31 少女と水族館を訪れる

 お盆直前に僕と紫苑は水族館を訪れた。

 

 僕は教習所に通い始めたものの、まだ仮免許さえ取得できていない状況であり、他の同行者がいないことも確実であったので公共交通機関に頼るしかなかった。徒歩やタクシーなんてのは最初から選択に入っていない。

 距離としては、前に二人で行ったあの小さな浜辺よりも遠い。県内最大の水族館だ。電車の中吊り広告でも目にする程度には有名で展示に力を入れている。そもそもの話、県内でそんなに水族館と呼べる施設がない県ではあるのだが。

 入館料は僕が払った。彼女に頼まれたわけではない。それが、ああ、それこそがアルバイトで稼いだお金の冴えた使い道だと信じたからだ。


「なんだか、とうとうデートスポットみたいな場所に来てしまったのかな、私たち」

 

 巨大な水槽を前にして紫苑は呟いた。


「どこでも恋人同士、いや、恋人未満であってもデートはできるんだ」


 僕も紫苑に倣って水槽を眺め続けたまま口にする。


「ねぇ、それが意味するのは今日のこれがデートってこと、それとも逆?」


 僕らの暮らしている県が面する湾の生態系を再現した水槽の中で、多種多様な水族が泳いでいる。その広い水槽において彼らがわざわざ僕らのいる壁側に寄ってくることはあまりない。僕らに目もくれずに、泳ぐその姿を僕は優雅とは思えなかった。彼らにとっての外側が僕らの内側であった。


「肝心な事項が抜けていた。どこでもいいけれど、両者には互いの関係を維持するか進めるかの意志があるものだ、たぶんね」


 そーっと紫苑が左の手のひらを水槽にぴたっとつける。叩かないでと注意書きがある。軽く触れるのであれば問題ないだろう。

 紫苑はその透明な壁越しに水族たちに何か伝えるように瞼を閉じ、しばらくして手を離した。


「関係を維持するか進める?」

「恋人同士が同じ時を過ごして愛を確かめたり、恋人未満から恋人同士になったりみたいな話」

 

 僕は紫苑を真似して水槽に手をつけてみようかという気になったが、やめる。そうしたところで、彼らとわかりあえるとは思えなかったからだ。そんなのはじめから自明ではないか。


「ふうん。私が言えた義理ではないけれど、そう堅く考える必要はないんじゃない?」

「まったくだ。何も難しくないんだよな、実際は」

 

 開館してまもない時刻の水族館で僕は溜息を一つした。今現在で既にそこそこの人がいる。あと一時間もしないうちに人でいっぱいになるのだろうか。事前に軽く調べたら、夏休みはとくに盛況な施設であるらしいから。


 ――――夏休みに大きな水族館でイルカのショーを見るのが長年の夢だったの。

 そんなことを紫苑が電話で言っていたのを思い出す。


 順路に沿って僕らは進む。紫苑がふらふらと水槽を見て回るのに付き合う形をとった。僕は魚それぞれの個体を識別しようだなんて思わないし、人間が彼らを分類するのにつけた大きな括りの名前も覚えようとしない。大抵の人間は水族館に癒されにいくはずで、脳を酷使させには行かない。

 

 僕らとほとんど同じ時間に入館した子供連れの親子が前を行く。紫苑は彼らを追い越さない。彼らの子供、小学二、三年生ぐらいの女の子が今日を終えて記憶に残るのは、このあとに見るだろうイルカやアシカであって、紫苑がなぜかしげしげと眺めているホンソメワケベラではないのだろう。展示されている解説を頼れば、ホンソメワケベラは掃除魚の一種であるそうだ。他の魚の体表や口許、えらなどに生息している寄生虫や死んだ皮膚組織を食べて生きるのだという。「いろんな生き方があるんだね」と得心した様子の紫苑は、僕よりずっと水族館を楽しんでいる。


 開館直後の来訪だったせいで、ショーの時間がくる前に一通り見て回ってしまった。展示によって紫苑の観察は三十秒から五分近くまでの幅があったけれど、思考を停止させていた僕は、体をそれに合わせ、時折、彼女の話に耳を傾けては当たり障りのない返事をよこした。


 そうして僕らはショー会場となっている一階の東側近くのスペースで待つことにする。薄暗がりの中、壁際に設置された長椅子はふかふかしていた。

 紫苑は僕と違って、記憶を整理し、それを持ち帰ろうとでもするかのように、それまでの順路で出会い、別れてきた水族を語る。楽しげに。彼女もいちいち種族の名を覚えているわけではない、身振り手振りを交えて、その特徴を僕と共有しようと頑張っている姿はペンギンの赤ちゃんみたいに可愛らしかった。「それ、褒めているの?」と紫苑に言われてしまったので、僕は「直接、じっくりと見たことがないからわからないな」と濁す。


 そんな流れを経て「言い逃すと悪いから」と僕は紫苑に切り出した。「なに?」と紫苑は警戒する。


「この前、西原さんと会ったよ」

 

