25 少女は想いを口にできない

 紫苑と朋香、ふたりきりのカラオケ。でも一曲も歌っていない。

 

 規則的な波の音がする空間で、朋香が微笑み、紫苑は肩の力を抜こうと躍起になっていた。両隣の部屋で誰がどんな歌を何のため、誰のために歌っているかを考える余裕はなかった。


「あの日を境に、私たちの関係が変わったのは確かだった。茉莉花は私に幻滅しろだなんて叫んだけれど、本心でないのは誰だってわかる。大切な人に愛されるよりも拒まれるのを真剣に願う。そんな状況を私は、本の中やその他の作り物のなかでは知っているよ。私と茉莉花の関係は複雑に見えてものすごく単純。紫苑、私の言いたいことをわかってくれる?」

 

 問われた紫苑は用心深く口にする。


「ようするに茉莉花さんは朋香に愛されたがっていた……?」


 紫苑の答えに朋香は「当たり前だよね」と唇を噛みしめた。


「結局、茉莉花があの日、あんなことを打ち明けたのはそれを隠したまま私といるのが辛かったから。言わずにはいられなかった。それが意味するのは私に受け入れてほしいってことで、そのうえで嫌われないでいたいってことだものね。シンプル。そのはずだった。でも、こういう考察って今だからできるの」

 



 その日から茉莉花は朋香を遠ざけた。

 彼女が部屋に引き籠らなかったのは、じっとしているのが性に合わなかったのだろうし、そこは堅固な壁で囲まれた城の中のお姫様にあてがわれた部屋でないのを知っていたからだろう。彼女の弟や両親が、友人である朋香を招き入れる状況というのも容易に想像できだはずだ。


「さっき話した四人の友達が私と茉莉花のことを心配してくれた。けれど、こじれると嫌だからそっとしておいてほしいと、できるだけ冷淡に伝えた。自分で言うのもおかしな話、私はみんなに冷たい態度をとった覚えはそれまでなかったから、そうするのが一番、みんなが事情の深刻さを察してくれると思った。私の要求に応えてくれるのではないかと期待したの。

 そうしてみんなは私たち二人を放っておいてくれた。もしかしたら、私の知らないところで、それとなく茉莉花に話しかけてはいたのかもしれない。あるいは最初から他の四人にとって茉莉花は、私という友達の友達でしかなかったのかも。今はそんなのどうでもいいかな」


 朋香は、登校時に玄関で茉莉花に挨拶をしても無視され、お昼休みになって一緒に昼食を摂ろうとすれば、どこかへ行かれて、日曜日にどこか遊びに行こうよと誘うと、怒鳴られたり、涙目になられたりもした。そんな調子だった。

 

「しつこくはなかったと思う。気味は悪かったかな。茉莉花とそれまでどおりに過ごしたいってのは嘘ではなかったし、そのためだったら、あの痛くない平手やローキックを三、四発ぐらいなら受けたってよかった。でもあの子は触れてこなかった。私との距離を物理的にもとっていたの。そうして私は、自分の恋心が揺らいでいるのがわかった」


 十月半ば、茉莉花が朋香を図書館に呼び出した。

 その前日にあたる金曜日の夜。テスト直前ということもあり、朋香は自室で机に向かって勉強をしていた。二年生時からの編入には、前もってペーパーテストがあるのみならず、履修および単位修得状況が関係しており、既に後者については問題ないようだと調べがついてはいたが、それでも赤点をとるわけにはいかなかった。そんなわけで朋香が茉莉花の件が常に頭にありながらも、勉強に精を出さねばならなかったそのときに、その茉莉花から連絡がきた。


『明日 図書館で勉強会 午前十時集合』というのがそのメッセージの文面だった。誘い文句にしては、個人のメモ書きめいていた。図書館は近辺だと候補が一つしかないからそこでは迷わない。集合場所は、おそらく出入り口付近だろう。寒いから外で待ちはしないはずだ。

 午前十時になっても姿を見せなければ連絡を取ればいい。

 断る選択肢は最初からなかった。もしもそのとき他の避けがたい予定があったとしても茉莉花を優先したと朋香は話した。


 図書館に着くと、制服姿の茉莉花が果たして館内に入ってすぐのところで待っていた。五分前に来た朋香を見やると、そのまま歩きだす。二階へ。そこに自習室があるのは知っている。夏に、そうだ、転校なんて夢にも思っていなかった夏に彼女と何度か二人で来ている。そのときも登校日でないのにお互い制服だった。一番勉強するのに適した服装だと両者で意見が一致した。

 

 そして黙々と二人は勉強に励んだ。静まり返ったその空間で教え合うこともなかった。それぞれでやるべき課題をこなした。途中、昼食を摂る際には一人ずつ外へ出た。一方が食事を済ませる間、もう片方が荷物番をしていた。自習室の利用者は多く、そのようにして席を確保しておく手段をとった。

 それがマナー違反なのかどうかまで考えないようにしていた。夏に一度「失敗」してしまって二人で昼食から帰ってきた時に席がなかったのを思い出す。「椅子取りゲームなんだよ、人生と同じ」と茉莉花が溜息をついていたのが記憶にある。あの後はどうしたんだっけ、茉莉花の部屋にでも行っただろうか。朋香はもう夏がずいぶん遠くにあると感じた。


 午後三時を過ぎた頃、茉莉花が帰りの準備をし始めた。

 何の予告もなしにそうするものだから、朋香は歴史用語の暗記を中断せざるを得なかった。そうして二人は図書館を出た。大きく伸びをしながら、身体を軋ませ、音を鳴らす茉莉花に朋香は「明日はどうするの?」と訊ねた。月曜日から試験が始まる。


