32 少女の決別

 落ちる―――――。

 

 生体的曲線美の権化みたいなイルカが飛んだ。水中から飛沫と共にその身を宙へと委ねた。しかしその百キログラムをゆうに超える水族が空で描ける軌跡はひどく制限されていた。落ちる様さえ美しい。もしもそのまま水中からずっと天の向こうへと昇っていったのなら、僕らは首を傾けていき、いつしか何もかもを諦めてしまう。

 けれども、繰り返すが彼らは落ちる。水の中へと帰る。それが運命だ。


 飛翔あるいは跳躍と落下のどちらに美があるのかを改めて考えさせられた。

 知ったかぶりで、エッセイスト気取りのブロガーが満足げに書くブログの一記事のような感想を僕は持った。

 それは結局のところ、表裏一体。飛び続けるものはない。落ちるから飛ぶという。落ちなければ、それは浮かんでいるともいう。また、たとえば何百光年先で宇宙の海に漂う星を僕らは飛んでいるとは言わない。

 星の見えない真昼のステージで何頭ものイルカたちが仕込まれた芸を披露するのを眺める。ふと周囲に注意を散漫させれば、イルカと彼らを誘導する人間を食い入るように見つめる観客たち。笑顔。

 

 夢見ていたってのはあながち嘘でもなかったのか。

 そう思うほどに紫苑の面差しはきらめいていた。高揚感をまるで隠さない少女の姿、その隣にいるのがくすぐったかった。

 幾度かの歓声と拍手を経て、舞台が終わる。

 ぞろぞろと出口へと向かう人々。ぐいっと紫苑が座ったまま僕の腕を引っ張った。


「ねぇ、すごかったよね! おに――――」

 

 眩い笑顔が瞬時に輝きを失うのを目の当たりにすると、理不尽な悲しみに襲われてしまう。僕がそれを表にするわけにもいかないから「ああ、すごかった、感動した」と僕は真に迫る口調で同意する。

 肯定する、慌てて口を閉じた紫苑を。

 今日ここに至るまで、口にしていなかった呼称を言いかけた彼女を。そして、それが意味するのが僕ではないのを誰よりも知っている彼女を。兄を失った妹を。


 時が流れ、人が流れ、僕らの間には沈黙が流れ、そして僕らは移動する。紫苑から話を聞かないといけないのだ。





「ねぇ、もしかしなくても見当がついているんでしょう?」

 

 館内で比較的明るく広い部屋で僕らは並んで腰掛ける。向かい合うのに適した場所がなかったのだった。探せばあったのだろう。それでも僕は隣にいるのを選んだ。


 紫苑が髪をかきあげて露わにした左の耳を僕は見た。


「いちおうは」

 

 僕の言葉に彼女は髪を指でいじるだけで何も返さない。やがてぴたりと、その指の動きを止め、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。たった一度の深呼吸。


「話は早いほうが助かるよね。あのね…………お兄ちゃんって呼ぶのをもうやめようと思うの」

 

 予想していた言葉だ。彼女からもたらされても、僕の心は揺れなかった。予想していたから? いや、たかだか呼称の変更だからなのか。でも、これは彼女なりにけじめをつけるということ。

 もし誰かが、事情を知らない何者かが彼女の決心を嘲笑うのなら、たしかに僕は怒るだろう。しかし正当な抗議や擁護が僕にできるとは思えない。正当、それは何をもってそう呼べるのだろう?


「どうして、って訊いてよ」

 

 僕が黙っていたのは、ほんの数秒間だったのに紫苑は唇を尖らせた。そうして僕は「どうしてなんだ?」と訊くことにする。


「それは第一に、私が朋香と結ばれたいから」


 紫苑の声が震えていた。僕は彼女の手を握って勇気づけられはしない。でも、心の中で応援はしている。そういうのは届かなければ意味をなさないのだが、する側としてはしないよりも気が楽になる。すると、それは応援というよりも気休めといった表現が相応しいのだろう。


「朋香は茉莉花さんを想っている。もう死んじゃって、この世にいない女の子。私は朋香の心を彼女から私に、現在進行形で朋香に恋する、生きている女の子に向かわせたい。ここに慈悲なんて求めていないの。私が彼女に振り向いてほしいってだけ。それを実現するのなら、きっと私自身が過去に囚われていてはいけないんだ。自分を含めて、人の偲ぶ心を否定するつもりはないよ。それはあって当然だから。ねぇ、ここまで私、ちゃんと話せているかな?」


