26 少女への親愛を伝える
茉莉花が亡くなった日を朋香は憶えていない。
それが年明けすぐの出来事で、三学期の始業式の数日前であったのを彼女は知っている。他にも、たとえばそれが交通事故によるものであったが、彼女の身体は綺麗なままで、脳の重要な機構を別にすれば損傷らしい損傷がなかったのが極大の不幸中の極小の幸いだったことも知っている。
見通しの悪い道路で悪天候による視界の制限、そして打ちどころが悪かった少女。
何から何まで茉莉花に罪がないのを、彼女が純粋に被害者であり、突然に未来を失った高校一年生の女の子であるのを皆が吹聴し、証明し、記録した。
いつしか、それは実のところ半月に満たない期間であったが、世間が少女の死を記憶から消して、別の死や生にかかりきりとなった頃、朋香は彼女自身を取り戻す。
朋香は彼女の親しい友人たちやクラスメイト、また茉莉花の家族がどんなふうに茉莉花を弔ったのかを知らなかった。なぜなら茉莉花の死後、朋香は一日の大半を自室のベッドで過ごしていたからで、そこには生暖かな眠りと冷酷な覚醒、そして生きている身体が避けられない欲求がいくらか住み着いているのみだったから。それでも半月後には自分を取り戻した。
それは幸せなことだと思う。それは決して忘却でも克服でもないが、しかし今を生きて明日を迎える者として、死人みたいに生きるのは幸せとは言えないだろうから。
ふたりの最後の思い出はクリスマスにあると朋香は紫苑に語った。初詣は互いの家の都合もあって一緒に行けなかった。
「友達四人でクリスマスパーティーをしたの。恋人がいない女子四人。例のカップルは当たり前のように二人きりで過ごしたみたい。
茉莉花と仲直りできてよかったねと改めて言われたのを思い出す。私がそうねと受け答えながら茉莉花を見たら、あの子は微笑んでいた。無愛想が板についている彼女でも、一年に一度ぐらいは、心の底から楽しめる日があるのだと感心した。ううん、いくらなんでも大袈裟だよね。
図書館での仲直り以降、私は茉莉花とそれまでの関係、つまりあのお見舞いしたときよりも前のふたりに戻ろうとしていた。彼女もまたそう努めているみたいだった。おかしなものだと思う。だって、そうでしょ? どうしようもなく好きだと、狂ってしまうのだと話した茉莉花が、あの茉莉花が我慢し続けて、笑顔まで見せてくれて、私の傍にいてくれているだなんて。もしかしたら私の記憶違いなのかもしれない。あのパーティーの間中、本当はつらい気持ちをどうにか誤魔化していたのかもしれない。
パーティーが終わった後、私たちは二人で帰った。私たちの住んでいた町は、ここと同じで冬に雪なんて降らないの。降っても粉雪。その日もホワイトクリスマスにはならなく、ただ夜風が寒かった。午後八時過ぎだったかな。どんなに遅くとも九時には帰ってくるよう親には言われていたから。パーティーでは、例のカップルは朝帰りになるのかな、なんてことも話したっけ」
帰り道。誰もいない公園に差し掛かったところで、茉莉花が朋香の手を握り、引っ張り、公園へと連れ込んだ。朋香は驚きはしたものの、拒まなかった。拒めなかった。繋がれた手。手袋越しなのが残念だと感じさえした。
頼りなさげな街灯の直下から少し外れた薄闇までいくと、茉莉花は朋香に言う。
「わたし、これからあんたにキスするわ」
僕が思うに、それは茉莉花の短い生涯、その儚い歴史においては大国の独立宣言より何千倍もの価値があり、もしかすると数多の汗や涙、血が流された結果、たどり着いた宣言で、そして交渉だった。
もしも茉莉花が朋香に口づけること、それのみに執着していたのなら、それは宣言などせずに、黙って、迅速に、すなわち朋香がそれを拒絶する余裕を生まない状況下でなされるのが妥当であった。
その少女にとってそうする度胸が欠いていたのではなく、そんな闇討ちが本望ではなかったとみるのが適当だと僕は思う。
「口に?」
面食らった朋香はまず、そう確認した。その声は裏返ってしまったので、茉莉花に「え?」と訊き返されてしまった。それで朋香は改めて「口にってこと? 私、初めてなのよ」と言った。
「口でなければあるの?」
「ないけれど」
物事を厳密に、神経質に算出するのなら、幼子であった頃にたとえば頬にでも身内からされたことがあるような気もしたし、自分からした気もしたが、それを持ち出すのが今、どんなに場違いであるのかを理解できるほどの理性が朋香に残っていた。
「そう。そうでなくては困るわ」
茉莉花の声には希望が宿っていた。
「うん、それが確かめられてよかった。もし仮にここで、わたしが知らないところで、たとえばクラスの男子、わたしが一度も話したことのないやつにでも唇を奪われていたと告白でもされたら……………そう、絶望ね、わたし、絶望しちゃうもの。でも、しなくて済んだ」
それから茉莉花は毒づく。綺麗な花のように。
「嫌だったら、拒めばいいのよ」
それは正論のようで暴論だった。
やがて少女たちは唇を重ねた。
「唇が触れあっていた時間はそう長くなかったのだと思う」
朋香は紫苑に話す。
夢を見ているように語る、その様に紫苑は見蕩れてしまう。恋をして、その恋を明かす朋香の姿はたしかに美しく紫苑の目に映っていたのだった。
「好きと言われた。そこそこ鈍い私にも、がつんと衝撃を与えた。魔法をかけられたみたいなんて言ってしまうと、かえって胡散臭いけれど、そんな感じ。私は思わず目を閉じてしまって、それで茉莉花はもう一度、私にキスをした。今度は何の言葉もなかった。たとえばいつか二人で映画館に映画を観に行って暗がりのなかで、近くに感じる茉莉花、その息遣いよりもずっとリアルで色っぽい吐息が私にあたった」
