33 少女からの手紙

 紫苑から手紙が届いたのはその年の十月を半ば過ぎた頃だった。

 

 肌寒い朝に僕は、さっそく封を慎重に切る。その厚みに得心がいく、十数枚の便箋が収められていた。多い。長い。なんだこれは。

 不思議なことに、その見慣れていない文字は彼女の声、彼女自身を僕に思い起こさせた。一種の暗示なのかもしれない。




『本当は百貨店の中にでもある、ファッションブランドのお店の片隅にでも売られているようなお洒落で格式のあるレターセットでも買って、それを使って送ろうとしていたのですが、そうならなかったことをまずお詫びします。ごめんなさい。

 父にも母にも頼らず、家の中をごそごそとしていたら封筒と、それに切手も見つかったので、それを使いました。あなたなら、わかってくれるものだと勝手に期待しているのですが、何も私はこんな前置きをしたいわけではないのです。ただ、時候の挨拶や、あなたの息災を確かめるような定型文、そうした種類の言葉というのが、なんだか照れくさくなって、ついつい、こんなはじめかたをしてしまったのです。許してください。

 最初は万年筆やボールペン、ようするに手紙として相応しい筆記具で私の気持ちとか、そういうのを綴っていくつもりだったのですが、あまりに上手くいかないので諦めました。ところで、本来許しを乞わないといけないのは、手紙を送るのがとっても遅れてしまったことですよね。

 たぶん、私の誕生日か、早ければ前日の夕方にでも届いているかと思います。なにせ私が今こうして手に馴染んだシャープペンシル片手に、便箋とにらめっこしているのは、誕生日前日の午前一時なのです。生まれた正確な時刻を知らないのですが、世間一般に合わせれば、十七歳の誕生日まで二十四時間を切っているのです。十六歳である間に何とか書き上げて送れるよう頑張ります。そうでなければさっきの文章も嘘になってしまうわけですし。

 話が逸れました。

 手紙を送るのが遅れた理由でした。

 あなたと水族館に行ったその夜、私は机に向かって、とりあえずはノートを広げて、さぁ、何か文字に起こしてみようと決意したのです。語りたいこと、伝えてみたいことは山ほどあるように感じていました。聡明なあなたのことですから、察してくれるでしょう。最初の一字を書くのに、私はかなりの時間を要しました。何も完璧で完全な、何世紀にもわたって語り継がれ、大勢に晒されるような手紙をしたためようとは思っていません。もちろんです。

 つまりは何から、何を、どこまで、どうやって、どんなふうに書いていけばいいのか、わからなかった。そういうことなのです。

 

 あの日から今日に至るまでを書こうとすると、一日では足りない気がします。

 要約すれば損なわれるものが多すぎるのです。といっても、なにか劇的な出来事が立て続けに私を襲っては、私を変えていったということはありません。

 思い返せば、そのようなインパクト、ターニングポイントはなかったはずです。当然、月並みなことを言うのを自身に許すのなら、人生は選択の繰り返しなのですから、一瞬、一瞬が分岐であるのですが。


 ふと思います。丁寧語、すなわち、ですやますをわざわざ書き足して字数をかせぐのは、くだらない作文の課題であったり、二学期の始業式の朝に残っているのが判明した読書感想文だったりだけでいいのではないのかと。もう話し口調でもいいでしょうか。いいよね。


 さて、お手洗い休憩を挟んで、ここまで一通り読んでみました。ひどいものですね。しまった、敬語はやめるんだった。

 さて、と二段落連続で記すけれど、三つほど報告するので聞いて。なんだったら四つ、五つになるかもしれない。


 一つ目。傘は大事にしまうことしたよ。亡き兄の形見の一つにあたる、あの丈夫な黒い傘。注意深く使っていたけれど、骨が一本折れちゃって、怖くてもう使えない。もう使わない。しまっておく。こうやって私はまた一歩前に、つまり未来に踏み出せるのだと思う。大袈裟だけれど、間違いではないはず。あなたに譲ることを考えたときも過去にはあったけれど、そうしなくて正解だったって今は思う。悪い意味ではないの。信じてね。いっそ使い物にならなくなるまで使ったらどうだろうって思いもしたけれどやめておいた。