 僕は肯く。

 隣に腰掛ける彼女と目を合わせ力強く。「大丈夫だよ」と。紫苑が微笑む。


「私、朋香が好き。夕映えした微笑みも、憂愁を秘めた瞳も、午後の授業の気怠い空気を裂くような背筋の張りも、抗えない欠伸を噛み殺すその仕草だって。我儘にも私がそれらを全部伝えて、それから傲慢さをもって、茉莉花さんなんて忘れなさいよと命じるには、ううん、たとえ口にせずともそれを朋香にわからせるには……まずは私が私のお兄ちゃんをきちんと眠らせてあげないといけない」


 そこで紫苑は間をおいた。それは僕に何か次の言葉を促す間ではない。なぜなら彼女は目を閉じ、深呼吸をもう一度したのだから。


「したがって、私はもうあなたをお兄ちゃんとは呼ばない」


 論説文に出てくるような接続表現をもって、彼女は僕に宣言する。 

 堂々とした彼女の頬には昂ぶりの赤みさが仄かに差している。僕は上出来だと喝采を贈りたくなったが、彼女はそれを快くは受けとめてくれないだろう。しかし誓って言えば、僕は本心で彼女を褒め称えたくなったのだ。彼女の少し歪な友人として、なぜだか誇らしい気分になっていたのだ。


「何か言って、お願いだから」


 僕一人ばかりが妙な満足感を抱いており、しおらしく紫苑がそんなことを言いだすものだから、慌ててしまった。


「えっと、第二はあるの?」

 

 ひとまずは紫苑の先の発言をもとに、僕は訊ねる。けれども当の紫苑は「え?」と言ったきりで、どうやら自分が「第一に」なんて口にしたのをすっかり忘れてしまっていたようだった。


 それは僕に小学五年生の頃の、学級委員長を務めていた女の子を思い出させた。

 みんなが一目置く優等生の女の子だった。彼女を邪険に扱ったのは、彼女が好きでたまらなかった男の子と、その男の子の友達ぐらいだった。

 一年に一度の学校祭では慣例として五年生は演劇を行う。彼女は周囲に勧められるがままに、ヒロインに抜擢された。見てくれもよかったのだ。彼女は演技の練習をする。真剣に。サボる男子連中を叱咤しながら。演劇部に入っているという友達のお姉さんにアドバイスをもらいながら。そうした過程があろうとなかろうと、本番当日、観客という名の保護者が目にしたのは、最も大事な局面でぷっつりと台詞を途切れさせた女の子。

 そんな彼女を、緊張に包まれた舞台を救ったのは他でもなく、脇役でしかなかった例の男の子。台詞をつなぐ。好きな女の子を救う。彼女を守る。彼女が傷ついてしまわぬように。

 僕はそれをドラマチックな思い出として記憶する。僕はその男の子の友達で、彼らの物語のうちでは脇役にさえなれなかった。

 

 僕は紫苑に触れる。その頭を、髪を撫でる。それぐらいだったら許されてもいいと信じた。紫苑は拒まない。驚きはしたみたいだった。しばらくしてから彼女が僕の手を止める。


「私、こんなところで泣きたくないの」

 

 潤んだ瞳でそう言うものだから、僕は迷う。でも、もう充分なんだと悟って彼女の、彼女らしい婉曲表現に従い、僕は彼女から手を離す。

 

 僕はイルカもアシカもいないプールを想像する。

 

 みんながいなくなった夜のプールだ。波一つ立たないプール。何もそこには泳いでいないし、沈んでいない。静かさで満たされた穏やかなプールはしかし、待ち望んでいる。朝を迎えて、日がどんどん高くなり、やがてそこを訪れる者たちが漂ったり泳いだりするのを。その明日が来るのを信じている。世界がそんなふうに優しくできていてもいいと時に思うのだ。




 水族館を後にして、もう僕たちは会うことはないのかなと紫苑に訊ねてみたら「それはどうかしら」と返してきた。帰りのバスを待つひと時。

 太陽が容赦なく僕らを照らして、身を焦がす。


「あのね、たしかに私から会いに行くとか、夜に電話をかけるとか、そういうのは、なくそうと思うの。そうでなければ決別ではないから。ううん、実際のところ、あなたと会わないことと決別は同一なようで本質は違う。なぜなら……あなたはどこまでいっても、あなただから。もちろん、肯定的な意味で」


