27 少女は星夜を思い出す①

 僕がアルバイトスタッフとして参加するオープンキャンパス初日がやってきた。


 お盆前の数日間のうちの一日。

 スタッフ証を首から下げ、ロゴと一緒に大学名がおしゃれなふうにプリントされているTシャツを着る。ここ数年は同じデザインらしい。在庫があったので無償支給だった。なかったら、給与からの天引きだったのだろうか。

 

 事前に担当エリア・セクションごとの会議が数回行われ、ガイドラインや要項の類も読みこんだ上で当日の朝早くから最終打ち合わせもあった。いわゆる総合大学ということだけあって、動員している人数も多く、管轄外の、たとえば医学部の受付・講義案内等を務める学生とは面識がほぼない。

 とはいえ、歴史があるゆえにノウハウも蓄積されているようで先輩スタッフたち、大学職員の手際はいい。人員の振り分けから細かい調整までしっかりとしている。


 午前九時半から受付開始で、模擬授業等のプログラムにすべて参加すると終わるのは午後四時過ぎとなる日程である。

 細かく分けると、学部単位での催しと、そうではなく受験生全体向けのオリエンテーションめいたものとがあって、会場が違う。高校生および既卒生はキャンパス内を行き来する。迷わないように巡回しがてら案内する係もいる。

 今更ながら、高校生ではなく大学生になったんだなぁなどと感心している。一年生の頃を振り返ってみても、大学生らしいことって全然していない僕だった。


 ところで紫苑はオープンキャンパスを茜と一緒に県外の大学へと向かうことになったらしい。それが雑談程度のことであったら、彼女はわざわざ僕に報告しない。

 恋人となるのを断った紫苑は、それでも茜には友達として、むしろ親友として傍にいてほしいと願っている。そこに残酷な面があると彼女はみなしているだろう。もしも仮に、紫苑が誰にも恋していなかったのなら「試しに付き合ってみたら」と僕は提案したかもしれない。現実としては紫苑は朋香に恋している。そうだ、茜と同じく女の子に。

 そんなわけで紫苑はかねてより茜との距離を戻したがっていたものの、オープンキャンパスにふたりきりで行くのを誘ったのは、茜であるそうだ。彼女がどんな想いで紫苑を誘ったのか。彼女はまだ「好き」を諦めていないのか。僕にはわからない。


 紫苑には決して言わなかったが、茜と紫苑とが結ばれる未来も想像してみた。その二人が両想いとなり、朋香は過去の傷を、そのもはや叶わぬ恋であり愛を時間をかけて受容していく。ついでに触れるなら響子は例の彼氏とうまくいく。

 それでいいんじゃないかって。朋香には悪いけれど、互いに傷を舐め合って、喪失を埋め合って、じりじりとその身を焦がしていくよりは、紫苑の隣にこれまで一年ほどいて、ずっと見てきた茜が紫苑の特別になるほうが平和的な気がした。

 

 なんだったら白状してしまうと、そこに恋愛なんてなかったらいいのにと、そう思う僕がいた。それは紫苑を僕なりに大切に想うあまりの嫉妬ではない。そういう感情があるのなら、とっくに僕は朋香に紫苑が傷ついてなお近づこうとするのを止めている。必死で。

 では、どういうことかと言えば、彼女たちが友達同士であったら、ごくありふれた関係であったなら話はこじれなかっただろうなって、そうシンプルに考えたわけだ。


 無論、彼女たちの恋心を無下にすることは僕にできない。

 いや、誰にもできないのだが。




 僕が知らなかったのは、朋香と響子の二人が僕の通う大学に、オープンキャンパスを申し込んでいて、そして僕が属する文学部に朋香が関心があって、さらに直に目にする彼女はあの日紫苑に写真で見せてもらったときよりもずっと綺麗な子であったことだ。


 記憶に残らないだろうなと思っていたから、そうやって忘れていたから、紫苑からどんなに話を聞かされてもそれは僕ではなく彼女の物語の登場人物であったから。単なる受付係担当の僕がそのオープンキャンパス当日に朋香と邂逅したとしても、何ら特殊な反応は示さずに挨拶を交わして、フリーペーパーを挟みこんだパンフレットを渡してそれで終わりだったはずなのだ。

