29 少女が僕に見たもの
僕と紫苑が出会ったのは、寂れた古本屋だった。
昨年の五月の終わりのことで、そのとき僕はまだ十八歳で、紫苑は十五歳だった。僕にとっては大学に、そして紫苑にとっては高校に入学して二カ月が経とうとしていた頃合いだった。
お互いの住まいから近くはないその本屋での邂逅はまったくの偶然だったように思える。その本屋でなければ手に入らなさそうな書物の類は無に等しく、僕らそれぞれには別の最寄りの書店があって、そちらのほうが扱っている品数も豊富だった。
それなら金銭的な問題をして、新品よりも中古本を買い求める傾向があったかと言えば、実はない。僕としては、よく晴れた日だったから自転車に乗って散策をろくにせずにいた町を走り回っていただけである。たしかに部屋を出るときは晴天に間違いなかったのに、気がつけば曇天、そして雨がぽつぽつと降り始めたので、その本屋に寄ったに過ぎない。僕にはそういう経緯がある。
紫苑はというと、事情が異なる。その日曜日に、紫苑はふらふらとその本屋まで歩いてきたらしかった。後になって、理由めいた話を聞きだしたことによると、彼女が自室で兄に借りっぱなしだった小説を書棚に見つけてとのことだった。理由になっているかは怪しい。兄に直接返せなかった本がある事実と、彼女が最寄りではない本屋、寂れたその場所をうろつくに至った状況を結びつけるのは容易ではない。
それでも、想像力をはたらかせて、彼女が口にしなったことを、その想いを表すとすれば、やはり彼女は兄の姿を探していたのではないか。
彼女が高校に上がってすぐに亡くなった兄を。まだそれから一カ月しか経っていない時期に妹である紫苑はあちらこちらと彷徨っていたのだ。
その小さく、すっかり清潔とも呼べない古本屋で、僕の顔を目にしたときの紫苑を覚えている。 忘れようがない。あんなふうに初対面で驚かれたことは僕にはそれまでただの一度もなかった。自慢でないが、影の薄さには自信がある僕なのだ。特徴的な顔立ちなんてしていない。体格も並であるし、他に一見してわかる異様さを持ち合わせてはいない。
でも、紫苑は僕に彼女の兄を見つけた。
世界には同じ顔の人が三人いるとは言うけれど、そこまで僕と彼女の兄とが瓜二つでないのは確認済みである。彼女の兄は二十歳の若さでなくなったが、僕は彼の亡くなる少し前の写真を一度見せてもらったことがある。似ている、とは感じた。でも、それだけだ。運命的なものは何も感じなかった。
あの日紫苑が僕と出会って驚愕して、今にも泣きだしそうになったのにはひどく戸惑い、そのまま去ることはできずに、話しかけざるを得なかったのだ。
古本屋の軒下で雨宿りしながら話したのを覚えている。五月末の小雨は僕らを肌寒くしていた。そして交わされる会話もまた暖かなものではなかった。
ゆっくりと。
本当は話したくないのに、といったふうに。紫苑は僕の顔を見ずに話した。
「フルオーケストラにもなると、総勢百人以上で演奏するんです」
紫苑は彼女の兄が交通事故で亡くなったことを淡々と告げ、少しばかし思い出話もしてから、不意にそんなことを言いだした。
彼女も、そして彼女の兄も吹奏楽や他の音楽に関する部活動やクラブに所属していたことはただの一度もなく、話の流れを完全に無視した飛躍であった。
「この本屋さん、お客さんが全然いなかったですよね。閑古鳥が何羽鳴いたって足りないぐらい。もう、閑古鳥がフルオーケストラしちゃうほどです。ねぇ、どう思います? 一時間以上の演奏のなかで、一度か二度しか自分の役割を果たさないシンバル奏者ってどんな気持ちなんでしょうか」
「わからないな」
僕は素直に意見を述べた。
思えば、当時からして紫苑は紫苑だった。その話しぶりは時に要領を得ず、絶えず何かに惑い、悩み、迷っている。でもそれを隠そうと必死にもなっていて、だから、きっと友達と話しているときには理屈っぽいんだろうなって思った。
「あなたのこと、お兄ちゃんって呼んでもいいですか?」