 せめて黒色じゃなかったらな。カラスとか喪服とかと同じ色じゃん。前はピアノだって言っておいてなんだけれどね。

 傘が形見だなんて妙よね。相合傘をした思い出だってないのに。いつか忘れるんだろうね、しまったのを。それでいいんだよね。


 二つ目。茜と響子のこと。あなたはふたりと直接話したことは一度もないんだよね。私が一方的にあなたに話を聞かせただけ。べらべらと話したくもないんだけれど、いちおう触れておこうって思って。特に茜については。

 と言いつつ、まずは響子のことを話すね。例の彼氏とは順調に仲を深めているんだって。最後までしたかどうか聞いたら、まだだって言っていた。

 信じられる? 私はびっくりしちゃった。だってね、もうあの子たち付き合って四か月ぐらいだよ。思春期の高校生たちならところかまわず盛っているんじゃないの。こんな品性の欠片もない偏見を響子には言わなかった。誰にもこれまで言わなかった。わざわざここでそういう部分に触れたのは、たぶんあの子が無邪気に彼氏との話をしてくるとき、私は複雑な気分になっているからなんだと思う。

 一種の嫉妬なのかな。響子のほうが普通なんだって思っちゃうわけ。かっこいい男の子と恋愛して、触れあって、気持ちも身体も重ねて、みたいな。

 どんなに自分が朋香への気持ちを恥じていなくても、心細くなってしまうときってあるんだ。だから、ついついネットとかでレズビアンの人たちの話なんてのを探して読むこともあって。あれ、話逸れている? でも消すの面倒だから消さない。

 わかってほしいのは、私は私なりに、ようは性的マイノリティーとかいうやつに悩みはしているってこと。そこを主張してもどうなるって感じでもあるけれど。少数派ってだいたいつらいよね。お金持ちや権力者って少数派なのにね。


 茜の話をします。する。逃げていてもダメだね。


 私は茜に打ち明けたの。朋香に対する想いを。「そっか」って言っていた。あいつ、そうやって受け入れてくれた。応援するとは言わなかったけれど、あいつの目、逃げていなかった。

 本人に言っていないけれど、私は真剣に、あの子が次の恋を見つけてくれるのを願っている。その相手が男でも女でもいい。それはあの子しだい。とにかくあの子が幸せになれればって本気で思っている。

 それって悪じゃないよね? 振った私が悪いことしたなって悔やむのは違うよね。これって保身しているだけかな。茜とは今のところ、友達を続けている。夏休みに入る前は、ふとした瞬間、たとえば茜と手や肩が触れ合ったときに、「あっ」ってなったの。それだけなんだけれど、それで十分みたいで、茜も同じく「あっ」って顔をする。そういうのがここ最近はなくなった。

 

 茜とは友達でいたい。よし、書いた。間違いない私の気持ちだ。

 四時間ほど眠ります。日曜日でよかった。


 

 起きました。


 

 現在時刻を明記。(アリバイに使えるかも?) 

 午前八時四十八分。朝食などの、するべきことを終えた段階です。

 午前中に投函すれば明日には間に合うよね? そんなに遠くないし。そうだと信じて、頑張るよ。


 三つ目はもちろん朋香とのこと。焦らしちゃいました。

 後に回したのは失敗だったかな。

 結論を先に示します。恋人になれていません。

 そうなんだよね。書いてみて、気が滅入っちゃう。


 夏休みの終わりに朋香は一度、元いた町に出かけたんだって。

 勘違いしてはいけないのは、彼女は友達に会いに行ったのではないということ。彼女を気にかける子は、彼女が自分の部屋に閉じこもっていたときだっていたはずだけれど、とにかく今はもう交友らしい交友はないそうなの。

 連休の少し前、茉莉花さんの弟君から朋香のもとに電話があった。転校前から変更されていない朋香の電話番号を彼はきっと朋香の友人だった人たちの誰かからでも聞き出したのだと思う。弟君が言うには、姉の、つまり茉莉花さんの部屋を整理していたら、どうも借り物らしきアルバムを見つけたので連絡した。おそらく今、あなたは首をかしげなかったかな。私は朋香から聞いた時、そうだったし、朋香も弟君から聞いた時は、何か聞き間違いかと思ったみたい。

 アルバムはアルバムでも、ミュージックアルバム。オーディオトラックの集合。コンパクトディスク。けれども、そのことを弟君が明らかにしてなお、朋香には身に覚えがなかった。茉莉花さんにそんなの貸した覚えがなくて、まず朋香はスマートフォン以外で、音楽を聴きはしなかった。