 僕は紫苑の反応がどんなふうになるのか、それを恐れもしていたのだが、それは余計な心配だった。「知っている」と紫苑はさらりと応えた。本人からその日のうちにメッセージがきたらしい。


「わかっているのよ。本当よ? わかっているの。朋香の過去にしたって、私の過去にしたって、要約すれば百字どころかその半分で済むし、その軌跡はアンデルセンやシュヴァイツァーに比べたら、あまりに平坦だってね」

「アンデルセンやシュヴァイツァー?」


 突然現れた外国人たちに動揺して、訊き返す。


「小学生の頃、歴史上の偉人たちのね、伝記の漫画を読むのが好きだったの。学校の図書室で借りられる漫画ってだけで特別感があったのかも」


 といっても、ブームは一過性だったけれどね、と紫苑。「僕にも覚えがあるよ」と思い出しながら僕は言う。


「ただ普通、そういう偉人っていうとエジソンやガリレオ、アインシュタインなんかが挙がるところじゃないか」

 

 あとはそうだな、マザーテレサやヘレンケラー、マリ・キュリー。


「普通ってなによ」

 

 紫苑が噛みつく。


「エジソンが文字通り発明なんてするから、マッチ売りの少女は貧困に苦しんだの」

「無茶苦茶だ」

 

 僕の素直な抗議は無視され、彼女は話す。


「知っている? 『人生の惨めさから逃れる方法は二つある。音楽と猫だ』って。シュバイツァーの言葉らしいけれど、どう思う?」


 がらりと論点がずれたと思ったら、そんなことを問う彼女に、僕はとりあえず気になっていた事項を確認する。


「恥を忍んで言えば、僕にはどうもそのシュヴァイツァーさんが具体的にどんな偉業を成し遂げた人なのか知らないんだ。音楽家だっけ?」

 

 紫苑は「音楽学者ではあったそうだけれど、医者としての認知度が高いわ。そして神学者で、哲学者でもあった人よ」と説明してくれた。言うまでもなく、僕らはそのうちの何者でもなかった。


「ねぇ、私はもう二カ月もすれば十七歳を迎えるけれど、私にとっての音楽と猫を見つけられずにいるの」

「たとえば本なんてどうだろう」

「それこそ普通の答えね」


 僕は肩をすくめてみせた。


「それとね、思い出したことがあるの。イルカについて」

「イルカについて?」


 どうやらイルカショーを観に行きたくなった理由はその思い出したことにあるようだった。


「死んじゃったお兄ちゃんが買ったばかりのバイクを私に見せびらかしたときのこと。私、今もそうだけれど、バイクって好きになれない。カッコイイだなんて微塵も感じなかった。だから言ったのよ。『そんなのよりイルカにでも乗っているほうが、サイコーにいかしているわ』ってね」

 

 僕は黙ってしまった。紫苑がお兄さんについて、自分から話すのは、ずいぶんと久しぶりだった。

 茉莉花も紫苑の実の兄も交通事故で亡くなった。僕は後者に関しては、バイク事故だったいうのを知っている……。他でもない紫苑が前に教えてくれたから。吐き捨てるように。


 紫苑が立ちあがり、それに僕も続く。


「ショーが終わったら、話したいことがあるの」

 

 こちらを見返った、その透明な微笑みにただ肯くしかなかった。


 



 ショーの会場に入り、開始を待つ間。迷ったが聞いておくとしたらこのタイミングしかないと思い、僕は紫苑に訊ねる。


「茜とのオープンキャンパス、どうだった?」

「ん……。大学は悪くなかった。通いたくなったかはまた別だけれど。……そういう話じゃないよね。うん、聞きたいのは茜と関係が変わったのかだよね。結論として、どうにもならなかった。やっぱり元通りというわけにはいかないのよ。茜は頑張って、友達らしく振る舞ってくれた。ううん、茜は友達よ。間違いなく。私が言いたいのは、つまり、前みたいに自然に振る舞おうとしていたってこと。でも、それも途中まで」

「途中からは?」

「ぎこちなさが目立って、黙ってしまった。私も、そんな茜にかける言葉が見つからなかった。この件については私をいくらでも責めていいわ。非難して。私が、そうよ、私が茜にもっと『普通に』話しかけてあげればよかったのよ。たとえそれが彼女を傷つけることになっても、それでもあの重い沈黙を引っ提げて見知らぬ大学を徘徊するよりはよかったと思う。わかったことがある。あの子はまだ、私を好きでいてくれるって。いっそ嫌ってくれたらって思わなかったといえば嘘。けれど、それよりも友達でいたいという気持ちが勝っている。それもまたあの子を傷つける事実なんでしょうね」


 会場に次々に人が入って、席が埋まっていく。彼らからすれば、僕らは若い恋人たちか兄妹のどちらに見えるだろう。


「それだけ、よ」


 紫苑はそう締めくくった。紫苑にとって茜は朋香と違う。第三者の僕はそれをこんなに容易く受け入れてしまえる。彼女の恋の行く末に責任を持つのは彼女たちで僕ではない。

 だったら聞くべきじゃないのかもなって、今更に思った。


 そしてショーが始まる。

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