28 少女は星夜を思い出す②
朋香は少し長めの前髪を指先で払う。それから片方の腕でもう一方を掴むように身をこわばらせて話し始めた。半袖からのぞく色白の腕が目を引く。目に見える傷などない。
「名前は忘れてしまいましたが、年明けすぐの流星群について、茉莉花が電話口で話したんです。
そのために電話をしてきたみたいでした。テレビかネットのニュースで知って、今年は一段と肉眼でも観測しやすく、ピークの時間帯も悪くないのだと。
私も茉莉花も星に詳しくありませんでしたが、遠く離れていても同じ夜空を見上げるというのは、やっぱりそれだけでロマンチックで、電話の向こうの茉莉花……その照れくさそうにしながら嬉々としているだろう表情を思い浮かべると、あたたかい気持ちにもなれました。今は恋人ではなくとも、彼女の気持ちを受け入れて、いつか、そう、いつかは応えられるんじゃないかって。クリスマスから時間をおいて私は前向きに考えられるようになっていたんです。
茉莉花もそうだったら、私との関係を無理に動かさずに時間をかけて変えていくのを望んでいたのならいいのにと思っていました。
それはもう確かめようがなくて、しかも今の私は、どうしてもっと早くに彼女への想いを自覚できなかったのだろうって悔やんでばかりなのですが……いえ、話を元に戻しますね。
星、ええ、星空を眺めた話です。
茉莉花がかけてきたその夜から明け方にかけてこそが、ちょうどその流星群の日だったんです。といっても、茉莉花が電話をしてきてから、流星群がみえるまで時間はまだまだありました。茉莉花は夜深くにもう一度電話していいかどうか私に訊きました。なんだったら密会しないかなんて提案してきました。私はさすがにそれは危ないし、どちらかの家に突然お邪魔するのも悪いからと遠慮しました。その日、会えなくても新学期が始まれば会えるものだと信じていたんです。……すみません、余計な一言でしたね。
ともかく私は、茉莉花と深夜に電話の約束をして一度、通話を終えました。もしもどちらかが眠っていても恨みっこなしだからって」
朋香はそこで話を一旦やめる。腕を離す。アイスティーをストローで上品に啜った。日に焼けていない陶器みたいな喉元が動くのを見つめた。
「それで二人は深夜に電話しながら流星群を観た?」
僕は訊く。
朋香は首を横に振る。―――――横に?
「午前零時に茉莉花から着信があって、そのとき既に私の瞼はずっしりと重くて、意識が虚ろなままに彼女の声を聞きました。
電話の向こうから『朋香』と彼女が何度か呼んで、その何度目かでそれが私の名前、それから私たちは流星群を観る約束をしていたのだと思考がつながるまでさらに数秒がありました。眠たかったんです。飲み慣れていない苦くて熱いコーヒーの味が喉の奥に残っているようで、うまく寝れずに、茉莉花の電話を待っていたのに。
たしかに私は電話に出ましたし、彼女は私の名前を呼んびました。意識がそこに向き直って、私が彼女の名前を呼び返すと、茉莉花は安堵の声で『ぎりぎり起きているみたいね』なんて言いました。好きだなあって思いました。友情とか愛情とか、そういうの抜きにして。その声が好きだなって。
私はそろりそろりと窓のない自分の部屋から、ベランダのあるリビングへと真夜中を歩いていきました。当時、住んでいたマンションの部屋も今と同じぐらいの大きさで……えっと、眠っている両親を起こさずに移動するのに苦労なんてしませんでした。一番、緊張したのはカーテンをそーっと開け、窓のロックを外したときで、それは思ったよりも音を立てたので、私は他に誰もいない暗い室内を見渡しました。耳元で茉莉花が『どうしたの?』って私の緊張を察したのか、訊いてきて、私は慎重に必要なだけ窓を開けながら状況を説明します。なんだか秘密のお仕事をしているみたいな、そんな興奮は、冷たい外気によって瞬時に失われました。
私は自分が防寒具を用意していなかったのをそのときに気がついたのです。ベランダは室内の寒さの比ではありませんでした。私は自分の部屋までまともな上着をとりにいくかどうか迷いました。結局、面倒臭さが勝って、私は意を決し、ベランダに出ます。その時点で私は茉莉花には悪いけれど、そう長く夜空を見上げるつもりはありませんでした。
目が慣れてくると真っ暗な夜空に、星々が瞬いているのがわかってきました。茉莉花にどの方角を眺めていればいいのか訊くと、『どこでもいいのよ。広く観ておきなさい』と言われました。自信たっぷりな口調なので、そうなのかと思い、そのとおりにしました。
数分もすると身体が芯から冷えていっているのがわかりました。白い吐息にくしゃみ。茉莉花に心配をかけないように声は抑えます。私たちはまだ流れる星を観ることができていませんでした。不意に彼女が『あんた、願い事ってある?』と聞いてきて、それで、ああ、そういえば流れ星といえば願い事だなぁって思い出したんです。考えておくねって私は返して、そうして茉莉花の願い事を訊きました。
