「何?」



厚い唇が、酒の入ったグラスに触れる。



「あの話は、まだ有効か?」

「どの話?」



傾けたグラスから酒を飲み干して、濡れた唇を細い指が拭う。



「十日連夜の通いの話」



私がそう告げれば、ヴェルダは琥珀色の瞳を細めた。



「十一日後に教えてやるよ」



その、獲物を捕らえた猫のような彼女の瞳を、私は逸らさずに真っ直ぐ見つめ返した。







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十一日後 ゆーく @Yu_uK

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