雨音よりは断然、クリアにその声が僕に向けて放たれた。
視線はやっと僕とぶつかり、それから離されない。綺麗な子だった。脆く、儚げにすら見えるのは境遇を知ったからこそであり、その色眼鏡を外してなお、彼女には壊れてしまうそな可憐さがそのときからあった。ようするに、兄の死後、偶然出会った見知らぬ男に兄を重ねてしまう、そんな危うい純情が。それを歪んでいると非難するには、その瞳には理性と葛藤があり、言ってしまえば死者と生者を重ねても何かを得るどころか喪失を再認識するだけというのを彼女自身は理解しているみたいだった。
これらは後になって考えたことだ。
僕はそこまで感受性豊かではないし、頭の回転だって速くない。当時の僕は、釈然としない依頼を丁重に断ろうとした。それが普通だ。僕は兄という柄ではないのだと。そうして拒もうとした。無論、初対面で身内でもない相手の呼称として「お兄ちゃん」というのが適切ではないのを彼女は十二分に知っていただろう。
彼女が柳眉を逆立て、捲し立てる。
「兄妹になるのに柄なんて関係ありませんよ、なんですか、ダマスク柄やプレイド柄みたいなものでもあるって言うんですか? それとも麻の葉文様だったり、下がり藤だったりがいるとでも? ふざけないで。私はこう見えてもれっきとした妹ですから。もうあと五年もすれば兄の年だって越してしまうんですよ!」
そうして筋の通ってはいない彼女の剣幕に押されて、僕はその要求を呑んだ。珍しくない苗字だからって、同じ「中野」である事実は親戚の可能性を浮かび上がらせたが、念のため調べたらそんなことなかった。ないのだ、そんな繋がりなんてのは。
すぐに仲良くなったわけではない。
雨が上がり、連絡先を交換してその日別れてそのまま一週間経った時、登録した連絡先がたしかに紫苑と繋がるか怪しむ僕がいた。でも二週目に彼女から電話がかかってきて、それで何度か暇を見つけて会って、ちょっとした話を重ねていくうちに、彼女のぎこちない「お兄ちゃん」はごく自然な呼び方になっていった。
その時になってもまだ、というよりも今なお彼女は僕と彼女の兄を重ねることに抵抗はあるのだと思う。それを見ないふりをしているだけ。兄妹ごっこだと割り切っているだけ。
紫苑が十六歳になって一カ月した頃、冬の初め。僕は彼女の家に招待された。招待と言っても、彼女の家族は未だに僕の存在を知らない。紫苑が話していないから。
その時も、紫苑は彼女自身が休みで、なおかつ両親が外出中の、すなわち留守番時を見計らって僕を呼んだのだった。まるで密かな恋人か間男みたいだと思った。現実としてはより特殊な立場であった。
彼女は事前に電話で「鍵は植木鉢の下にあるから」と言って、僕にインターホンを押させなかった。妙な話である。両親がおらず、今や一人娘となった彼女の家に入るのに、どうして僕は彼女の家の秘密であろう合鍵の場所を教えてもらい、それを使わなければならないのか。
これも理由を探すのであれば、つまりそれらしい理屈をつけるのなら、かつて彼女の兄がそうしていたからという答えになる。そうだと思ったから、僕は拒否せずにその合鍵を植木鉢の下からとって使ったのである。
よもやその半年余り後に、彼女にまた呼ばれて再びそこにある鍵を使うとはそのときは想像していなかったのだが。
紫苑の部屋。
そこは多くの人間にとってもそうであるように、プライベート性の高い自室だった。親しい人間の出入りが頻繁にあったとしても、そこにある机や椅子、本棚、寝具といった部屋を構成する物質は基本的にその部屋主の所有と支配の下にあり、それを主の許可なしに動かしたり、使ったりするのは野蛮であり侵略であった。ことに当時の紫苑の部屋、彼女の聖域はそれ全体が僕を異物と認識しているかのようだった。有刺鉄線が張り巡らせているわけでも、西洋甲冑を纏った兵士がいるわけでもないのに、そこには僕という未知の生き物の長居を拒む空気があった。
