30 好きになってしまったらと少女は言う

 朋香のグラスは氷だけとなった。底へと徐々に水が溜まっていく。一杯のアイスティーだけで長居するのは気が引けて、僕はハムサンドを頼んだ。朋香にも注文を促す。あともう少ししたら家に帰って、夕食を摂る予定であるはずの彼女は「じゃあ」と言ってバニラアイスを注文した。質にしても量にしても価格と不釣り合いだと僕が思うそれにはきっとこの場所に居座るための料金も含まれている。

 

「紫苑から望遠鏡の話って聞いた?」

 

 朋香はかぶりを振った。だが、何か思い出したふうな素振りをみせた。


「あっ、もしかしてお兄さんの望遠鏡についてですか?」

「うん」

「たしか……今はそれを使って観測していないというのは聞いた気がします。プラネタリウムで。――――亡くなってしまったから……?」

「そうだね、紫苑のお兄さんの死に収束するので間違いないだろうね。けれど、紫苑が今、それを使っていないのはもう少し単純な理由もある。つまり、その形見とも言える望遠鏡を彼女がこれでもかというぐらいに、ぶち壊しちゃって、望遠鏡としての役割をとても果たせる状態でなくしてしまったっていうね」


 朋香は驚いていた。

 それが紫苑の行為に対してなのか、それともそれを他人ではないが第三者である僕から明かしたことについてなのかは定かではない。気持ちしだいで、大切な形見だってめちゃくちゃにしたくなるものだと僕は思うし、実際、紫苑にその話をされたときも、そんなふうに応じた。


「壊した理由に関して、あれこれと紫苑の心情に名前をつけるのはできるけれど、しなくてもいい。それは起こってしまったことで、念のために断っておけば、それによって紫苑は充分に傷ついたし、悔やみもした。何もすがすがしい気持ちで、そして決別のつもりで壊したのではないのだと彼女自身が言っていたんだ。

 紫苑はさ、僕に重大な秘密を告白するみたいにそのことを話した。僕が彼女を紫苑と呼び、彼女が僕をお兄ちゃんと呼ぶようになってから二か月ほど経った頃だ。

 僕が紫苑が涙を流すのを見たのはそれが最初だった。映画やドラマならともかく、現実に女の人が涙を流すのに出くわす機会はほとんどなかったから慌てた。ああ、小さい子だったり、学校行事で感動したりってのは見覚えはあったけれど、でもそのときに紫苑が流していた涙って全然違う」


 話を聞きながら、その眼差しを僕に向けながら、朋香は不思議そうな顔をしていた。それは当然の反応だった。


「何が言いたいのかっていうと……いや、特に何か教えを説こうっていうのでもなくて。西原さんは、紫苑が泣くのをこことは別のカフェで見たことがあるよね」


 朋香は指に棘が刺さりでもしたような面持ちとなって、静かに肯いた。


「責めているわけじゃないよ。そんな資格ない。紫苑に何されるかわからない」

「あの、私は今も紫苑を泣かしてしまっているのでしょうか。その、私の知らないところで」


 朋香の顔には翳りがあるままだ。ずっと。楽しそうにする状況でもないから正しいのだけれど、それと僕が暗い表情を見たがるかは別で、素直な気持ちとしては紫苑が惚れたという微笑みを見せてほしくさえあった。


「繰り返すけれど、何か言いたいわけじゃないんだ。もし紫苑が君を想って泣いていたとしても、君がそれを気に病む必要はない……とまでは言わないけれど、気に病むのが最善とは思えないかな。

 どうして紫苑は彼女自身の深い部分について君に話したんだろう。君なりの考えを聞かせてくれる?」


 しかし朋香は苦々しく「いえ、そうしなくてもいいです」と口にした。

 僕は彼女の台詞の意味を捉えかねる。そうしなくていい?


「紫苑は、きっと私たちが考えているよりも、まっすぐな子なんです」

「……」

「紫苑はカラオケで、彼女自身、それから亡くなったお兄さんのこと、そしてあなたのことを話してくれました。そのうえで『私、今でも朋香が好きだから。あなたにもっと近づきたい』って。諦めるつもりなんてないって。それこそ彼女が私に身の上話をした理由。それは私にだってわかっています。わかっているつもりなんです」


 紫苑の強かな表情を僕は浮かべる。

 それは本気のような冗談、冗談のような本気を口にするときとは、また違った魅力的なものだ。紫苑はただ朋香に過去を告白したのではなくて、それは彼女なりに朋香と対等―――もっといい表現があるのだろうが、それを僕が見つけるのはずっと後になってからだった―――になるための方法で、恋を諦めないという乙女の宣誓だったのだ。


「それでも、君は茉莉花さんを想い続けている」


 僕は不躾を承知でそう彼女に言う。


「私は紫苑が考えているより器用ではありませんから」

「器用?」

「思い出を箱にしまい、きちんと封をして。そして今を生きるのには、もっと時間や何か特別なものが必要なんです。紫苑にしたって、そうするのに一年余りというのは短いんです。それだと足りない。それはここにあなたがいるのが何よりの証拠です。紫苑がお兄ちゃんと呼ぶあなたが」


 紫苑は過去を歪な形で今に閉じ込めている。そう言いたいのだと思う。ただ、非難する調子はそこにない。朋香は不器用だからそれができないというだけで、そうしたい気持ちがあるのだと暗に示している。

 克服すべき過去。囚われるべきではない過去。それを繋ぎ止める努力は、弱さの現れだろうか?