 つまり亡くなった兄ではないのだから、か。僕は空を仰ぐ。


「ひょっとして必要なときは、僕の力になってくれるとか?」

「もし三歳下の生意気な女の子に縋るしかないような出来事が起こったのならだけれど。微力ながら、耳は貸すよ」

 

 手ではないんだなとはあえて言わなかった。


「そうか、ありがとう。嬉しいよ。あと、四歳下だよ。といってもあと二カ月ぐらいだけどね」


 我ながら細かくて、余計な指摘だった。


「私、あなたの誕生日を知らない」


 紫苑が目を丸くする。なぜにそこまで動転するかはわからない。


「忘れたんだよ。ずっと前に、僕らは互いの誕生日を教えあったよ。だからこそ、僕は君が秋生まれってだけではなくて、その正確な日も覚えているのだから」

「嘘。なにか理由をつけて、教えてくれなかった気がするよ」


 そう言われるとそんな気もしてくるから不思議だ。どちらかといえば僕は自分のことを教えたくない人間だから、そんな振る舞いをした可能性もあるにはある。


「ねぇ、誕生日はいいから、住所を教えてくれる?」


 待っていたバスが滞りなく来て、ぞろぞろと乗り込み、隣り合わせで僕らが座ると紫苑がそう頼んできた。「住所? どうして?」と僕が訊くと、彼女は「手紙」と単語を返してきた。手紙?


「近いうちにあなたに手紙を書こうと思っているの。つらつらと、そしてつれづれと。そこそこ長くなるよ、きっと」

 

 手紙でなければいけない理由を問いはしなかった。

 彼女らしい選択とも思えた。手の込んだスパムメールの何倍もの量の文字が並ぶ電子メールを送ってくるよりは、ずっと紫苑らしい。ただ彼女は「つらつら」と「つれづれ」とが相反するような意味であるのを知って使ったのだろうか。

 語感を優先する彼女のことだから、そこに厳密な意味を求める方が誤りなのかもしれない。それと彼女は返信を求めるだろうか? おそらく求めはしないだろう。あくまでおおよそだけれど、僕らの関係は終始そんな具合だったのだから。


「書簡体小説みたいな?」

「そういった形式があるのを知っているけれど、一作品も読んだことがないし、著名なタイトルも浮かばないよ。何か知っている?」

「そうだな、たとえば――――『若きウェルテルの悩み』とか」

「ねぇ、それって頭の上に乗った林檎を矢で射た人の話?」

「ウィリアム・テルだな、それは。まぁ、いいよ、気にしなくて」

 

 そして僕は住所を伝える。彼女はそれをスマートフォンで記録する。紫苑がそのまま『若きウェルテルの悩み』についてネットで調べないでいてくれたのに安心した。例示してから思い出したがその物語、すなわち、許婚者のいる十六歳の少女に恋をした青年が自殺する小説なんてのを持ち出してしまったのを悔やんだ。


「夏の間には届けられないかも。……ちゃんと読んでくれる?」

「もちろん」

「でもね、べつに読んでくれなくてもいいの」


 けろりと彼女は。


「というと?」

「わけあって封の切られない手紙って素敵じゃない?」

「その感性を半世紀ほど大切にすれば、稀代の大物になるだろう」

「とにかく気長に待っていてね」

 

 そう恍けると窓の外を紫苑は眺めはじめた。



 

 

「今日はありがとう、ございました」


 駅に到着して、改札を出てから通行人の邪魔にならないところまで歩くと、彼女が僕に深々と頭を下げた。きれいなお辞儀。「こちらこそ」と言う僕に彼女は、すっと右手を出す。僕はその手を握る。彼女が握り返す。


 何か言いたくなった。叶うのであれば、ほんの端役でもいいから、彼女たちの物語に、自分勝手ながら今になって出てもいいと思えた。


「もしも違った形で出会っていたら、僕は君に恋をしていたかも」

「ほんとうに?」


 間髪入れずに返してきた彼女に僕は口ごもるだけだった。

 勢い任せの、慣れないことは言うものではない。彼女は肩をすくめて微笑む。

 

 僕らは別れ、それぞれの夏をまた過ごし始める。

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