 朋香は弟君に尋ねたわ。その音楽アルバムが私のものだという何か根拠があるのかって。すると途端に、彼は厳しい口調で巻くしたてた。そんな根拠なんてないが家を訪ねてきてほしい、姉が死んでからまだ一度も訪れていない、あんたはこの家に来るべきだって。

 朋香は不安を抱きつつ、そこへ行くことに決めた。茉莉花さんのいない家にね。

 おずおずとやってきた彼女に対して、茉莉花さんの家族は、例の弟君も含めて、優しく対応してくれた。これは朋香の推測だけれど、あれほど親しかったはずの朋香が姉の葬式に顔を見せることもなければ、別れの挨拶をしに来ないのを弟君は怒っていた。それは悲しみを和らげるための方法の一つだった。なるほど、と私は思った。でも、それは本人を前にしてしまえば、消えてしまったの。

 所詮は、無理やり舞わせた砂煙みたいなものだったのよ。


 さて、手も疲れてきたから後は短くまとめるね。

 

 朋香たちの見立てでは、その茉莉花さんの趣味とはまるで合わない音楽アルバムは茉莉花さんが朋香への贈り物として買ったはいいけれど、渡せなかったものだった。

 調べてみたらそれは茉莉花さんが亡くなる二週間前ぐらいにリリースされたもので、いわゆるヒーリング音楽のアルバムだった。それを理由に、弟君は朋香からの借り物か朋香へのプレゼントかだと判断したわけ。それで確認したら朋香の所持物ではないのが判明したから、プレゼントかなって。とにかく朋香はそのアルバムを譲り受けることとなった。


 近々、私は朋香からそれを借りることになりそうです。

 しつこく頼んだとかではないの。

 ねぇ、これってすごいことよ。ほんとうに驚き。

 茉莉花さんの形見、遺したものなんだよ。それを数日とはいえ、朋香は私に預けようとしている。そこに茉莉花さんの声や魂が込められていないはずでも、人に易々と貸す代物でないのはわかる。

 理由を聞いたわ、朋香に。彼女は電話口で教えてくれたの。そのアルバム、六つ目のトラックに入っている曲の名前が「紫苑」なんだって。こんなことってあるんだね。運命的って言葉をここで使っていいのかな。

 

 これってある意味で試されているのかな。だとしたら、嬉しい。朋香にとって私が無視できない存在になったってことの証明だと思うから。思わない?』




 僕は九枚目の便箋を読み終わり、十枚目の便箋へと移った。

 丁寧に読んでいるとしだいに早朝と呼べる時間帯でなくなり、少し暖かくなってきた。カーテンの隙間からの陽光は明るい。きっと晴れているに違いない。




『では、三つ目の報告。

 これから毎日、何か文章を書くことにする。これを三つ目の報告とする。それは乙女の秘密の日記でもなければ、SNSに投稿するものでもなく、かといって今はまだ小説にもならないって思う。


 とにかく何か書いてみよう。(ただし手書きはもう嫌)何日続くかはわからないけれど、こうやって頭の中にあるのを外に、しかも声みたいにすぐ消える在り方ではなく、文字という形で記録していくのは案外、楽しくて、悲しい。悲しさといっても、何かを失ったときに感じるそれではなくて、頭の中の世界を外に上手に広げられない煩わしさから来る悲しみ。力量不足なんだろうな。あなたが知っているとおり、私はまだ知らないことばかりだから。

 

 一度眠ったはいいけれど、まだ眠くて手に力が入らなくなってきていて、文字も踊っているかもしれないね。一瞬、置時計が歪んでみえて、別世界に迷い込んだ気さえしたわ。

 そんなことを書いていると思い出した。あのダリの絵。

 知っている? なんだっけ。荒野にぐにゃぐにゃした時計、あと何かいろいろ。

 前に一度、話したことがあったかもしれない。なかったかな。中学二年生の私が夢中になったのは、星以外に絵もあった。絵というのは、なんでもはよくなくて、いわゆるシュルレアリスムの絵。お気に入りだったのはマグリットとダリ。

 あとはシュルレアリスムに影響を与えた、キリコ。ああいった絵、なんて今では乱暴に一括りにしてしまうけれど、それらは、なんていうか、ぴしぴしっと、閃きや妄想の素を私に授けてくれた。