「あのさ、他に訊きたいことないわけ?」


 茉莉花は足をとめて棘のある声で朋香を刺した。そのときの朋香は疑問や言いたいことを上手にまとめられなかった。単純に疲れていたからだ。だから思いつくままに話した。


「……もし私が待ち合わせ時間に来なかったら、茉莉花は待っていてくれた? 私が来るまでずっと。それともすぐに連絡してくれたかな。ううん、きっと一人で勉強し始めちゃったんだろうね」

「自己完結しないでよ」


 その日初めて、茉莉花の口許が緩んだ。つい笑ってしまった、そんな雰囲気だ。


「私だったら、たぶん待つよ。一時間ぐらいなら。もちろん、連絡だってする」

「わたしだってあんたが思うほど薄情というか、無責任というか、そういう人間ではないわ」

「ねぇ、茉莉花」

「なによ」

「私は寂しいよ」

 

 朋香はそう口にして、そうだったんだと発見した。

 自分はあの日から、つれない態度をとり続けている茉莉花に異存があって、それで元の状態、友達らしい関係を取り返そうとしていた。あくまで友達らしい関係を。

 夜な夜な枕を濡らすほどの寂寥感を抱いていたのではない。その寂しさは、それを言葉にしてみて、ようやく朋香に降りてきたみたいだった。茉莉花は朋香の告白に苦い表情をみせた。


「でも、それは時間の問題なのよ」


 諭すような口調の茉莉花だった。けれど痛ましい声でもある。


「茉莉花、怒らないで。それに悲しまないでね」

 

 朋香は半歩、彼女に近づく。


「たしかにあなたのいうとおりだと思う。私はこのままあと一カ月もすれば、あなたと話さない日々に慣れるかもしれない。あなたがしていたことを軽蔑して、きれいだった思い出までも駄目にするかもしれない。だからこそ、そうはなりたくないから、私は……」

「ダメよ。わたしはあんたと友達という関係で満足できない人間なのよ。これも時間の問題かもしれないわね。でも、今このときとは、そう、今この瞬間だって――――好きなのよ、どうしようもなく。あんたのことが」

 

 茉莉花が一歩離れて、朋香が二歩近づく。


「ねぇ、私以外の女の子には欲情しないの?」

 

 平手が飛んできて、朋香はそれを躱さない。存外、痛かった。


「あんた、バカじゃないの?」

 

 朋香は頬にひりひりとした感じを残したまま、涙目の茉莉花を抱きしめる。朋香の記憶のうちで、それはゆっくりとした動作であったにも関わらず茉莉花は抗わなかった。そして抱き返しはしなかった。朋香は泣かない。そこに至るまでにあった寂しさは涙では語れない。朋香は言う。


「ごめんね、茉莉花…………ほんとうに、ごめん」

「なんであんたが謝るのよ」



 

 朋香はに言う。


「後にも先にもそんなふうに仲直りしたのは初めてだった。私たち二人はそれまでに小学六年生の頃から大きな喧嘩を二度していたけれど、どちらとも茉莉花から謝ってきて、私はそれを赦すという形だった。私は茉莉花に謝ってほしくなかった。彼女がその秘めた想いをああいう形で告白しなけれならなかった、その状況を作り上げた自分が悪いと感じていたの。そして自分の想いに決着をつけらないことにも。だから、謝った。赦されたかったのは私なの」




 図書館裏の人気のないベンチ。朋香と茉莉花は並んで腰掛けた。

 空は晴れて、太陽も輝いているのに、寒い。秋がもうすぐ終わるのだとわかった。


「どうしてわたしばっかりドキドキしなきゃならないのよ。こんなのってあんまりだわ。正直、サイアクよ。それとも…………朋香、ひょっとしてあんたも少しは意識してくれているの」


 縋るようでもあった。朋香は飾らずに応じる。


「茉莉花、言葉どおりに捉えてね。私は、あなたを恋愛対象として意識したことがあるわ、本当よ。待って、最後まで聞いて。今はその可能性がなくなった、だとか、ましてや嫌いになったとかではないの。ただ……よくわからないだけなんだと思う」


 茉莉花は眉間にしわを寄せ、それから叫びそうになって、でも、その口は閉じられて、それから深呼吸をして自分自身を落ち着かせて、しばらくすると果たして泣き出してしまった。朋香にとって幸いだったのは、彼女はすぐに泣き止み、しかも泣き声をあげなかったことだった。


 好きと一言口にできたのなら。

 せめて代わりに彼女の震える唇を、自分の唇で塞げたのなら。

 

 あの日、転校を茉莉花に告げ、涙を流した時に感じた愛は嘘ではない。強く、信じた。彼女が自分を恋慕うのを信じるのと同じく、自分が彼女を想っているのだと。茉莉花への想いは消えてなどいないのだ。


 それなのに。

 あと一歩が、その言葉が出てこなかった。それを純心ゆえの乙女の恥じらいであったり、避けられない別れを前にして想いを伝えるの臆してしまっただけだったりと判断してしまえば、陳腐でお粗末なのだろう。朋香にとって割り切れず、解き明かせない、胸のつっかえがそこにある。

 

 人は過去を振り返るとき、その時の行いにほとんどすべての場合に付随しているはずの思考や感情を一ミリのずれも許さずに再現できるのか? できないと僕は思う。それは新しい小惑星を発見することより難しく、その身一つでこの銀河を出ようとする挑戦だ。だから今なお朋香はその頃の気持ち、なぜ好きと茉莉花に言えなかったのかの答えにたどり着けないで苦悩し続けている。

 

 彷徨い続けているのだ。

 遥か昔に打ち上げられた宇宙探査機みたいに。

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