うっとりと朋香は。紫苑は泣くに泣けずに、彼女たちの物語を頭に、心に留めるのに集中していた。
「茉莉花が望んだふうには、私は彼女の好意に応えられなかったと思う。よくて半分。悪くてほんの数パーセント。当然、そんな簡単に形や数字にできたら苦労しないわけだけれどね。
……そのクリスマスの日が生きた私たちが最後に会った日だった。
私は自分から彼女へ口づけることはできずに終わったし、さらに言うなら、一度だって彼女に好きと言えなかった。
それを『言わなかった』と表現することは難しいよ。
ほんとうに馬鹿げた話、私は茉莉花を失ってから、自分の気持ちにやっと決着をつけることができたのだから。もう揺らがなくなったのだから。茉莉花みたいに言うなら、その取り返しのつかない遅れはサイアクってやつで、ううん、絶望ね、絶望。ありふれた言葉だけれど、それが一番しっくりくる。
不誠実なことにそれは今、多少薄れつつある。でもね、彼女がいなくなってから新しい春が身勝手にも訪れるまでの三か月足らずは、希望なんてなかった。編入試験に合格できたのが奇跡だったの。自分の部屋が片づけられ、いつの間にか新しい土地、新しい部屋、新しい制服………。そういったものが私を蝕んでいくなかで、心が壊れずに済んだのは、一つには私が編入するまでの間、部屋に引き籠るのを許す両親がいてくれたからで、また一つにはかつての友人が私を放っておいてくれたから。
そしてもう一つあげるなら皮肉にも茉莉花が私に、その肌の温かさを遺してはいなかったから。もしも、私たちが、より濃密に身体を一度でも重ねていたのなら、そんな間柄になっていたのなら、きっと私はここにはいない」
そして紫苑は目にする。朋香の微笑み。
憂いを彷徨い、どこにもたどり着けない自分自身を嘲笑う者が見せる、優しくて憎らしい微笑み。
「死に損なったってことだよね」
それがその日の朋香の話の締めくくりだった。
またずいぶんと長電話をしている。
紫苑の話が一段落したところで僕はそのことを意識した。彼女はカラオケに朋香とふたりで行ったその日の晩に僕に電話をかけてきたのだった。そして僕はそれに応じた。ただ聞くことしかできない。わかっていながらも、それさえも止めてしまったら、もう僕は彼女の兄ではいられない。でも、もしかするとそれが正しいのかもしれない。最近はそう考えている。本気で。
「それで、紫苑からも話はしたのか?」
「もちろん。それを朋香が望んだ。全部話した。こうやって相談していることだってね。私としても、話をしたいと呼びだしておいて聞くだけで解散なんて嫌だったから。朋香と茉莉花さんの話を聞いた後で話すのはつらかった。人の死に重い、軽いもないと建前で言えても、それでも私の経験した死と朋香が経験した死は異なっていたから」
「西原さんは何て言っていた?」
「どう思う?」
質問に質問で返されてしまった。僕は想像してみる。そのときの状況を。
朋香が茉莉花との過去、その想いと死別を告白して、それに対して紫苑も彼女の過去を明かした。
紫苑自身が言ったとおり、両者の抱える過去に、誰かの死の重さに違いはあってはいけない。いけないけれど、その質が遺された者にとって異なるのも確かだ。
「話が前後するけれど、紫苑は話し終えた西原さんに何か言ったのか?」
質問に質問をさらに重ねた。
「ううん、何も。ただ私はどうにか彼女の手を、膝の上で今にも死に耐えそうな赤ちゃん猫みたいになっているその握り拳に触れて彼女の体温を感じ取っただけ。それから『今度は私に話をさせて』って言って話し始めた。つまり、諦めたのよ。その時点では。私がどんな言葉を口にしてみたところで、その時の彼女の心を死者から生者には向けられないって。それはきっと時間をかけて果たされるものなんだって」
既にこの世にはいない茉莉花を想う朋香。亡くなってからその恋心はついに揺らぎを失い、朋香の胸に深く、杭を打つ。打ち続けている。
それを朋香は少しでも呪縛と捉えているだろうか?
その甘美に朋香は酔っているだろうか?
あるいは世間にありふれた不幸として受け入れ、新しい恋を探す未来を描けているだろうか?
「なぁ、紫苑」
「なに?」
「僕は……紫苑を励ましたい。褒めてやりたい」
「は?」
「他にうまい言い方が見つからない。
でも、冗談じゃなくて本心なんだよ。紫苑が西原さんに本気で恋をしているのはこれまでのやりとりでわかっている。痛いほど、わかっている。僕は結局、傍観者ではあるけれど、でも言わせてほしい。好きな人が自分とは違う誰かを想い続けている話に耳を澄まして、それだけじゃなくて自分のつらい過去を、弱さを打ち明ける。それって勇気のいることだって思う。
臆病者にはできないし、したいと思うこともない。けれど紫苑は西原さんのため、それに紫苑自身のために、それをした。僕はこんなことを言う立場じゃないだろうな。それでも君の踏み出した一歩を讃えたいし、痛みをできることなら和らげたい。
今、素直に君の傍にいられたらって思った。いてあげたいって感じた。それがたとえ偽善であっても、偽物であろうと、僕にできることはしてあげたいって心から願った。
誤解を恐れずに言えば、僕は君が西原さんに寄せる想いとはべつの形で、そして君の家族が君を大切にするのとはべつの形で、愛している」
ありがとう、と聞こえたのは永遠を思わせる長い沈黙の後でだった。
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