僕はドアを閉めずに、その部屋に一歩だけ足を踏み入れた状態で立ち尽くしてしまった。紫苑はというと、いわゆる学習机の手前に置かれた椅子(それは机のスタイルとは趣が違ったので時の経過と共に買い替えられた代物であるらしかった)に浅く座り、僕を眺めていた。
僕が途方に暮れていると、いよいよ彼女は怪訝そうな表情をする。
「私の部屋ってそんなにおかしいですか? それとも、何か変な気でも起こしているんですか」
僕は「いや」とまずは否定から入って後ろ手でドアを閉めた。
妙な疑惑をもたれてはかなわない。それから「君がそこに座ってしまうと、僕はどこに座ればいいのかなって」と言ってみた。彼女の座る椅子以外だと、腰掛けられそうなところはベッドの上だった。僕が紫苑に持っていた偏見、イメージに反して、めくられている掛け布団のカバーはカラフルなドット柄をしていた。六、七畳の広さの部屋ではそのベッドが最も存在感があった。
たとえば部屋の中央に二人から四人が顔を付き合わせて話せるような低いテーブルとクッションなどはなかった。もとより舞台装置のようには、僕らが話す環境は作られていなかったのだ。
「では、ここに」
と紫苑は心なしか恥ずかしそうな顔をみせて、彼女が座っていた椅子から離れると彼女がベッドの上に腰掛け、僕は彼女がその椅子の上へと移動した。
「あのさ、君にいちおう言っておきたい」
「なんですか」
「僕だって男だ。君がどんなに僕をお兄ちゃんって呼んでも。それに僕らの年齢は三つしか離れていない。いや、今は二つしか。これは二つも、じゃないんだ。そして君はたぶん自分自身が思っている以上に、可愛い女の子だ」
「すっぴんでも?」
「そこは今、些末な問題だよ。もっと警戒したほうがいい。そういうこと。わかる?」
紫苑はやや間を置き、そして肯いた。
「勘違いされなくてよかったです」
「勘違い?」
「私がお兄ちゃんをここに呼んだのは、そういう仲になりたくなったからではありませんから。それを曲解して襲われてしまう可能性もあった。早い話、性的暴行。そうなんですよね?」
僕からもっともらしく注意しておいて、そうだよと言うのを躊躇った。そうもあけすけに言われると、複雑な気分だった。
「わかっているなら、本題に早く入ってくれよ」
「実は、本題らしい本題もないんです。寛いでくださればいいですよ。あ、お茶出しましょうか」
「なぁ、紫苑」
「……なんですか。名前、初めてですよね。さんもつけないなんて」
「僕は君を憐れむつもりはない。はっきり言って、こんなのはお遊戯だって思いもするよ。けれど、君がそれをわずかな期間でも今必要としているのなら応えたい。僕なりに考えてみた結果として。それを紫苑も了承するなら、もう敬語はよせよ。対等でいこう。兄と妹。それで、うん、それがいい。ちがうか?」
沈黙、そして紫苑は肯いた。
かくして僕らは今と近い関係になった。しばしば電話や直接会って話す間柄。
彼女は僕を「お兄ちゃん」と呼び続ける。僕は彼女に兄としての振る舞いを約束する。そうだ、約束したんだ。紫苑が兄として僕を望む限りは、それにできるかぎり応じると。見返りを求めず、ただ僕はお人好しだからか、彼女のその願いに付き合いたくなった。もっと言うなら、終わりがあるとわかっていたから。僕の色褪せた大学生活に不思議な彩りをほんの一時であっても加えてくれるだろうからという、わりに軽い気持ちで、彼女と約束した。
きっとしだいに電話の回数も減って、会いたいと言わなくなり、それで自然消滅するのだと信じ切っていた。それが健全だって。彼女が過去を乗り越えることが。死者を妙な形で追わないことが。僕を代わりにしないことが。
紫苑が朋香に恋に落ちたのを僕に話したとき、僕らにとっては一カ月ぶりの電話だった。そのときはまさか、その朋香もまた追想する少女だとは夢にも思っていなかった。そうして彼女たちの物語が始まった。
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