彼女はしばらく黙っていましたが『こういうのって、誰かに言ってしまうと叶わないものね』と諦めたふうに言いました。おそらく今、お兄さんが想像したように、私も彼女の願い事というのを想像しました。でも、それだけ。私はその願い事について訊きはしなかったんです。なんとなくわかったから。
それからさらに時間が経ちました。
私たちは途切れ途切れに、すぐに忘れてしまいそうなことばかり話していた気がします。現にその内容を忘れているのですから、間違いないでしょう。ただ、覚えていることもあります。それは私が寒くて、眠くて、もう限界だと感じて、部屋の中に入り、鍵を再びロックしたときでした。私はそれらの行動を彼女には悟られないようにと話をしながら、時間をかけてこなしました。音の響き具合で茉莉花は気づいていたかもしれません。
ベランダの外、夜空が広がるほうに背を向けて身震いする私に茉莉花が『ねぇ、朋香』と囁きました。ばれてしまったのかと、ぎくりとする私に彼女はとても澄み切った声で『好きよ』と伝えてきました。私はその短い言葉に彼女の想いが込められているのを感じたんです。紫苑だったら、もっと上手にそのときの声を表現できるかもしれないですけれど、とにかく私にはその声に茉莉花の想いが、ぎゅっと詰まっているのがわかったんです。
だから、自分が彼女に黙って空から目を背けてしまったのに罪悪感がありました。私は彼女にありがとうと言いました。彼女が期待するような想いがそこに込められずとも、それはごめんねよりはいいと思ったんです。それから私は、それとなく自分がもう微睡みの淵にいることを伝えました。茉莉花がそれまで以上に優しい声で『じゃぁ、わたしも眠ろうかな』って。
嘘だなと直感しました。彼女は微熱にうかされても、たとえ私の声を聞かずとも、一人で空を見上げるんだろうなって……。
私はもう一度、ありがとうと言って、そこにおやすみと付け加えました。茉莉花も、おやすみと返します。通話は私から切りました。たぶんそうだったと思います。彼女からは切らないだろうから」
朋香が俯き、泣いていた。
彼女が泣いてしまうなんて紫苑から聞いていなかった。そんな的外れな感想。彼女は静かに、本当に静かに泣いていた。目元から透明な液体を流し続けているのだ。「どうしたの?」とでも声をかければいいのか? ちがうだろうな。生憎、僕はハンカチやそれの代用になるものを持っていなかった。テーブルが急に大きくなって、僕たちを対岸に分けていた。
「私、話せなかったんです。いえ、話さなかったんです。紫苑には」
それは先に聞いたことだ。茉莉花との最後のやりとりを朋香は紫苑には明かさなかった。なぜと僕から訊けるわけもなく。
朋香自らがその理由を話すの待ち、耳を傾けるしかできなかった。
「紫苑に悪いから……。彼女には二日間にわたって私と茉莉花との思い出を話しました。彼女は聞きたいとも言ってくれました。話したいこともあるって。
でも、本当のところ、私の側は相手が誰でもよかったのかも、なんて考えもしちゃうんです。もしもあの日、花屋から出てきたところで会わなかったら。紫苑が花を抱いていなかったのならって。
紫苑は星が好きだから」
急に話が飛んだ。でも、それは戻ったというほうが正確だった。
「星にまつわる私と茉莉花との思い出を、紫苑が知ってしまえば、もしかしたら彼女が星を眺めるとき、夜空に想いを馳せるときに思い出してしまうんじゃないかって。それってよくないことですよね?」
僕は彼女の濡れる瞳の奥に優しさをみたが、頷きはしなかった。
朋香は紫苑から聞かされて知っているはずだった。紫苑が星空を眺める時、そこには既に追憶が含まれているのだと。星に興味を抱くきっかけとなったあの人のことについて。そこに新たな追想、すなわち朋香と茉莉花との思い出までもが入り込んでしまったのなら、たしかに紫苑にとって星を観ることはよりいっそう混迷に身を置く体験となってしまうかもしれない。
しかしだからといって、紫苑が過去しか見ていないことにはならない。むしろ彼女は明日に進もうとしている。
僕はあたかも紫苑と朋香の両方を護ってみせるかのように「そこまで気にしなくていいんだよ」とでも励まそうともした。けれど、それがすべて偽物であるのを悟ったときには既に、僕は発言のタイミングを失っていた。
お互いのグラスが空になる。あと、もう少しだけ話したいことが僕には、そして彼女にだって残っている。そんな気がした。
「西原さん」
「はい」
掠れた声。あげた顔にはまだ哀切がある。
「いちおう確認だけれど、紫苑は僕についてはどんなふうに話したの?」
躊躇い。朋香の表情に浮かぶ色。
僕は「簡単にでいいよ。知ってもどうなるって話でもないから」と、笑ってみせた。うまく笑えているといいけれど。
そして朋香はまた俯き気味になって言う。
「……紫苑のお兄さんが既に亡くなっていて、あなたが本当のお兄さんでないのは知っています」
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