 けれどもそうはならなかった。


 受付にきた朋香を目にしたとき、思わず固まってしまい、パンフレットを渡しそこねた。わかった、彼女こそが西原朋香だと。記憶が結びついた、あの写真に。

 たとえそうであってもさっさとパンフレットを渡してしまえばよかったのに、その端をぎゅっと握ったままになってしまった。それで朋香が「え?」と僕と目を合わせた。大学という彼女にとって不慣れで未知な、おそらく一つの憧憬たる環境下で泳いでいた視線が、地味で目立たない僕と合ってしまった。

 決め手は隣の同じ学部の女の子からかけられた声。彼女はそんな時に限って、わざわざ「中野くん、どうしたの?」と僕の名を呼んだ。スタッフ証には記載されていない苗字。個人を特定し得る記号。

 

 ああ、すみません、なんでもないですと僕が言う前に、朋香が口にする。「もしかして、紫苑のお兄さんですか?」と。僕はパンフレットを離す。彼女がそれを受け取る。そして僕は…………肯く。


 紫苑が朋香に自身の過去と今とを話したのなら、この巡り合いは運命的と呼んでもいいのだろう。



 

 午後五時。スタッフたちだけの反省会を終えて、軽い打ち上げに僕も誘われたが泣く泣く断って、僕は約束の場所へと向かう。打ち上げに誘ってくれたあの子ともしかしたら懇ろな関係になれたかと思うと、悔しい気持ちもあった。同じ学部の女の子といえども、まともに会話をするのなんてたぶん入学して初めてじゃないか。

 紫苑と話すのとはまた違う。不思議と緊張しなかったのは、ある意味で紫苑のおかげなんだろうけれど、とにかく連絡先は交換できたからワンチャンあるかも?

 それはそれとして、僕は最寄り駅へと向かう。そこが約束の場所。

 朋香との待ち合わせ場所だった。


 あの時、彼女の問いかけに肯いた僕に「もしよかったら……」と彼女からオープンキャンパスの後で話したいがあるから時間を作ってほしいと頼まれた。

 他の学生の目と耳があったものの、朋香の声色と表情を見聞きすればそれが僕への好意から出た発案でないのはわかったと思う。そしてそうであったからこそ、僕はその頼みも受け入れた。

 

 似ていると感じた。紫苑が僕に相談してくるときの声。真剣なだけではなく、密やかで、どこかメランコリックなムード。それを彼女も持っていた。僕が経験値が少ないだけで、ひょっとすると十代の女の子は皆、そういう心をかき乱す発声を習得しているのかもしれない。


「そういえば、私服で来たんだね」


 駅で合流してどこか手頃なカフェにでも入ろうとして、歩きながら僕は言う。何か口にしないと気まずくて耐えられなさそうだった。


「私は制服のほうが楽でよかったのですが、響子がどうせならおめかししていこうって。大学生になったら私服が普通でしょって」


 その響子は既にいない。先に帰ったのだ。響子にはきっと僕と会うのは伝えていないのだろうな。適当な理由をつけて駅に残ったのだろう。紫苑から聞いている話では、響子はさほど詮索好きでもないし。


「似合っているよ」

「あ、ありがとうございます」


 ダークカラーのブラウスに、花柄のスカート。よく大学構内でも見かけるワンツーコーデってやつ。後ろ姿だけなら大学生とそう変わらないし、間違えられると思う。ただ、その顔は僕が普段、学内で目にする似たり寄ったりなメイクはされていない。高校生っぽい。端的に示すなら。

 勝手なイメージとして、朋香は紫苑と同じく、どちらかと言えば白系が好きなのかなって思っていたが暗い色のトップスだ。大人を意識したのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、何軒か手頃な店を通り過ぎてしまう。疚しい気持ちはないのに、もしも誰か知っている人に会ったらと臆して、なるべく人気のないところになんて。でもそれって、朋香にしたら不審を通り越して恐怖かも、そう思い直してようやくチェーン店のカフェに入った。

 

 学生街だけあって学生が多い。長居するかどうかは朋香しだいだ。もしも彼女が紫苑並の長話をする気なら、途中で夕食を摂ってもいいよな。ただ、そうなると朋香の分も奢るのがマナー……なのか? 金欠どうこうよりも、見栄を張る相手でもないか。