 そうは思えない。少なくとも、紫苑と朋香が抱えるそれらはあたたかい。虐げられ、蔑ろにされてきた、ようはトラウマが発生する過去ではない。もしくは、だからこそ捨てがたい。ふとした瞬間に心がそのときへと戻ってしまう。時間も、身体もそこに飛べはしないのに。


 赤の他人をお兄ちゃんと呼ぶ、本当の兄を亡くした妹が過去を断ち切れているかどうか、か――――。


「実は来週の末ぐらいに、紫苑と会う約束をしているんだ」

 

 嘘ではなかった。一昨日に電話があってそれで話をした。茜とオープンキャンパスに行くと聞いたときだ。どちらが本題なのかはわからない。どちらもそうだったとみなしていいのだろう。

 

 お腹が空いていたのでハムサンドはすぐになくなった。僕は伝票を持って立ち上がる。


 「会うって……お兄さんと二人で?」

 

 彼女は座ったまま僕に訊ねる。運ばれてきてから一口しか手をつけていない彼女のバニラアイスは溶けていく。室内が涼しいと言ってもそのアイスにとっては充分にあつい。そのアイスにしかわからない熱さがそこにある。


「ああ。でも、どこか夏休みらしく遊びにって感じじゃない。そんな話しぶりじゃなくて、何か決心しているふうだった。つまり、兄妹ごっこをしに行くわけじゃない。僕は予感しているんだ。もしかしたら、その日が紫苑と会う最後になるかもって」

 

 朋香の表情が曇る。


「お兄さんはそれでいいんですか?」

「どうだろう、わからないな。ただ、僕らは絶え間なく連絡を取り合って、毎日会って、話をしていたわけでもないんだ。

 今年の三月から四月にかけては一度だって電話もなかった。そこで一度、僕らの関係は断たれたんだよ、自然に。それが復活したのは君のおかげで、君のせい。いや、この言い方はずるいんだろうな。紫苑の初恋は片思いなのだから…………少なくとも今は」

 

 朋香は何か言おうとして、でも言葉が出てこなかったみたいだった。僕は「今日はありがとう」と言って、彼女に背中を見せてさっさと立ち去ろうとしたが、朋香は席を立つと溶けゆくバニラアイスにかまわずついてきた。


「お兄さんはそれでいいんですか?」


 店の外に出て、数歩進んだところで朋香は再度、そう言った。

 その手にはアイスティーとバニラアイスの代金が握られていて、それを僕は半ば強引に掴ませて詰問してくる。

 まるで、と僕は思ってしまった。紫苑みたいだって。てっきりこの子はあのカフェでしばらく座ったままでいるだろうと考えたのに。放心するだろうって。

 僕は慎重に言葉を選ぶ。

 

「紫苑は死んだお兄さんと決別を果たすだろうね。そこには冷たさはなくて、熱く燃えるような想いがあるんだ。そして君に想いを寄せる。どこまでもまっすぐに。君にとって、紫苑が過去をどう受け止めて生きているかなんてのは、実は関係ないんだよ。そう、関係ないはずだけれど、そうは言っていられない。君もまた受け入れるべき過去があり、それはどこまでも過去なのだから。君は優しいし、たとえそうでなくても生きている側の人間だ。紫苑は君を振り向かせるのを諦めない。彼女の恋心がいつまであるかなんて知らないけれど、そんなのはいつ誰が死ぬかわからないのと同じだって僕は思うよ」


 慎重に選ぶはずが、口を開けると、もうずいぶん前から用意されていたみたいに僕はすらすらと言葉を紡いでいた。朋香と今日会った瞬間からこの場面を思い描いていたように。


 朋香の瞳に熱が帯びる。睨んできたというには、それはあまりに可憐な年下の女の子の拗ねた顔で、僕はうっかりまたあの子を重ねた。


「そんなのって……! 私……紫苑を好きになってしまったらどうすればいいんですか! あの子の好きを私が受け入れてしまったのなら……!」

「さぁ、それは君たちの物語だから」

 

 そうして僕は立ち去る。彼女はもうついてこない。


 真夏の太陽も、熱風も、秋の訪れや冬の存在そのものを忘れさせてしまう。

 けれど、それは必ずくるものなのだ。

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