 少なくとも今のところ、芸術家として、その「げ」の字も頭角を現していない私だから、全部、気のせいや思い込みだったのかもしれない。

 十四歳ってそういう時期だって、いつかあなたも言っていたよね。


 さぁ、あと一文、あと一文と眠りに沈みかけの頭に言い聞かせて書いているよ。最後に私が吐露したいのは、あなたへの要望。望んでいたこと。


 訂正 私があなたとの関係で後悔していること。


 私はもっとあなた自身について話を聞けばよかったと今になって悔やんでいるの。後悔といった表現は適切ではないか。もう少し前向きなふうに。私は自分がしなかったことを反省している。同じかな。

 もしもあなたをお兄ちゃんと呼びながらも、あなた自身を知ろうと、理解しようとしていれば、何か変わったのかもしれないって思っている。電車を使えばすぐにでも、電話を使えばさらに早く、あなたの声を聞ける。それでも今は、やけに遠くに感じる。でも、そうしない。そう決めたから。


 恋文っぽくなってしまったけれど、気にしないで。すべては夢心地が見せる幻想なのだわ。

 ねぇ、私と朋香、うまくいくかな。

 私はそれをあなたにはっきりとは訊かなかったし、あなたはたしか肯定も否定もしなかった。ここには因果関係があるのかしらね。

 

 あと一文、あと一文。

 

 私は朋香を振り向かせてみせるよ。この初恋をただの青春の一ページにしたくないの。たとえるなら私たち、喪失を知る少女は柔らかな時計の針を進めていかないといけない。そうでしょう? 




 追記 午後一時七分。二度寝から起きて、投函する前に。

 最後に、とさっきも書いていたみたいですが、本当に最後に一つだけ。迷いましたが書いておきます。深くは考えないでください。

   

 別の形で出会っていればとあなたは言いました。

 もしかしたらと私も思います。なんてね。』




 手紙の終わりに書かれた『中野紫苑』の四文字、彼女の名前をしばらく眺めた。

 手紙を読んだのは一度きりだった。彼女の名前を目にして、もう一回頭から読み直そうとする心もあるにはあったが、便箋を再びきれいに折って、封筒に入れ直すとそれはなくなった。

 余韻があった。というよりも、余韻ばかりあった。

 手紙の内容をそらで思い返そうとするが、些細な部分は覚えていなかった。僕が読みながら考えていたのは、あたかもその言葉が意味する事象や主張、彼女の心境ではなく、ひたすらに紫苑自身に関してだった。文字は目で追われるだけ、追われて、意味は遅れてついてくるか、あるいは追いつくのを諦めるかしていた。


 僕は記憶を頼りにスマートフォンで『記憶の固執』と検索をかける。果たして、それは紫苑が終わりに触れていたサルバドール・ダリの絵であった。

 どうやら僕の想像よりもはるかに小さな絵であるらしい。いくつか目につくもののうち、たしかだらんと垂れた時計たちがとりわけ異彩を放っていた。それから何気なく「紫苑」と検索する。

 キク科シオン属の多年草。別名オニノシコグサ、オモイグサ。

 ――――思い草? 

 表示されている花言葉に僕は苦笑する。 

 できすぎた符号の一致はしかし、いつか近いうちに紫苑たちによって打ち砕かれるに違いない。

 僕は、いや、僕らは一つの物語には生きていない。次々に渡り歩いて、めぐりあっていくもので、一つ一つに細かな意味をいたずらにつけるのはナンセンスだ。


 僕はベッドに横たわり、天井を見上げる。仰向けになって、ゆっくりと腹式呼吸を心がけて、息を吸い、吐きを繰り返す。穏やかな気持ちだった。この手紙では何も終わっていないし、ひょっとするとはじまりでもなかった。

 あのオープンキャンパスの日に新たに登録された連絡先を僕は思い出す。こういうときは、ちびちびと安酒を飲みながら誰かととりとめのない話をするのがいいのではないか。そしてあの同じ文学部の女の子がそれを受け入れてくれるなら、そうだ、プラネタリウムでも見に行こう。

 僕が最後に星空を見上げたのはなんだか遠い、遠い過去のようだった。


 軽く目を閉じた。この瞬間も時は流れている。けれども人によって感じ方は異なる。やがて浅い眠りを経て、目覚めた僕はカーテンを開けて秋の光を浴びる。


「おめでとう、紫苑」


 かつて僕をお兄ちゃんと呼んだ少女の誕生日を祝い、僕は雲一つない真昼の空に星を探してみるのだった。






 『妹の初恋相手が転校生の美少女でもまったく驚かないのですが!?』  了

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妹の初恋相手が転校生の美少女でもまったく驚かないのですが!? よなが @yonaga221001

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