 向かい合って座ると、どうしても朋香の顔を見やってしまう。

 僕はそこに運命的な美しさを見出せなかったが、でも、変な話、紫苑が一目ぼれしてしまってもおかしくないというか、なるほど、表現し難い魅力がある子だと素直に感じた。

 僕らはとりあえずアイスティーを注文した。


 話を切り出したのは朋香だった。僕はそれを待っていただけだ。アイスティーが運ばれてきてから数分が経っていた。アールグレイ。アイスでも柑橘系の香りがして、渋味が薄く飲みやすい、たぶん。


「紫苑は私にとって不思議な子です」


 ちょうどグラスの中の氷が少しずつ融け、からんと音を立てるみたいな話し方だった。


「他のクラスメイトたちにとってはそうでもない?」

「天邪鬼だとか、ちょっとひねた感じなんてふうに言う子もいます。べつに悪口ではないんだと思います。私もそう思うときがありますから。そんなに噂されるってわけでもないですが。私たちってクラスで言えば目立たないグループですから」

「そして君は紫苑を不思議だと言う」


 話を一周回して、僕は確かめる。


「どことなく、ほうっておけないんです。素直じゃないってだけで済ますには足りなくて、なんだか、うん、今だから言えるのかもしれませんが、どこか寂しがっているような」

「そういうところは似ている?」


 朋香は僕を見つめる。もしも「誰と?」なんて訊き返されたらどうしようと内心はひやひやとしている僕がいる。


「そうですね……似ています、茉莉花と。同じではないけれど」

「他に君は、紫苑のことをどう思っている?」


 本人がいないのにあれやこれやと話すのは信条に反するが、考えてもみれば、僕と紫苑は朋香たちについて、そうした態度をとり続けてきていた。たとえ、それが紫苑からの一方的な話であっても、僕はそれに耳を傾けていたのだから同じことであった。


「茉莉花のことがなければ、なんて仮定はしたくないですが、それでも、もしそうだったとしたら、私たちはもっと普通に仲良くなれるのだと思います。大切な友達として。今だって、紫苑を憎く思ったり、嫌いになったりなんてしていません。

 でも……」


 朋香はしだいにその視線を僕からテーブル、そこにあるグラスに移す。

 それはだんだんと周りの空気を冷やして、水滴を付着させていき、じっと見ているとそれが垂れていくのがわかる。


「紫苑には紫苑の想いがある。もちろん、西原さんにも」


 意味ありげなようで、しかし当たり前である僕の言葉に朋香はしおらしい相槌を打ってくれた。


「紫苑が私を友達以上に想ってくれるのを信じるのには時間がかかりました。それは最初、茉莉花を失った私が新しくできた友達に、彼女を重ねてしまっているから、だから、紫苑の表情に特別を見てしまっている、幻想を抱いているんだって。

 よく考えたら、変ですよね。紫苑のことを特別に想うのではなくて、紫苑が私を特別に想っているんだって考えたんですから。どれだけ自意識過剰なんでしょうね」


 自嘲気味な笑みが大人びていた。


「けれども、幻想じゃなかった」


 僕は朋香が望むままのセリフを読み上げる。そうして彼女は再び淀みなく、話し始める。


「はい……日に日に『もしかしたら』が『たぶん』に変わり、その『たぶん』が『きっと』に変わっていったんです。でも、天文台に行ったときだって、確信していなかった。心では、そんなわけないって、そう信じている部分もありました。そうでないといけません」


 きっぱりと朋香は。

 僕は彼女が相反する二つの心情を求めた理由をあえて訊きはしなかった。想像はする。茉莉花のことを想ってなのだろう。紫苑よりもむしろ。


「プラネタリウムを観に行ったあの日、紫苑に言われて私は夜空を最後に見たのはいつだったか思い出しました」

「教えてくれる?」


 彼女は言い淀む。そして「紫苑には話していないんです」と前置きしてから話し始める。


 「それは茉莉花が死んでしまう数日前、年が明けてすぐの夜のことでした。……最後に彼女と話した夜のことです」 

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